2014年12月14日日曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版2)

 この作品は、「守山未亡人千賀子さん」宛の、3通の手紙から成り立っています。しかし手紙の主は誰なのか分からず、作中の所々では、「ー猫でさえも。」「ーまるで白痴のように。」と、あたかも千賀子の言葉を想定しているかのように、彼女の台詞が書かれています。
 そしてその主は、どうやら未亡人たる千賀子を労る目的で手紙を書いているのではなく、彼女のいちいちの行動を批判する為に書いているようです。例えば彼女が思わぬところから50万という大金を持ち、候補者の奥さん達から立候補をすすめられ選挙に出馬しようとしたこと。好きでもない高木くんという年の離れた青年に色目を使い、誑かし、その反応を楽しんでいたこと。またその言動は常に千賀子の様子を何処かから見ているかのように、家の中の様子までありありと書かれているのです。
 そんな手紙の主も唯一、彼女が夫の墓参りに行った時の様子だけは評価しています。主曰く、彼女にはその時、考える事など全くなく、まるで「すっきりとした白痴」のようであったいうのです。一体手紙の主は何を批判し、何を評価したのでしょうか。

 この作品では、〈夫の死の悲しみを忘れようとするが故に、かえって過去の自分からそれを責められなければならなかった、ある未亡人〉が描かれています。

 ここでは手紙の主がまるで千賀子にぴったりとくっついているかのように、彼女の行動を知っていたこと、何故か手紙の中に千賀子の台詞らしきものが書かれていることから、手紙の主が、心の中のもう1人の千賀子だったと推察し、そう仮定した上で話しをすすめていきたいと思います。また論証しやすいように、手紙の主たる千賀子を手紙の千賀子と呼び、彼女自信の意思決定をして行動している千賀子を未亡人の千賀子と呼ぶことにしましょう。
 あらすじの通り、手紙の千賀子は未亡人の千賀子の、選挙に立候補した事や、若い青年の心を弄んだ事を非難しています。また手紙の彼女は自分自身を非難する時、猫が昼寝をしている時の様子やヒキガエルの生殖活動と比較され、それらよりも愚劣であると指摘されているのです。彼女曰く、そのどれもが彼らよりも純粋なものではないといいます。選挙の事も頭に朧気に浮かんだだけの事であり、勿論高木くんを弄んだ事だって単なる暇つぶしでしかあり得ません。
 では守山千賀子は一体、本心として何をしたかったのでしょうか。それこそが墓参り、つまり夫の死と向き合う事だったのです。恐らく彼女は何かをしていないと夫の事を考えてしまうために、選挙活動をしようと思い立ったり高木くんを弄んだりしたのでしょう。だからこそ彼女は夫のお墓の前では考えることをなくし、「すっきりとした白痴」となっていったのです。
 やがて夫の死を受け入れた千賀子は、再び活動活動と頭をいっぱいにして、自分の悲しみを紛らわそうとしていったのでした。

2014年12月11日木曜日

レポート;氷点(上)

◯85.5啓造は、人の心がいつも論理に従って動くもののように考えているらしかった。
夏江はルリ子を失った事への耐え難い苦痛から、子供を欲しがった。しかし啓造は、彼女が村井とは最早共に過ごせず寂しく、またルリ子も殺されてしまったが故に、ルリ子の後釜を探し自分の感情を満たそうという、合理的な判断を下していると思った。
これは事件の直後、夏江がルリ子を放置し、村井と不貞をはたらいた事に対し、啓造が根に持っていることからきている。そこから彼の中のストーリーは次続きになっており、また夏江のという妻の像も、そこを起点としているからこそ、女としての彼女を疑っているのである。

◯101・1人間の身勝手さは、自己本能のようなものかも知れなかった。
事の発端は夏江がルリ子の存在を無視し、村井と淫らにも不倫しようとしたことから起きている。その為にくなって彼女は自分を責め、心を病んでしまっていた。
ところが病んでいくうちに、自分の殻に閉じこもり周りが見えないった。すると自分の中で、それまでの過程はなかったことになり、耐え難い辛さだけが残っていったのである。そこから夏江は自分だけが辛い思いをしているような錯覚に陥っていった。そうして彼女は自らの罪悪を忘れていき、所謂、悲劇のヒロインになることによって、自らを責めるどころか慰めていき、健康を取り戻したのである。
そしてそれまで自分を責めていた過程を忘れてしまった代わりに、自分以外の何かに原因を求めるようになり、結果として自分に言い寄ってきた村井を悪者にすることで、自らの潔白を自らに証明しようとしたのだ。

◯154ー2夏江のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。
夏江は貰ったばかりの子供に対し、貰い子と世間に知られてしまっては可哀想だ」という理由から、旭川に戻らず札幌に残るという気遣いを見せた。啓造はこうした夏江の、貰ったばかりの子に対し、すぐに情を寄せている態度を避難しているのだ。しかも旭川には彼女の実の息子の徹もいる。それなのにその子供の方へ気を遣う事が啓造には尚更許せない。そこが夏江の行動を非社会的と指摘した所以である。
そしてこれは一見、母親としての母性が働いているように見えるがそうではないのだ。彼女は誰かの子供を貰うことで、「自分の子供を貰った」という所有欲で自分を満たそうとしているのである。よって夏江がその愛情を向けている対象は子供自身ではなく、自分自身だというところも指摘し非難しているのだ。

◯190・1啓造はルリ子の死以来、夏江を憎みはした。
啓造は自分を裏切り、ルリ子が死ぬ原因をつくった夏江を憎んだ。そして今度は彼が夏江を追い込み、傷つけ復讐しようとして、犯人の娘である陽子を養子として貰ってきた。
しかしそれは同時に、夏江に対する愛情の裏返しでもあったのである。本当は自分を裏切らず、村井の相手をせず、ルリ子と共に自分の帰りを待って欲しかったという夫としての願いの裏返しからきているのだ。だからこそ啓造は、夏江を憎みはしたものの、逆に憎まれる覚悟はなかったのである。彼にとって夏江は、常にいかなる時でも彼を愛し慕う存在でなかればならなかった。

◯250・7夏江は鏡の中の自分に誓うように、声に出して大胆につぶやいた。
誰の子かは自分には告げず犯人の子供を貰い育て、自分に情が湧いた時点で全てを明かし復讐しようという恐ろしい夫の計画知った時、夏江はひどく動揺した。そして気を落ち着かせるために化粧をはじめていく。もともと無条件で美しいものが好きな彼女は、自らが美しくなることによって気持ちを保ち、自信を持っていったのである。
やがて美しくなり気を落ち着かせた夏江は、今度は実の夫に復讐の炎を燃やしていった。そしてそれまでの弱っていた彼女を写すのではなく、鏡に写る美しい夏江を見ることで復讐する決意を固めようとして、「そして、いつか身も心も辻口をうらぎってみせるのだわ」と大胆にも口にしたのである。

◯254・10「あのね。おとなは眠らなくても夢をみることがあるのよ。」
犯人の子を妻には知らせず、その愛情が十分注がれた時点で真実を話し貶めてやろうという啓造の恐ろしい計画を夏江は知った。そしてそれを知った彼女は、夫の計画の道具であり、自分が愛情を傾ける陽子を見た時、夫への憎しみが溢れ出し自らの手にかけようとしたのである。
ところが陽子がいざ苦しい表情を見せると、今度は愛情が顔を出して、後悔が彼女を襲いはじめた。そして最早その時には、自分が何故陽子の首を絞めてしまったのか分からなくなっていたのである。また、首を絞める前と絞めた後の、陽子という対象を見た時の感情の表れ方のベクトルがあまりにもかけ離れていた為に、まるで夢でも見ていたかのように思い、そのような表現を用いたのである。

◯339・3夏江は久しぶりに、きげんのよい笑顔をみせた。
自分への復讐を企てている夫と我が子を殺した犯人の娘である陽子がいる我が家は、最早夏江が心落ち着かせることができるところではなくなっていた。またそうした夫に復習し返してやろうと、嘗ては自身も心惹かれ、共犯者として仕立てあげようとした村井も、以前のような外見的な魅力はなくなってしまい、彼女もまたそんな彼を頼ろうという気持ちは起きなくなってきている。夏江の手近には、彼女の安らげる場所はなかった。
そんな時に啓造の京都への出張話が舞い込んできたのである。京都には彼女の実の父もいるのだ。四面楚歌のような状況の中で、夏江は久しぶりに自分の心を落ち着けられるような場所に帰省できるかも知れない喜びの為に笑顔を見せたのである。

◯341・3そう夏江は、村井にいいたかった。
夏江は自分に復讐せんとする夫に対し、復讐し返す為には、夫が不倫相手だと思い込んでいる村井に対し、好意を寄せることが効果覿面と考えた。しかしその村井はというと、嘗て淡麗だった容姿は失われ、輪郭がぼやけ太っていった。彼は数年の療養生活によって心身共に疲れていってしまったのである。
しかし夏江には外見がみにくい人間をどうしても愛せなかった。これは夏江にしか通らない論理であり、それは悪ですらある。それと同時に美しいものは無条件で好きであった。よって、夏江にとって村井は、いつまで経っても美しくなければならず、病気とは言え醜くなった者に同情する気にはなれなかったのである。
またそれによって、自分が考えていた計画が破綻してしまった事も夏江には我慢ならなかった。結果、自分が愛する対象としても、計画の共犯者としても彼女は村井を受け入れられなくなっていったのだ。

◯362ー3徹は少年らしい、妥協を許さぬ態度で憤慨した。
中学生だった徹にとって、父が突然の不慮の事故でこの世を去るかもしれない事が、世の中であってはならない不条理に思われたのであろう。彼は常日頃から、自身の両親に関しては口では言わずとも自慢しているところがあり、理想の存在なのである。その理想の父が、父としての責任を全うせずに、突然死ぬ事などあってはならないように思っているのだ。

2014年12月4日木曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版)

 政界を裏で牛耳っていた守山氏の夫人である千賀子は、ひょんな事から自分のもとに50万円が舞い込んできたこと、お茶の集まりの際に政界の夫人から立候補を後押しされた事をきっかけに、選挙への出馬を決意していきます。
 ですが、そうした彼女の行動は、他人からはどうにも不順にうつってしまうようです。代議士に立候補した事も、ぼんやりとそれが自分がすべきものだと考えていただけに過ぎませんし、未亡人の身でありながら一回り以上年下の高木を誑かそうとした事も、決して本気ではありません。それもこれも、どうやら彼女が未亡人故だかららしいのです。
 しかし、そんな千賀子が家の者に選挙への立候補を宣言し、自身がまずすべきこととして、夫の墓参りに行った時のことでした。手を合わせている彼女は、「すっきりした白痴」のように何も考えてはいませんでした。代議士に当選すること、3年前に亡くなった夫への助力もなく、霊界への祈念もありません。無心だったのです。
 そして白痴となり、気持ちを新たにしたはずの千賀子ですが、活動活動に追われる日々に飛び込んでいった中で、その目をありふれた未亡人のように、濁らせていくのでした。

 この作品では、〈夫の死を受け入れようとするが故に、夫の影を背負っていかなければならなくなっていった、ある未亡人〉が描かれています。

 結論から申しますと、未亡人が未亡人たる所以というのは、常に夫の影がそこにつきまとっているからに他ならないのです。出馬を立候補した時も、高木を弄んでいた時も、その背後には常に故人守山氏が顔を出していました。そして千賀子はその度に、ある一面からは厚生参与官の妻、またある一面からは1人の男の女として見られていたのです。またそれらの面は、世間から未亡人としての同情をひいたり、いやらしく艶かしいものを感じさせたりするには十分過ぎる要因でもあります。そして彼女はこれらを自覚していたからこそ、そのいちいちの行動にはついつい不純さを感じてしまうのです。
 ところが、亡き夫の墓参りに行った時、彼女には考えというものは何もありませんでした。つまり千賀子は夫と対面したことによって、1人の男の女に戻り、守山氏と共にいた頃の彼女に戻っていったのです。
 しかしお参りが済むと、再び夫がいない現実の世界に戻り、未亡人としての千賀子に戻っていきます。そしてありふれた未亡人は活動活動に浸っていく中で、夫の影を周囲にちらつかせていきながら、それを武器に世の中を歩き渡り、瞳を濁らせていくのです。

2014年12月1日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版)

 ある時、山鳥を捕まえた山男は、嬉しさのあまりそれをぶらぶら振り回しながら森から出ていきました。やがて日当たりの良い枯れ芝に辿り着いた彼は、仰向けになって、あまりの気持ちよさにいつしか夢の中へと旅立っていった様子。
 夢の中でどうやら彼は、木こりに化けて町へと来ていました。するとそこには、赤い、とかげのような目つきをした支那人の薬売りの陳がいて、「あなた、この薬のむよろしい。」と、六神丸なる薬を山男にすすめてきます。彼もこれには警戒していましたが、ついつい断れず飲み込んでしまいした。すると、なんと彼の身体はみるみる小さくなり、陳の薬箱の中へ閉じ込められてしまったではありませんか。
 そこには山男と同じく、陳によって六神丸を飲まされた者達がいて、皆六神丸となって泣いていました。その中の一人が彼に話しかけてきて、どうやら黒い丸薬を飲めば、もとに戻るらしいのです。
 そこで山男は陳の隙をねらい、その丸薬を飲んでもとの姿に戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを呑んでしまったので、山男よりも大きくなり、彼を捕まえてしまいます。
 しかし夢はそこで終わってしまい、目が覚めた山男は野に投げ出された山鳥を見たり六神丸の事を考えたりして、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 と言ってあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったにも拘わらず、あえて食べる側の気持ちを優先しなければならなかった、ある山男〉が描かれています。

 この作品の面白みは、自分と山鳥、陳と自分といった、食うもの食われるものの関係を客観的に考え、夢の中での自分の気持ちを整理したにも拘わらず、「ええ、畜生、夢のなかのこった。」と言ってあくびをしながら考える事をやめてしまったところにあります。では、何故彼はそれ以上、食べられる側の気持ちについて考えなかったのでしょうか。
 答えは単純で、例え食べられるものの気持ちを考えたところで、結局食べなければいけない事実は変えられないからに他ならないのです。私達でも「この牛や鳥達は、こうして調理されて出てくる前は、自分たちと同じように生きていたんだな」と考え同情する事は十分あるかとは思います。しかし、それ以上食べられるものの気持ちを考えたらどうなることでしょうか。
 私は小さい頃、親戚の漁師が釣ってきた生きた蟹を、母が熱い鍋の中に突っ込んでいるのを目の当たりした時は衝撃を覚えました。蟹は苦しそうに鍋の中から出ようとしますが、母の右手に握られた菜箸がそれを許してはくれません。私は子供心ながらに蟹が可哀想で、食べることにやや抵抗があった事は今でも覚えています。
 以来、そうした経験が幸いにもなかったのか、その時の思いが薄れてしまったのか、そうした事はありませんでしたが、そうした出来事を何度も経験していたなら、今の私はきっと蟹を食べることはできなくなっていたでしょう。
 物語の山男も矢張り同じです。陳の夢の事を狩りの度に、或いは食べる度に思い出していると、徐々に躊躇しはじめ、いずれかは自身の食に支障をきたしていく事でしょう。
 ですから、一度自分の気持ちを整理した上で、食べるものの都合を優先しなければならなかったのです。

2014年11月26日水曜日

未亡人ー豊島与志雄

 政界の黒幕であった故守山氏の夫人、千賀子は、ひょんなことから懐に50万入ってきた事で、自身も夫の後を継ぐ形で政界への進出を考えはじめます。そして党の首領株の1人たる大塚夫人から、「我が党の勝利は眼に見えているそうですよ。」という一言を聞き、徐々にその思いを強くしていくのです。
 そして夫人の言葉に気を良くした千賀子は、若い青年をたらし込み、自分の代わりに政治の勉強をさせようとしたり、家の書生や女中を呼び出して政治家になる決意を表明ました。
 しかし宣言をしたものの、何をして良いのか分からぬ彼女は、取り敢えず夫の墓参りに行くことにします。そして手を合わせ目を瞑った途端、彼女の心中に代議士に当選することや夫の助力に頼ることなどの祈りはなく、ただ白痴のように何に対しても無関心だったというのです。
 やがてそうしてすっきりした千賀子は、活動、活動とこれからの事を思い、瞳を複雑に濁らせていったのでした。

 この作品では、〈夫の死を受け入れようとすればする程、かえって嘘で周りを塗り固めなければならなかった、ある未亡人〉が描かれています。

 墓参りをした時の千賀子について、本文では下記のように表現されています。

 その時あなたは何を祈りましたか。(中略)言い換えれば、何の考えも持っていませんでした。その無関心のあなたは、りっぱでしたよ。すっきりしていました。
 ――まるで白痴のように……。
 そうです、すっきりした白痴、そんなものがあったら、どんなにか美しいことでしょう。

 こうした表現には、夫が死んだことに対して、また自分が夫の後を都合としている現実に対して、未だ実感が持てずにいる彼女の心情が読み取れます。ですが、いつまでも白痴の儘ではいられないのは、時間は無情にも過ぎ去っていくからに他なりません。そして千賀子にとって、恐らく手元には夫の残したお金と人脈、政界での立場しか残されていなかったのでしょう。
 ですから彼女は、白痴のように何もない自分に夫の仕事を継ぐという使命を課せ、その死を受け入れようとしたのです。だからこそ彼女は、自分の気持ちを一度確認した上で、本心では思っていなかった政界の参入を再び決意しなければならなかったのでした。

2014年11月24日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治

 山男は、ある時乱暴とも言えるやり方で山鳥を捉え、それをぶんぶんと振り回しながら森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝生の上に獲物を投げ出して仰向けになり、雲を見ながら夢の中へと誘われていきます。
 夢の中では彼は木こりに化けて、街へ遊びに遊びに行っていました。山男はそこで陳という支那人と出会い、六神丸という奇妙な薬を貰い、飲むことになるのです。すると、彼はたちまち小さくなっていき、薬箱の中に閉じ込められてしまいます。山男は心底、悔しがりました。そしてその薬箱の中には、他にも彼と同じ境遇の人達が泣いており、皆六神丸を飲んだ為に小さくなってしまい、やがては身体まで六神丸になってしまったようです。その中の1人曰く、山男だけは身体まで六神丸になっていないので、薬箱の黒い丸薬さえ飲んでしまえばもとの姿に戻れるといいます。そこで彼は黒い丸薬を飲んでもとに戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを飲んで、再び山男を捕まえようとしたのです。
 しかし夢はそこで終わり山男は目覚め、自分が投げた山鳥や陳や六神丸の事を考えた挙句、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 と言いあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったが故に、かえってそれを忘れなければならなかった、ある山男〉が描かれています。

 大自然の中で我が力を大きく振り回す山男の姿からこの物語ははじまる訳ですが、その山男が物語の顛末に、自分と山鳥、陳と自分とを対比し、食うもの食われれるものの気持ちを知ることになります。というのも、彼は夢の中で半分薬に変えられてしまい、いかに悔しがろうが他の者達のように泣こうが、いずれは誰かに買われ飲まれる運命にあったのです。
 ところが彼は夢の中とは言え、食われる者の気持ちを知ったにも拘わらず、考える事をやめていったのはどういうことでしょうか。答えは単純で、それは例え知ったところで他の動物達を食べなければ生きられない現実を変える事は出来ないからに他なりません。
 それは人間たる私達も同じです。豚や牛、海老や烏賊などの動物を私達は当たり前のように食しています。そして例え、同情する機会を得ようとも、食べるときにはそれを忘れてすらいるのです。寧ろ同情する気持ちをいつまでも持ち続けていたらどうでしょうか。恐らく、行き過ぎた同情は人間の基本的な食事をする上で、弊害にすらなることでしょう。
 物語の山男も矢張り同じです。彼も幾ら食べられる者の気持ちを知ったところで、否、知っているからこそ、これから先自分とは違った動物を食べる上で忘れなければならなかったのです。

2014年11月23日日曜日

電報ー黒島伝治(修正版)

 源作とおきのの夫婦は、息子の出世を願い、市の中学校を受験させることを決意しました。彼ら、特に源作は若い頃からコツコツとお金を貯めていたにも拘わらず、たった2000円の貯金しかありません。一方で、醤油屋や地主の子供達はなんの苦労もせずに出世し、彼らを牛耳れる立場にありました。「息子を、自分がたどって来たような不利な立場に陥入れるのは」忍びない。そう考えた源作は、貧乏でありながらも息子を受験させようとしたのです。
 ところが村の人々からは、「銭が仰山あるせになんぼでも入れたらえいわいな。」、「まぁお前んとこの子供はえあらいせに、旦那さんにでもなるわいな」などと揶揄される始末。それでも、源作だけは、
「少々の銭を残してやるよりや、教育をつけてやっとく方が、どんだけ為めになるやら分らせん。村の奴等が、どう云おうがかもうたこっちゃない。
 と言って、あくまで息子を受験させる事を諦めません。しかし、受験が進み、息子の成績次第では市立に入れなければいけない可能性が出てきた途端、彼は躊躇しはじめます。そして村の村会議員である小川に、
「税金を期日までに納めんような者が、お前、息子を中学校へやるとは以ての外じゃ。」
 と、たった数日税金の納期が遅れた事を指摘されただけで、源作はこれまでの自分の考えを改めていき、やがて息子の受験そのものを辞めていってしまうのでした。

 この作品では、〈低い身分だからこそ、息子を受験させようとしたが故に、より自分たちの身分を自覚していかなければならなかった、ある夫婦〉が描かれています。

 そもそも源作は、息子を自分のような境遇にしない為に、出世させる為に受験をさせました。ところが村の人々は、「貧乏人であるにも拘わらず、金持ちのまね事なんぞしよって」と言わんばかなりに、彼らを揶揄しはじめます。
 ですが、それでも源作は頑なに受験させる事に対し、拘りを捨てようとはしませんでした。
 しかし受験の成績次第では、私立の中学校に通わせなければいけないと知った時、彼は躊躇しはじめます。そしてそれは、学費を払えない危険性も隣り合わせである事も意味していました。もしここで税金を上げられてしまっては、彼らは息子を学校へ通わせられなくなるのです。
 更に源作は小川に、たった2言3言言われたぐらいで、嘗ての「庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」という言葉に自信を失っていき、やがては受験をやめてしまうのでした。これはどういった事でしょうか。
 彼は力関係が上の立場である小川に強く否定された故に、自信を失っていったのです。言わば言語が持つ理屈の上で納得したのではなく、身分が上であるか下であるのかという、階級からくる説得力に負けてしまっていたのでした。
 上記の事から、彼らは自らの身分を改めて自覚せずにはいられなくなり、息子の受験を諦めていったのです。

2014年11月16日日曜日

電報ー黒島伝治

 等級1戸前も持たない、貧しい百姓である源作とおきのは、息子を市の学校へやることに決めました。もともと身分の低い彼らは、醤油屋の地主、金毘羅さんの神主などの、村のえらい人々からの支配を受けており、また幾ら真面目に働いても2000円貯めるのがやっとでした。源作はそうした自分たちの境遇を辿らせたくないという思いから、息子を受験させる決意を固めていったのです。
 ところが、貧乏百姓が息子を市の学校へ行かせようとすると、仲間内からは揶揄される始末。それでも源作は、
「村の奴等が、どう云おうががもうたこっちゃない。庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」
 と言い、その考えを変えようとはしませんでした。
 しかし村会議員の小川に、税金の納期が一日遅れただけで、子供を学校に行かせる考えを皮肉られた事で、源作は自分の考えに自身をなくしていきます。
 やがて、折角受験の為に市へ出ている息子を「チチビョウキスグカエレ」という電報で呼び戻してしまうのです。

 この作品では、〈低身分故、息子の立身出世を願ったが、皮肉にも、その自覚によって阻まれていった、ある一家〉が描かれています。

 この作品を読んだ読者は、何故村会議員に一度皮肉を言われたぐらいで、源作は息子を呼び戻してしまったのか、という疑問を持つことでしょう。それでは問題を解くにあたって、もう一度何故息子を市の学校の受験を受けさせたのか、というところから整理していきましょう。
 そもそも源作は、若い頃からせっせと働き、50まで百姓仕事をしていたのですが、それでも貯金が2000円しか溜まっていませんでした。一方、村の有力者達の息子たちは、彼が汗水たらして働いているのに対し、あまり苦労せず出世していき、大金をせしめ、自分たちを支配している立場にあります。源作はそうした境遇に息子をおきたくはないが為に、受験を決意していったのです。
 ところは彼のこうした決意の固さは、低身分を他の者達よりも自覚しているからこその考えだという事も忘れてはなりません。言わば、根っからの被支配者なのです。小川の言葉に自信を失っていったのも、無論、支配者からの言葉故だっかからに他なりません。
 よって、支配者の言葉を聞いた源作は、被支配者的な気質からそれを受け入れ、息子の受験を断念していったのでした。

2014年11月13日木曜日

星の銀貨ーグリム兄弟

 むかし小さい女の子がおり、両親はなく、財産は着ている服とパン一欠片しかありません。ですが彼女はあつい信仰心をもっていました。
 ある時、彼女は野原を歩いていると3人の人物に出会うのですが、3人とも彼女の僅かな財産を欲しており、それぞれを彼らにあげてしまいます。
 ところが彼女の手元に何もなくなってしまったかと思えば、空からたちまち星が落ちてきました。それは星ではなく、銀貨だったのです。そして女の子はその銀貨を拾い、それで一生豊かに暮らしていきました。

 この作品では、〈信仰心に従い、自分の財産を他人にあげた結果、かえって豊かになっていった、ある女の子〉が描かれています。

 所謂、わらしべ長者のような作品ですが、直接的にあげた人が何かをくれるわけではありません。寧ろあげる事自体になんのメリットもないのです。他人の為にそれをあげた、自己犠牲の精神をこの作品は讃えています。
 ところでこの作品の面白さは、そうした精神的な面を賛美しているにも拘わらず、「女の子は、銀貨をひろいあつめて、それで一しょうゆたかにくらしました。
」という、物質的な豊かさを物語の結びに持ってきたというところにあります。そしてここでは単純に、精神か物質かという二元論を言っているのではなく、精神が基板にあるからこそ、物質的な豊かさが持てたのだという、宗教的な思想観が読み解ける事を主張したいのです。
 もし仮にこの女の子が悪人でケチであれば、銀貨は空から振らなかった事でしょう。あくまで善人で、他人の事を必要以上に思いやれるからこそ、この作品は作品として成り立っているのです。

2014年11月12日水曜日

最後の一枚の葉ーオー・ヘンリー

 ワシントンにある、芸術家たちのマンションに住んでいたジョンジーは、その年に流行した肺炎にかかってしまい、ベッドに横向けの儘、動けなくなっていきました。彼女と同じアトリエに住んでいるスーは、医者から、助かる見込みは本人の意思で大きく変わることを告げられます。そこで彼女はどうにか元気づける手はないかと思い悩みますが、一方のジョンジーは彼女の部屋の窓から見える木の葉っぱの数ばかりを気にしていました。
「最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ。」
 この言葉は聞いたスーはすっかり落ち込んでしまい、彼女たちと仲のいい、ベアーマン老人に相談する気になったのです。この老人はいつか必ず傑作を描くのだと言いつつも、なかなか筆をとろうとしない、芸術家として破綻した人なのでした。彼はこの話を聞いた途端、憤慨するばかりでした。
 そして次の日の夜、彼女たちの街に激しい豪雨が振り、葉っぱもいよいよ1つとなってしまいます。ところがその1枚というのが、なかなか落ちないのです。それを期にジョンジーの体調も徐々に回復の兆しを見せていきます。
 ですがあろうことかベアーマン老人は、肺炎の餌食となってしまい、遂にはこの世を去ってしまいました。管理人から話を聞くと、彼はあの豪雨の夜、どこかに出かけていたようだったのです。そしてあの最後の一枚の葉をよく見ると、それは壁に描かれた絵だったのでした。

 この作品では、〈大切な人の願いを叶えようとしたが故に、かえって自らの夢を成就させた、ある老人画家〉が描かれています。

 ジョンジーの病気を治したい。これが言うまでもなく、スーの無垢なる願いでした。さてこれを聞いた時のベアーマンはどのように感じたことでしょうか。残念ながら彼の心情を直接表現されている箇所はなく、僅かな括弧書き(※)と豪雨の中、壁に最後の一葉を書き上げたという事実から読み取るしかありません。しかしそこをあえて描かず読者に委ねた事が、この作品を非凡なものにさせているのです。何故なら、ベアーマン老人の生前における自身の芸術に対する重みを、読者は行間を読むことで深く知る事ができるからに他なりません。
 ベアーマン老人は恐らくスーの言葉を聞いた時、嘆く一方である使命感に燃えていた事でしょう。そう、画家としての使命感です。彼は以前から、傑作を描くのだ描くのだと言いつつも、筆をとろうとはしませんでした。ですがジョンジーの一大事が、同時にベアーマンにとって、傑作を描くきっかけになったのです。そして文字通り、彼は命を賭して作品を描き上げ、ジョンジーの命を救ってみせました。
 ここからベアーマンにとって、ジョンジーを救ったという行為と命をかけて芸術作品を完成されたという事が同じ意味を持っていたという事が理解できます。それだけ、彼の芸術の対象とするものは重くなければならなかったのです。また私が一般性において、スーを「大切な人」と規定したのもそこから由来します。
 彼にとって芸術とは、大切な人達を守り救う力を持つ、そういった偉大なものでなければならなかったのです。

2014年11月9日日曜日

窃む女ー黒島伝治

 貧乏ながらも子煩悩で、子供が欲しがるものはなんでも買ってあげたくなる性分であるお里は、ある時、反物を番頭に黙って家に持ち帰ってしまいます。故意はなかったと弁解する妻に対し、夫である清吉は盗んできたのではと考え、彼女の買い物の様子に想像をめぐらすのでした。しかし妻の無罪を信じたい彼は、そうした自分の考えをすぐに捨て去ろうとします。
 ですが、普段よりも妻の心臓の鼓動が激しい事やいちいちの行動が不自然な事が、清吉の猜疑心を大きくしていくのです。
 そうしてあれやこれやと考えていると、反物が無防備にも誰の目にもつきやすい台所に置かれている事に彼は気が付きます。そこで清吉は壁の外側の戸袋に隙間を見つけ、妻のいない間にそこに隠してしまいました。ところがお里は反物が、自分が置いた場所にないことを知ると一切を悟り、夫に盗んだことを知られたショックで深く傷ついてしまうのです。

 この作品では、〈悪事を働いたかもしれない妻を、頭の中で消そうとすればする程、かえって露呈させてしまった、ある夫〉が描かれています。

 夫にとって、妻が盗みを働いた事実を知る事ははじめから容易であり、彼はその証拠を次々に見つけ出してしまうのでした。しかし彼はどういう訳か、妻の悪事を
「何でもない。下らないこった!」
「窃んだものじゃあるまい。買ったんだ。」
 などと言ったり自分に言い聞かせたりして必死でもみ消そうとします。これはどういうことでしょうか。
 「人間は正直で、清廉であらねばならないと思っていた。が今では、そんなものは、何も役に立たないことを知っていた。正直や清廉では現在食って行くことも出来ないのを強く感じていた。けれでも彼は妻に不正をすゝめる気持にはなれなかった。」と考えている清吉にとって、妻は清廉潔白でなければなりません。ですから幾ら情況証拠が揃っているとは言え、彼の中の「妻」像を守るために、清吉は妻の窃盗を認めるわけにはいかなかったのです。
 しかしがお里が台所に反物を無防備にも置いていたところを発見した時、彼は咄嗟に別の場所へ隠してしまいます。幾ら盗んでいないと思おうとしても、次から次へと証拠が出てきはじめて以上、それを全て無かったことにすることは出来なかったのです。それは一度鉛筆で書いた箇所を消しゴムで消しても、消したところを注意深く見てしまうという心理状態に似通ったものがあるのでしょう。一度消してしまったものはかえってそこが目立ってしまう場合だってあるのです。
 その結果、夫の心中を理解し布団の中で泣いている妻を見た時、清吉はこれ以上消しゴムで消すことが出来なくなり、妻の窃盗を認めずにはいられなくなっていったのでした。

2014年11月7日金曜日

影法師ー豊島与志雄(修正版)

 ある小さな村の長者の屋敷には白く塗った塀があり、その外は子供達の遊び場になっていました。ある時、長者の子供がそこのお祖父さんに「お祖父さん、僕にあの……東の塀を下さいよ」と言い、壁に写った影を墨で塗って遊びはじめます。これには周りの大人達も関心を寄せました。
 しかし子供達の遊び心は満足せず、いつしか「影法師が塀からぬけ出して踊ってくれるといいんだがなあ」と思うようになっていったのです。そんなある日、髪の長い、見慣れない男がやってきて、なんと影を踊らせてやろうと言うではありませんか。
 ところはその次の日、男は折角子供達が書いた絵を黒く塗りつぶしてしまいました。これには子供達も憤慨しはじめます。しかしよく目を凝らしてみると、太陽が壁に反射し、その中で影が踊っていたのです。これを見た子供達は大喜びし、この奇妙な出来事をお祖父さんに話します。するとお祖父さんは、
「それはきっと、大変えらい人にちがいない。お前達はよいことを教わったものだ」
 と言ったのでした。

 この作品では、〈大人のきまり事に縛られない子供達が、かえって型にはまってしまっていた〉ということが描かれています。

 物語に登場する子供達の白い壁に影を描くという発想は、社会の中で生きる大人にとって、斬新にうつることでしょう。何故なら私達にとって、壁というものの存在を生活的な視点から見つめた時、土地と土地を仕切るという役割のみでしか存在し得ないならに他なりません。ですから子供達のように遊びの観点(面白いか否か)から見た壁に関心するのです。そして物語の大人達も、「えらいことを始めたな」と言って遊びの行方を見守っています。
 ところがこうした子供達にも、遊びの経験を積み上げていく中で生まれた、きまり事のようなものが徐々に出来上がっていきました。それは、黒い影を動かすのに、決して黒を足してはいけないということです。しかし、それこそが彼らが型にはまろうとしている証拠だと言わんばかりに、髪の長い男は白い壁一面を黒く塗りつぶしました。そして太陽の光があたった時、先に墨で書いた影は踊りだしたのです。
 子供達は大人達とは違った観点を持っているが為に、大人が思いつかないような発想を持ち得るのですが、同時にそれは別の制限を自分たちでかけていってしまったのでした。

2014年11月3日月曜日

影法師ー豊島与志雄

 ある小さな村の東の端に、村一番の屋敷がり、その塀の広場は子供達の遊び場でした。ある時、長者の子供は塀の主であるお祖父さんに、「お祖父さん、僕にあの……東の塀を下さいよ」と言い、白い塀を借りて他の子供達と自分たちの影を墨で塗り写して遊びはじめたのです。これには周りの大人達も感心し、その様子を見守っていました。
 やがて塀が影の絵でいっぱいになりますと、今度はそれを動かす手はないのかと考えはじめます。すると、ある日見慣れない髪の長い男がやってきて、なんと影を動かしてやろうというのです。これには子供達も湧き上がりました。ところがそう言った次の日に、白い塀は男によって真っ黒に塗りつぶされていたのです。これには子供達も憤慨しはじめます。しかし太陽の光が黒い塀に反射すると、それぞれの影がそっくりそのまま映り込み、彼らが動くとまるで踊っているかのように影も動きました。これには子供達も大興奮です。
 後日、その話をお祖父さんにすると、「それはきっと、大変えらい人にちがいない。お前達はよいことを教わったものだ」と言ったのでした。

 この作品では、〈型破りに見える子供達の中にも、常識という言葉はある〉ということが描かれています。

 この作品に登場する子供達は、私達大人には思いつかない、白い塀に自分の影を写しとるという遊びをしていました。そしてお祖父さんをはじめとする周りの大人達も、矢張り私達と同じように、感心しながら子供達の遊びの行方を見守っていたのです。
 何故なら、私達大人には「常識」という観点が既に備わっているからに他なりません。塀を見ても「どうせこんなもの、道と家を仕切っておく以外に使い道はないだろう」や「一体こんなものを見て何が面白いのか」などということをはじめに考えるはずです。しかし子供達はそうした常識的な見方は持っておらず、周りにあるあらゆるものを自分たちの遊び道具につくりかえてしまいます。
 ところがそうした自由な発想を有している子供達にも、別の常識が備わっていました。それこそが、「黒い影を躍らせるために、塀を黒くしてはならない」ということだったのです。そしてお祖父さんが感心した、男の賢さも、そうした常識というものの見方が彼らの中にあるという事を分からせただけではなく、工夫次第で打ち破る事が出来るのだということを教えた事にあります。
 ですからお祖父さんは、男を「大変えらい人にちがいない」と思い褒めたのです。

2014年11月1日土曜日

千代女ー太宰治

 12歳の少女である和子は、自身の綴り方が「青い鳥」という雑誌に掲載されて以来、人生が一変してしまいます。それまで他の少年少女と変わらない暮らしをしていたのですが、雑誌に文章が載った途端、周りの大人たちは彼女に文才があることを信じて疑いません。雑誌にコメントしている岩見先生は絶賛し、叔父や母は彼女に書くことを勧め、父は刺激が強すぎると頑なに書くことを否定し、学校の先生などは他の生徒達に綴り方そのものを黒板に書いて宣伝するのでした。
 ですが自身の文章に自信が持てない和子は、そうした大人たちの期待に押しつぶされそうになっていきます。ところが、そうして大人達が彼女に期待を持っていく中で、いつしか、否応なしに彼女は自ら筆を手に取るようになっていったのです。
 しかしいざ書いてみると、大人達は彼女の才能にいつしか諦めを覚えはじめます。叔父は興醒めしたかのように見放し、母は根気がないだけだと才能らしきものを無理にでも認めようとし、父は父でどちらでも良さそうに、「好きならやってみてもいいさ」と言うようになっていくのです。
 やがて、「自分の頭に錆びた鍋でも被っているような、とっても重くるしい、やり切れないものを感じ」はじめた彼女は、嘗て自分の文章を褒めてくれた岩見先生に、「七年前の天才少女をお見捨てなく」という手紙を書くのでした。
 一体彼女はこうも、ちぐはくな目にあっていったのでしょうか。

 この作品では、〈周りの大人達の期待に応えて自分を演じたが故に、かえって自分の拠り所を失っていった、ある少女〉が描かれています。

 この物語が大きく変化するところは、和子が自ら文章を書こうとしていくところにあり、そこに上記の疑問を解く鍵が隠されているのです。ですので、まずは彼女が自ら書こうとする前後の彼女と大人達の気持ちについて整理してみましょう。
 あらすじにもある通り、周りの大人達は和子の文章が「青い鳥」に掲載されたことにより、各々が大なり小なり彼女の才能を認めはじめていきます。そして父親を除く人々は、彼女が文章を書くことを望んでいくようになったのです。
 一方、当の和子はどうだったのでしょうか。彼女はそれまでの家族との暮らしに満足しており(※1)、綴り方を書くことはそうした家族のあり方とは相反するものだと考えていました。何故なら、彼女は自分に才能がないことを強く自覚しているからに他なりません。(※2)
 しかし周りの大人達は彼女にないものを、数年の間、強く要求してきました。そうした中で、父と母の言い争いはその都度起こり、彼女は嘗て心を休めていた場所を失っていくことを感じはじめます。
 そこで和子は才能がないことを自覚しながらも、家族という心の拠り所を取り戻すために、「天才少女」としての彼女を演じようとしたのです。
 ところがいざそれに応えようとすればする程、周りの反応は冷ややかで、諦めを感じはじめていきます。(※3)言わば「天才少女」としての居場所すらも、自分自身の能力を露呈してしまった為に失っていったのでした。
 その挙句、心の行き場を失ってしまった和子は、何処かにすがりつきたい一心で、嘗て自分の文章を褒めてくれた先生に対し、手紙を出さずににはいられなくなっていったのです。

注釈
1・以前はよかった。本当に、よかった。父にも母にも、思うぞんぶんに甘えて、おどけたことばかり言い、家中を笑わせて居りました。弟にも優しくしてあげて、私はよい姉さんでありました。

2・私は息がくるしくなって、眼のさきがもやもや暗く、自分のからだが石になって行くような、おそろしい気持が致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打が無いのがわかっていましたから、この後、下手な綴方を書いて、みんなに笑われたら、どんなに恥ずかしく、つらい事だろうと、その事ばかりが心配で、生きている気もしませんでした。

3・すると叔父さんは、それを半分も読まずに手帖を投げ出し、和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と興醒めた、まじめな顔をして言いました。 それからは、叔父さんが、私に、文学というものは特種の才能が無ければ駄目なものだと、苦笑しながら忠告めいた事をおっしゃるようになりました。かえっ て、いまは父のほうが、好きならやってみてもいいさ、等と気軽に笑って言っているのです。母は時々、金沢ふみ子さんや、それから、他の娘さんでやっぱり一 躍有名になったひとの噂を、よそで聞いて来ては興奮して、和子だって、書けば書けるのにねえ、根気が 無いからいけません、むかし加賀の千代女が、はじめてお師匠さんのところへ俳句を教わりに行った時、まず、ほととぎすという題で作って見よと言われ、早速 さまざま作ってお師匠さんにお見せしたのだが、お師匠さんは、これでよろしいとはおっしゃらなかった、それでね、千代女は一晩ねむらずに考えて、ふと気が 附いたら夜が明けていたので、何心なく、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と書いてお師匠さんにお見せしたら、千代女でかした! とはじめて褒めら れたそうじゃないか、何事にも根気が必要です、と言ってお茶を一と口のんで、こんどは低い声で、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と呟き、なるほどねえ、うまく作ったものだ、と自分でひとりで感心して居られます。

2014年10月30日木曜日

鬼ー織田作之助(修正版)

 著者の知り合いの辻十吉という男は、世間では金銭に関しては抜目がなくちゃっかりしている、俗物作家だと思われていました。ですが実際はその逆で、彼は金銭に疎く、生活力のない、所謂ところの仕事人間だったのです。煙草がないと仕事が捗らないからと借金をしたり、身内が危篤でも仕事が終わらぬうちは腰をあげようとしなかったり、挙句の果てに、自分の結婚式には仕事が終わらぬからと2時間以上新婦やその縁者を待たせたりという始末でした。
 ですが、そんな彼も小説の話となると、お金の細かい感情を積極的に出来るのです。ある時、著者が闇市で証紙を売っていたという話を辻に話したところ、いつにもなく熱心に聞いてきました。その様子を著者が不思議に思い、買いにでもいくのかと尋ねると、
「誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
 と言って、金銭に困った一家が千円分の証紙が出てきた事をきっかけに、家の経済を立て直すといったシナリオの子細を話しはじめます。(※)一体彼は何故、小説の話になると、あれ程興味を持たなかった金銭の話を進んですることが出来たのでしょうか。

 この作品では、〈創作にのめり込めばのめり込む程、自分の嫌いな分野でも興味を持てるようになっていった、ある作家〉が描かれています。

 あらすじにあった問題を解くにあたって、もう一度辻が小説の話をする前の出来事から整理していきましょう。それまで著者たちは、辻のズボラな金銭感覚について話していました。そして闇市で証紙を売っている話になると、彼が熱心に聞いてくるので著者が、
「いやに熱心だが、買いに行くのか」
 と訪ねます。しかし彼は、
誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。」
 と答えました。ところが次の自分の言葉で、辻の頭は創作活動の事で頭がいっぱいになります。
「しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
 一体この一言の前後で、彼の頭はどのように切り替わっていったのでしょうか。
 それを解くためには、まず作家がどのようなものを創作の対象にしているかについて押さえておかなければなりません。小説というものは当然、人間、或いは人間的な心を持った生物の心の変化やその時々の心情を対象に物語を綴っていきます。そしてそれらを書くためには、人間の気持ちがどんな時にどのように揺れ動くかや、日々の生活をどのような心情を持ちどのように過ごしているのかを知っておかなければならないのです。牛乳嫌いなカフェの経営者が、上質なミルクに拘るように、或いは虫嫌いな児童文学者が、自然の話を書くために虫の事を研究するように、この辻も必要に迫られた故に、問題意識が台頭した際、自分の主観を捨て去り客観的に対象と向き合っていきます。そして小説というフィルターを通して、証紙を見ていくようになっていったのでした。
 同じ証紙や金銭といった対象を見るときでも、それが小説のネタになるのか否かが、辻にとっては大きな問題だったわけです。しかし市井の生活を重視する私たちにとっては、そうした問題意識が働かずどれもが重要に見えるからこそ、彼のこうした行動が滑稽に見えてしまいます。ですがこれもひとつ、私達には違う、別の問題意識が働いているからこそなのです。

課題提出用ブログ;千代女ー太宰治を読んで

 今回から、O君の書いた評論を私がコメントしていきます。以下はその文章です。

❖O君の評論❖
千代女 太宰治

 18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。その周囲の思惑も自身の感情も時間と共に変わっていきますが、周囲の思惑に振り回されていった和子自身は次第に「自身に文章を書く才能がない」 という客観的に自分を見たときの頭の像と「もしかしたら一つくらいはいいところがあるかもしれないし自分で文を書いてみたい」という感情的で主観的な頭の 中の像の板挟みになり「頭に錆びた鍋でも被っているような、やり切れないもの」を感じて、「自分で自分がわからなく」なっていきました。

  この作品では、<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>が描かれています。

 この作品では和子が綴方や小説などに向ける感情の変化を周囲との関わり合いと共に描いていますが、その変化は作中の時間の経過と共に大きく1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)の三つに時系列順、あるいは環境毎に分ける事ができます。そしてこの時間の流れの中で 一貫している事は『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』、『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』の二点です。

 1.の時点では偶然にも投書が雑誌に載ってしまい、『投書が雑誌に載って選者の先生から高い評価を受けた事実』ばかりが不当に賞賛されてしまい、担任の 先生や学友などの周囲からの視線が変わり、自身に綴方の才能がないことに自覚がある故にそのことが非常な重荷になり、性格も臆病になった上に綴方や小説に 関して嫌悪感を感じるようになっていきます。その後、小学校から女学校に進学し、環境が大きく変化したことで周囲の視線と自身の才能から生まれる苦しさか ら抜け出し、最終的に小説を読むことや綴方をすすめる叔父がとあるきっかけから和子に近づかなくなったことによって、一度は綴方のことをきれいに、忘れ て、日常の仕事や勉強をこなしながら張り合いのある日々を送れる位にまで精神的な健康を取り戻すことができたのです。しかし、その後小学校時代の担任が家 庭教師に来たことをきっかけに和子が文章の才能を活かすことに未練のあった母や生活が苦しくなったその先生の思惑に和子は家族ぐるみで振り回され、結果 「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という感情さえ出てくるようになるのですが、同時に、「文才とやらははじめからなかったのです」と 再び自分に才能がないという自覚を新たにもしてしまうのです。さらに、昔の担任との関わりが切れた後に、18歳の女性が小説で名前を挙げたことを知った叔 父が和子を小説家にしようと意気込んで家を訪ねてくるようになります。しかしながら、現在の彼女が書いた文章を読んだ叔父は書かれた文を半分も読まずに 「才能が無ければ駄目」だと言い出すのです。ここに来て12歳の頃から和子にあった文章の才能がないという自覚が他人から告げられることによって主観と客 観が一致することになります。しかしながら和子の心の中には文章を「書いてみたいとも思う」という感情が既に存在しているために、矛盾している二つの頭の 像、つまり現実的に存在する『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。そして女学校を卒業するという環境の変化も相俟って急に人が変わってしまい、二つの頭の像の争いが大きくなっていくにつれて、自分で自分がわからない 状態として「頭に錆びた鍋でも被っているような」感覚を自覚し、12歳の頃に雑誌に自分の綴方を選んだ先生に助けを求めるまでに精神的に追いつめられたの です。

❖コメント
 私の評論の構成は、あらすじ→一般性→論証となっており、どうやらO君はそれに則って今回書いてくれているようです。ですので、この構成が評論においてどのような役割を果たしているのかを見ていくとともに、彼の作品自体がその役割を適切に果たせているのかを見ていきましょう。

 はじめにあらすじですが、当然ここではその文学作品がどのようなものか、はじめて読む人々に簡潔に説明する必要があります。そして単に説明するだけではなく、次の一般性→論証への足がかりをつくっておかなければなりません。以上の観点から見た時に、果たして今回のそれは条件を満たしているのでしょうか。
 結論から申しますと、どうやらO君は後者の条件ばかりに気を取られて前者の条件が抜け落ちているようです。というのも、文中のはじめにある、「18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに」という一文ですが、これでは作中の主体的な人物が、18歳の女性にあるかのような書き方になっています。ですが、この物語は12歳の少女の頃の出来事が中心にあるのであり、18歳の彼女はそうなっていった過程を綴っているに過ぎないのです。
 また次に、「周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。」と続いていますが、一体周囲とは誰と誰の事なのでしょうか。これは単純にもう少し具体的な事を書けと述べているのではなく、周囲が誰なのかを明確にすることで、作品の雰囲気が明確になることだってあるのです。
 例えば「友達の思惑と自分自身」と書けば、少年少女の他愛もない自慢や好奇心を扱っているのか、と読書は思うでしょうし、「周囲の大人と自分自身」と書けば、自分の力ではどうすることも出来ないが、1つの立派な人格が形成されつつある過程が描かれているのか、と思うことでしょう。
 あらすじとは、物語を整理するためだけにあるのではなく、はじめて読む人にも、その作品の魅力や雰囲気を伝える為に書かなればいけないことを承知しておいて下さい。

 次に一般性ですが、ここではこの作品を「一言で言うと」どのようなことが書かれているのかを明示しなければなりません。O君の出してきた一般性はこうでした。

<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>

 どうやら、あらすじの部分で、「周囲」、「女性」といった部分を不明瞭にしてしまった為に、その「女性」の問題が何処にあるのかが、いまいち分からない印象があります。例えば、成人した女性でも、自分の文章が上手いと思っていたのに、友達から悪文と思われていた事が発覚し書けなくなっていったと言う事は十分あり得るではありませんか。矢張り、あらすじと関連して、どの年代の、どのレベルでの悩みなのか、というところが希薄になっています。

 そして論証ですが、ここでは上記の一般性をもとに、何故その「一言」なのか、というところを論じていきます。O君はこの作品を、

1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。
2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。
3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)

の3つの時系列に分け、一貫している箇所を見つけてそこから問題を明らかにしていこうとしているのです。それが下記に当たります。

◯『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』
◯『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』

 更に彼はこの2点を明記した上で、時系列を追って作品全体の変化を捉え、和子の問題を解こうとしています。
 ところが、O君の論証には致命的な点があるのです。それは、「『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。」とあるように、和子は積極的に文章を書きたいという思いを強くしていったと考えているところにあります。どうやら彼は文中の、「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という一文を見てそう思ったようです。ところがこれは、書けるものなら書いてみたい、という感情の表れとして書かれているのではなく、寧ろ自分に文才がないことを自覚している故に書かれている「皮肉」に過ぎません。しかしどういう形にしろ、和子が途中から自分の意思で文章を書くようになっていったのは事実としてあります。では、それは何をきっかけにしてそうなっていったのでしょうか。ヒントは下記にあります。

柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になる より他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そんなにまで、ひどく言われると、いい気持がしないらしく、そうかねえ、それじゃ和子が可哀想じゃないか、と淋しそうに笑いながら言いました。
 叔父さんの言葉が、あたっていたのかも知れません。私はその翌年に女学校を卒業して、つまり、今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或いはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。

 一体何故彼女は、叔父のこうした酷い言葉を強く否定しながらも、心の何処かでは肯定してしまったのでしょうか。それこそが、彼女が現在、自分の文章とどのような形で向き合っているのかの答えになっているはずです。

2014年10月23日木曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合


 肌を突き刺すような風がやわらぎ、桜の葉が優雅に空を舞う季節になった頃の事である。小鳥たちが生命の息吹を祝福し、人々が新しい生活に向けて清々しく太陽の下を歩いているにも拘らず、安田隆一だけはただ1人、薄暗い家の中で悶々としていた。彼は布団に潜り込み、自分はいつ死ねるのかという事ばかりを暗中模索しているのである。医者から癌という告発を受けて2度目の春になるが、彼の心中では既に遥か遠い昔の事のように思えた。それ程までに癌による痛みと苦痛は彼の心身を蝕んでいたのである。最早、生にすがる意欲を失い、死が甘美な囁きとなって彼を誘惑してくるのだ。いっそのこと手元にある薬を飲んで死んでしまおうとさえ考えた事もある。しかし、いざやろうと思っても妻の顔がちらつく。ただでさえ自身の看病で苦労をかけているのに、非常識な死に方をして最後まで困らせるような事は安田には到底出来なかった。
 何かうまい死に方はないものか。そうした事を考えていると、以前に自殺を専門に取り扱ってくれる団体に連絡をとったことをふと思い出した。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。が、そこに連絡すれば、死を望んでいる人間に対して、安らかな眠りをもたらしてくれるというのだ。はじめは安田自身、巷で下らない噂話が横行しているものだなという風にしか思っていなかったのである。しかし彼の死への羨望が徐々に膨らんでいくに連れて、そうした与太話を信じる気になっていった。ところが電話で連絡がとれ、死にたい旨を伝えたかと思えば、相手はそのまま受話器を切ってしまい、其の侭音沙汰はない。それから暫くの間、彼は自分の愚かさに羞恥した。が、電話が繋がった事は紛れもない事実として安田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。もしかすると、という淡い思いは今でも彼の胸の内で燻っているのである。


 徒労とも思える思案に飽きてきた彼は、ふと虚ろな眼で窓をみた。辺りはすっかり暗くなり、月がぼんやりとした光を放っている。ここで彼はある異変に気がついた。窓からひんやりとした風が入ってきているのだ。普段であれば、妻が夕食を終えた後で閉めてくれるのだが、今日は忘れてしまったのかと安田は思った。しかし彼女が窓の傍に寄って閉めているところをしっかりとその目で見ていたことを思い出した。窓をじっと見ていると、更なる異変を感じる。開け放たれた窓の傍に、何者かが立っているのである。しかしこうした非常識な状況においても、生きることに興味を失った安田が冷静さを失うことはなかった。淡い月の光で何者なのかはよくわからない。が、どうやら長身の、恐らくその逞しい肩幅から察するに男である事はよく分かった。彼はゆっくりと無気力に尋ねる。
「誰だ、そこにいるは。」
 そう言うと男は一歩前へ出た。するとうまい具合に月の光が男を照らしだした。彼は女とも思える端正な顔立ちとツンと長い鼻をした青年である。
「申し遅れました、日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 彼は事務的な口調と表情で話した。安田にはなんのことだかさっぱり分からない。そしてこうした怪訝そうな彼の表情を見て、来島と名乗る青年は続けた。
「以前に私たちの団体に電話をかけて下さいましたよね?」
 その刹那、安田の表情がはっとなった。薄暗く先の見えなかった心中に、一点の力強い光が差し込んでくれたような思いがした。彼は目に涙を溜めながら、眼前に現れた神からの使者を見つめた。
「やっと来てくれたか……。」
「ええ、お待たせして申し訳ありません。」
「構わん。で、いつ俺を殺してくれるのだ。」
 逸る気持ちを安田は抑えられなかった。しかしそうした彼とは対照的に、来島は落ち着き払っていた。
「そう慌てないで。まずは貴方を審査しないといけません。」
「何?審査だと!!」
 その言葉を聞いた瞬間、安田の表情は一気に曇った。何か人を小馬鹿にされたような心持ちになったのである。
「ええ、死は誰にでも与えられるものではありません。死を与えるに値する方と判断した場合のみ、処方して差し上げる事が出来るのです。」
 安田の表情はみるみる険しくなっていった。この若造はただ上からの使いでここにきたに過ぎず、自分の事などちっとも理解してくれていない。そう察したのである。
「お前には分からんかもしれんがなぁ、俺は待たされている間の数ヶ月、死にたくて死にたくて仕方がなったんだ!その上に審査だと!!」
 安田の剣幕には、今にも来島の胸ぐらを掴まんばかりのものがあった。しかしそうした勢いに対しても、彼は全く動じなかった。
「ええそうです。理解して頂けない場合、話はここで終わりです。」
「……むぅ。」
 こう言われてしまうと流石の安田も閉口せざるを得なかった。彼は口惜しげに唇を歪めていた。そうした安田を見かねて、来島は安田に問いはじめた。
「一体何故です。貴方は数年前から癌を患っているようですが、もう余命幾ばくとない命じゃないですか。何故私たちに拘るのですか。」
 すると安田の表情はみるみる苦しい者へと変わっていった。元来嘘がつけない安田としては、幾ら嫌悪を抱いている相手であっても表情を偽る事が出来ないのである。彼は俯き、頼りない声でボソッと呟いた。
「………妻だ。あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ。」
 その言葉には、安田とその妻奈保子との十数年の気まずい距離感がにじみ出ていた。


 もともと彼らは仲睦まじい夫婦であり、子宝にも恵まれた。名を隆之と言い、彼らは一人息子に溢れんばかりの愛情を注いだ。だが、隆之が小学校に入るか入らないかの年齢に達した頃、その日は強い雨風が吹いていた。妻が目を離した隙に外へ出ていき、川へと落ちてしまったのである。彼がいないことに気がついた妻は、すぐに出張中の夫に電話をした。ところが当時働き盛りであった安田は、出張を優先した。我が子を心配しない親などいるはずがない。しかし仕事に対する責任感が、彼を家には帰らせてはくれなかったのだ。その数日後、隆之は変わり果てた姿になって自分の家に帰ってきた。
 それ以来、夫婦の間には深い溝が出来てしまった。夫は滅多なことでは家によりつかなくなり、妻は妻でお茶の稽古や習字など習い事に専念するようになっていった。しかし、それでも妻は毎朝夫のポットに熱い緑茶を入れることを1日たりとも怠らなかった。家に帰ればいつでも手の込んだご飯が彼を待っていた。こうした彼女の気遣いは、かえって安田の心を痛めた。こうした気配りが、2人の間の歪を浮き彫りにされているような気がしてならなかったのである。
 ところが自分がいざ病気をすると、不思議と今度は妻との関係を何処かで取り戻せる気になってきた。安田は医者の引き止めるのを無視し、通院と入院を拒み、自宅療養を決めた。はじめはぎこちないながらも、妻に話しかけてみたり、彼女の体調を労ったりした。彼女のそれに応じて、慣れないような受け答えをしてみせた。
 だが、数十ヶ月前の事である。安田は自分の不注意で味噌汁のおわんを零してしまった。すかさず妻がそれを片付けている時、彼は見てはならぬものを見てしまったのである。妻の横顔を見た時、全身から冷や汗をかいた。まるで天国にも行けず地獄にも行けず、煉獄にずっと繋がれている亡者のような形相を浮かべていたのである。その顔を見た瞬間、今までの妻の笑みが偽りであったかのように思えた。今では自分が家にいることは妻をいたずらに疲れさせているだけのような気さえするのである。
 隆之が死んだあの日以来、安田は妻にとって邪魔なだけな存在になったことを確信したのである。


 安田は下を向いた儘、一向に来島の方を見ない。ただぼんやりと何処を見ているわけでもなく、空虚な考えに耽っているようにさえ見えた。そんな安田を見ていた来島は、一瞬冷たい視線で彼を見下し、唇に笑みを浮かべた。が、安田に悟られる前にすぐにもとに戻し、無表情の儘、矢張り事務的に話した。
「成る程、奥さんの負担を考えての上での判断という訳ですか。ですが審査はさせてもらいます。安心して下さい。近いうちに必ずきますよ、奥さんの為にも。」
 最後の言葉を聞いた瞬間、安田は漸く来島の方を哀願の表情で向き直した。来島は穏やかな笑みでそれに応じた。
「本当なのか、嘘じゃないだろうな?」
「ええ、近いうちにお会いしましょう。審査はすぐに終わりますよ。」
 そう述べると、来島は一歩下がり、出てきた窓を跨いで闇の中へと消えていった。残された安田は、まるで夢の中にでもいるような顔で、暫くその窓を眺めていた。


 来島が来て以来、何か変わった事があったかと言えば何もなく、安田家は太平を保ち、奈保子はいつものように夫の看病をし、その夫はいつものように看病を受けながら床についていた。
 ところが唯一、安田の内面だけはそれを許さなかったのである。彼の心はあの男が来てからというもの、嵐が吹き荒れたかのようになるかと思えば、快晴の空の如く、穏やかな時もあった。またある時は曇天の空模様のようにズンと沈む事もある。彼の中では来島が来たことによる安心感と、もし彼が自分と殺してくれなかったらという不安とが常に葛藤していたのだ。
 しかし自分にはそのような度胸がないという事を、後の彼は思い知ることになる。それは深夜に用を足しに行って自分の部屋へ帰ろうとしている時である。彼はふと奈保子の様子が気になった。普段であれば夜中に音を立てて妻を起こすことが申し訳ないように思い、さっさと自室へ戻るところではあるが、死期が近いかもしれぬ事を思うと今一度妻の寝顔を見たい気持ちになっていったのである。くるりと車椅子の向きを器用に変えて彼女の部屋へと向かった。
 部屋の前まで来ると、なんと襖の向こうに何やらぼんやりとした灯りがともっているではないか。彼は、妻は起きているのではないかと躊躇したが、こんな遅い時間にまさかという思いと、どうしても寝顔を見たいという思いが彼に襖を開けさせた。どうやら灯りの正体は蝋燭であり、彼女は何かに手を合わせているようであった。彼に気づく様子はない。更に目を凝らすと、どうやら観音様に祈っているようである。それは安田が昔旅先で買い、彼女にお土産としてあげたものだ。観音様は介護に疲れた哀れな妻を、慈悲の篭った眼で見つめているようであった。一方、その肝心の妻の表情であるが、蝋燭の火が小さくうまい具合に見えそうで見えない。しかしそ火が風によって揺れた時、安田はしっかりと我妻の顔を捉えた。またあの表情、味噌汁を零して片付けていた時と、同じような顔をしている。丹精で整っていた嘗ての顔は皺がすっかり多くなってしまい、精気に満ちた輝かしい瞳は光を失い、『蜘蛛の糸の先にある天上』※を見つめるかのようであった。
 それを見た安田は、心臓を射抜かれたような思いがした。妻に気づかれないように、襖を閉め、自室へと早々に戻っていく。「見るんじゃなかった。」という彼の気持ちは、電撃のように全身を駆け巡り、床についてからもおさまることはない。彼には最早、なんとしても死ぬ事以外に道は残されていない気がしてならなかった。


 来島が安田の前に再び姿を表したのは、安田が妻の部屋を除いた数日後のことである。月明かりの夜に再び登場した来島に対し、彼は哀願の表情で迎えた。
「来てくれたのか。」
「ええ、お約束でしたので。」
 その声は事務的ではあったが、表情はいつにも増して柔らかい印象を安田に与えた。
「では殺してくれるのだな?」
 逸る気持ちを最早抑えられなかった。しかしそうした安田を諭すように、来島は話した。
「その前に少し見ていただきたいものがあるのです。」
「見せたいもの?」
 安田が怪訝そうな顔を浮かべた。
「ええ、天国へゆくのはそれからでも遅くはありません。」
 少し躊躇はしたが、最後ぐらいこの男の言うことを聞いてやろうという気持ちになり、やや億劫ではあったが慣れた手つきでベッドから車椅子へと移った。

 来島が連れてきたところは、妻、奈保子の城である台所である。彼は一体何を見せようというのか。安田には不思議でならなかった。すると、そうした彼の様子を察したのか、来島が静かに口を開いた。
「机の上に数冊のノートがあるでしょう。是非中を覗いてみて下さい。」
 元来真面目な安田である。自分の妻とは言えど他人のノートを開く事に罪悪感を覚えずにはいられい。彼は来島の顔を見た。彼は自信たっぷりの様子で頷く。どうやら彼が見せたかったものというのはこれで間違いないらしい。安田は恐る恐る妻のノートを開いてみた。どうやら料理のレシピのようである。そうかと思えば、次の頁を開いてみると、癌に関する新聞の切り抜きが貼ってあった。
「これは一体……。」
 安田は不安げな表情を見せた。来島は柱に持たれ、腕を組みながら事務的に話す。しかしそれは何処か安田を責める風でもあった。
「貴方はどうやら、奥さんに苦労をかけたくなくて死にたいと仰っていたようですが、奥さんは果たしてそうだったのでしょうか。身を粉にしてでも貴方に生きて欲しいと思ったからこそ、そこまでしているのでは?」
 静かな言葉がかえって安田の心臓を鋭く貫いた。
(そうだ、そうであった。あの時の言葉を何故今更思い出すのか。)

ー私を1人にしないでね。ー

 それは隆之を亡くして葬儀を終えた後、ボソリと奈保子が口にした一言であった。当時、父親としての責任を果たせなかったという自身の思いを強く受け止めていた安田は、妻との離婚すら考えていたのである。しかしこの奈保子の一言によってそれは避けられた。
 そして今の今になってその一言が彼に重くのしかかった。一筋の涙が彼の頬を伝った。そしてそうした彼の表情を来島は盗み見るようにして捉えていた。
「さて、それでも貴方が死にたいと仰るのでしたら、いつでも迎えを用意しますよ。」
 彼はそう言うとくるりと向き直し、もときた道を戻りはじめた。その途中、あの不気味な、はじめて安田と会った時に見せた笑みを浮かべながら、ボソリと誰にも聞こえないような声で呟いた。
「これだから人間は……。」


 次の春。安田はこの世での生を全うした。彼は妻によく話し、よく笑った。妻もそれに応えるように話し笑った。また葬儀での彼の写真は、なんの未練も感じられぬほど満面の笑みを浮かべてあった。


※芥川龍之介ー『蜘蛛の糸』の引用。

2014年10月22日水曜日

鬼ー織田作之助

 著者の知り合いである「辻十吉」という男は、世間から卑しい金好きとして見られており、「あの男は十(じゅう)に辶(しんにゅう)をかけたような男だ」と極言されていました。
 ところがそれは世間の風評だけで、実際のところ、経済観念に非常に疎く年中物語の事を考えている、俗にいう「仕事人間」だったのです。それは、身内が危篤でも親戚だけにお家周りをさせて自分は仕事を優先させたり、小切手の受け取るにいく事を面倒くさがり無効になるまで放置したり、旧円を新円に変える事を億劫に思ったりと、すさまじいのでした。
 しかし、いざ小説の世界の話となると、登場人物の経済状況を事細かに設定する事が出来ます。一体何故辻は現実の世界でそれをやらず、物語の世界ではそれを積極的にやる事が出来るのでしょうか。

 この作品では、〈小説を書いてお金を稼ごうとするが故に、かえって経済観念を失っていった、ある男〉が描かれています。

 この作品の面白さは無論、現実の世界では経済観念を発揮できない辻が、何故創作の世界だと金銭の勘定を細かく設定できるのだ、というところにあります。
 それを探る為に、まずは彼の創作活動が彼の生活とどのように関連しているのかを整理してみましょう。そもそも辻は、自身の生活を支える為、小説を書き、それを新聞社やラジオ局に寄越していました。つまり生活の面から見れば、彼は生計をたてる為に小説をかいているのです。
 ですが彼のいけないところは、その創作活動に熱中するあまりに、目的が消失してしまっているというところにあります。これはギャンブルにのめり込んでいる人達と似通っているところがあるのです。彼らも本来であるならば、少なからず自分の生活を豊かにしようという気持ちから、賭け事に興じている側面があります。ところが賭け事そのものの魅力にどっぷりと嵌り込み、かえって生活そのものが破綻するケースだって少なくはありません。
 そして辻もまた、自身の創作活動が直接的に彼自身の経済を支えているが故に、書かなければならないのは事実としてあります。ですが恐らく、仕事を熱心にすればする程、創作の事以外考えられなくなっていき、結果として、生活に支障が出てきてしまったのです。

※注釈
−――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙 なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。(中略)普通十人家族で千二百円引き出せる勘 定だが、千円と前の三百円、合わせて千三百円、一家自殺を図った家庭が普通一般の家庭と変らぬことになる――」

2014年10月1日水曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合(上)


 肌を突き刺すような風がやわらぎ、桜の葉が優雅に空を舞う季節になった頃の事である。小鳥たちが生命の息吹を祝福し、人々が新しい生活に向けて清々しく太陽の下を歩いているにも拘らず、安田隆一だけはただ1人、薄暗い家の中で悶々としていた。彼は布団に潜り込み、自分はいつ死ねるのかという事ばかりを暗中模索しているのである。医者から癌という告発を受けて2度目の春になるが、彼の心中では既に遥か遠い昔の事のように思えた。それ程までに癌による痛みと苦痛は彼の心身を蝕んでいたのである。最早、生にすがる意欲を失い、死が甘美な囁きとなって彼を誘惑してくるのだ。いっそのこと手元にある薬を飲んで死んでしまおうとさえ考えた事もある。しかし、いざやろうと思っても妻の顔がちらつく。ただでさえ自身の看病で苦労をかけているのに、非常識な死に方をして最後まで困らせるような事は安田には到底出来なかった。
 何かうまい死に方はないものか。そうした事を考えていると、以前に自殺を専門に取り扱ってくれる団体に連絡をとったことをふと思い出した。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。が、そこに連絡すれば、死を望んでいる人間に対して、安らかな眠りをもたらしてくれるというのだ。はじめは安田自身、巷で下らない噂話が横行しているものだなという風にしか思っていなかったのである。しかし彼の死への羨望が徐々に膨らんでいくに連れて、そうした与太話を信じる気になっていった。ところが電話で連絡がとれ、死にたい旨を伝えたかと思えば、相手はそのまま受話器を切ってしまい、其の侭音沙汰はない。それから暫くの間、彼は自分の愚かさに羞恥した。が、電話が繋がった事は紛れもない事実として安田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。もしかすると、という淡い思いは今でも彼の胸の内で燻っているのである。


 徒労とも思える思案に飽きてきた彼は、ふと虚ろな眼で窓をみた。辺りはすっかり暗くなり、月がぼんやりとした光を放っている。ここで彼はある異変に気がついた。窓からひんやりとした風が入ってきているのだ。普段であれば、妻が夕食を終えた後で閉めてくれるのだが、今日は忘れてしまったのかと安田は思った。しかし彼女が窓の傍に寄って閉めているところをしっかりとその目で見ていたことを思い出した。窓をじっと見ていると、更なる異変を感じる。開け放たれた窓の傍に、何者かが立っているのである。しかしこうした非常識な状況においても、生きることに興味を失った安田が冷静さを失うことはなかった。淡い月の光で何者なのかはよくわからない。が、どうやら長身の、恐らくその逞しい肩幅から察するに男である事はよく分かった。彼はゆっくりと無気力に尋ねる。
「誰だ、そこにいるは。」
 そう言うと男は一歩前へ出た。するとうまい具合に月の光が男を照らしだした。彼は女とも思える端正な顔立ちとツンと長い鼻をした青年である。
「申し遅れました、日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 彼は事務的な口調と表情で話した。安田にはなんのことだかさっぱり分からない。そしてこうした怪訝そうな彼の表情を見て、来島と名乗る青年は続けた。
「以前に私たちの団体に電話をかけて下さいましたよね?」
 その刹那、安田の表情がはっとなった。薄暗く先の見えなかった心中に、一点の力強い光が差し込んでくれたような思いがした。彼は目に涙を溜めながら、眼前に現れた神からの使者を見つめた。
「やっと来てくれたか……。」
「ええ、お待たせして申し訳ありません。」
「構わん。で、いつ俺を殺してくれるのだ。」
 逸る気持ちを安田は抑えられなかった。しかしそうした彼とは対照的に、来島は落ち着き払っていた。
「そう慌てないで。まずは貴方を審査しないといけません。」
「何?審査だと!!」
 その言葉を聞いた瞬間、安田の表情は一気に曇った。何か人を小馬鹿にされたような心持ちになったのである。
「ええ、死は誰にでも与えられるものではありません。死を与えるに値する方と判断した場合のみ、処方して差し上げる事が出来るのです。」
 安田の表情はみるみる険しくなっていった。この若造はただ上からの使いでここにきたに過ぎず、自分の事などちっとも理解してくれていない。そう察したのである。
「お前には分からんかもしれんがなぁ、俺は待たされている間の数ヶ月、死にたくて死にたくて仕方がなったんだ!その上に審査だと!!」
 安田の剣幕には、今にも来島の胸ぐらを掴まんばかりのものがあった。しかしそうした勢いに対しても、彼は全く動じなかった。
「ええそうです。理解して頂けない場合、話はここで終わりです。」
「……むぅ。」
 こう言われてしまうと流石の安田も閉口せざるを得なかった。彼は口惜しげに唇を歪めていた。そうした安田を見かねて、来島は安田に問いはじめた。
「一体何故です。貴方は数年前から癌を患っているようですが、もう余命幾ばくとない命じゃないですか。何故私たちに拘るのですか。」
 すると安田の表情はみるみる苦しい者へと変わっていった。元来嘘がつけない安田としては、幾ら嫌悪を抱いている相手であっても表情を偽る事が出来ないのである。彼は俯き、頼りない声でボソッと呟いた。
「………妻だ。あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ。」
 その言葉には、安田とその妻奈保子との十数年の気まずい距離感がにじみ出ていた。


 もともと彼らは仲睦まじい夫婦であり、子宝にも恵まれた。名を隆之と言い、彼らは一人息子に溢れんばかりの愛情を注いだ。だが、隆之が小学校に入るか入らないかの年齢に達した頃、その日は強い雨風が吹いていた。妻が目を離した隙に外へ出ていき、川へと落ちてしまったのである。彼がいないことに気がついた妻は、すぐに出張中の夫に電話をした。ところが当時働き盛りであった安田は、出張を優先した。我が子を心配しない親などいるはずがない。しかし仕事に対する責任感が、彼を家には帰らせてはくれなかったのだ。その数日後、隆之は変わり果てた姿になって自分の家に帰ってきた。
 それ以来、夫婦の間には深い溝が出来てしまった。夫は滅多なことでは家によりつかなくなり、妻は妻でお茶の稽古や習字など習い事に専念するようになっていった。しかし、それでも妻は毎朝夫のポットに熱い緑茶を入れることを1日たりとも怠らなかった。家に帰ればいつでも手の込んだご飯が彼を待っていた。こうした彼女の気遣いは、かえって安田の心を痛めた。こうした気配りが、2人の間の歪を浮き彫りにされているような気がしてならなかったのである。
 ところが自分がいざ病気をすると、不思議と今度は妻との関係を何処かで取り戻せる気になってきた。安田は医者の引き止めるのを無視し、通院と入院を拒み、自宅療養を決めた。はじめはぎこちないながらも、妻に話しかけてみたり、彼女の体調を労ったりした。彼女のそれに応じて、慣れないような受け答えをしてみせた。
 だが、数十ヶ月前の事である。安田は自分の不注意で味噌汁のおわんを零してしまった。すかさず妻がそれを片付けている時、彼は見てはならぬものを見てしまったのである。妻の横顔を見た時、全身から冷や汗をかいた。まるで天国にも行けず地獄にも行けず、煉獄にずっと繋がれている亡者のような形相を浮かべていたのである。その顔を見た瞬間、今までの妻の笑みが偽りであったかのように思えた。今では自分が家にいることは妻をいたずらに疲れさせているだけのような気さえするのである。
 隆之が死んだあの日以来、安田は妻にとって邪魔なだけな存在になったことを確信したのである。


 安田は下を向いた儘、一向に来島の方を見ない。ただぼんやりと何処を見ているわけでもなく、空虚な考えに耽っているようにさえ見えた。そんな安田を見ていた来島は、一瞬冷たい視線で彼を見下し、唇に笑みを浮かべた。が、安田に悟られる前にすぐにもとに戻し、無表情の儘、矢張り事務的に話した。
「成る程、奥さんの負担を考えての上での判断という訳ですか。ですが審査はさせてもらいます。安心して下さい。近いうちに必ずきますよ、奥さんの為にも。」
 最後の言葉を聞いた瞬間、安田は漸く来島の方を哀願の表情で向き直した。来島は穏やかな笑みでそれに応じた。
「本当なのか、嘘じゃないだろうな?」
「ええ、近いうちにお会いしましょう。審査はすぐに終わりますよ。」
 そう述べると、来島は一歩下がり、出てきた窓を跨いで闇の中へと消えていった。残された安田は、まるで夢の中にでもいるような顔で、暫くその窓を眺めていた。

2014年8月15日金曜日

父帰るー菊池寛

 ある日黒田家に、出奔していた父が約20年振りに帰ってくるところから物語ははじまります。彼はこれまで勝手気ままに放蕩生活を楽しんでいたわけですが、自身の老化からそうした生活が困難になってきており、我が家に帰ってきたのでした。そして母と弟と妹も、突然の父の帰郷を嬉しく思っている様子。
 ところがこの家の長男たる賢一郎だけは、それまで父がいない負担を自分が背負ってきたのだという思いから、家の敷居を跨ぐことを許しませんでした。やがて父の方でも兄の苦労話を聞いて、自分がかけた迷惑を考えて家を再び出る事を決意していきます。
 しかし弟や母は、このままでは父は路頭に迷うことになるのではとう懸念から、必死で兄に哀願するのでした。やがてそのうち兄も、暫く何か考えた後に、父を家に置く事を許していったのです。

 この作品では、〈父としての責任を全うして欲しかったという思いが強いあまり、かえって出奔していた父を養う決意をしていった、ある息子〉が描かれています。

 この作品で重要となってくる事は、父を家に入れる事を断固として拒否していた兄が、突然に他の家族の哀願をきっかけとしてそれを受け入れるようになっていった、ということです。彼はそれまで父がいないという家族の負担を一番強く受けていた為に、いきなりの父の帰郷を誰よりも許す事が出来なかったのでした。それまで父親代わりとして2人の兄弟を育ててくた兄の脳裏には、恐らく「父親がいればこんな苦労はせずに!!」という思いが常に浮かんでいた事でしょう。
 ところがこれは現実のあり方を捉えた後に、頭の中で理想の家族のあり方を想像していたからこそ、感じることのできる思いなのです。つまり兄は心の何処かでは父を恨んでいたと同時に、父に父としての責任を全うして欲しかったという思いが同時に存在していた事になります。
 更に兄が父を家に置く事を決めていった理由は、彼の心情の他にもうひとつ大きな要因があるのです。それは父が父としての役割を果たせる条件にあった、というところにあります。それまでの父の役割というものは、子供が成人するまで、一家を養わなければならないというところにありました。しかし道楽者である彼は、そうした責任を放棄した結果、家を20年間もあけていました。ところが子供達が成人し、今度は彼らが両親を養わなければいけない段になってくるとどうでしょうか。父も自身の老化から、自然と家に戻らなければならない必要性を感じはじめ帰ってきたわけですから、その役割を果たす事は心身の条件として十分可能です。
 ですから兄は、父のことをひどく恨む一方で、父に彼の責任を果たしてもらいたかった、もらいたいという思いから彼を受け入れようと思ったのでした。

2014年8月9日土曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合

(上)


 厳しい冬の寒さが過ぎ去り、生命の息吹を感じられるようになったある夜の事である。安田隆一にとって、癌が発症して2度目の春が訪れた。彼は床の中で、無限とも思える日常をすごしながら、自分はいつ死ねるのかということばかりを考えていた。長きに渡る闘病生活は彼の心身を蝕み、遂には生きる気力すら奪っていったのである。そればかりか、このまま病気が進行し、今よりも更に強い痛みとそこからくる苦しみをも怖れるようになっていったのだ。最早、安田にとって死こそが唯一の希望となっていった。
 ふと、以前知人から聞いた、違法に他人の死を専門に扱ってくれる団体に連絡ととった事を思い出した。その組織とは、なんでも死にたい人間に対して、安らかなる死を提供してくれるというものである。馬鹿げているとは思った。しかし生への恐怖と死への甘美な憧れが安田を突き動かし、電話の受話器を取らせたのだ。だが、電話は繋がり話は出来たものの、待てど暮らせど彼を殺しに来てくれるものなど1人も現れなかった。なんだか馬鹿にされたような心持ちにもなったが、一方で「そんなうまい話があるわけないか」という妙な納得も出来た。彼は深い溜息をつき、再び途方も無い自分の死について考えはじめた。
 とその時、彼はひんやりと冷たいものがあたる感触を覚えた。何処かからか風が吹いているようである。しかし部屋の窓は妻である奈保子(なおこ)が閉めていったはずだ。奇妙に思いながら窓の方に目を向けると、なんと何者かがそこに立っているではないか。背は安田よりも高い長身で全身黒ずくめであった。そして、その顔立ちは良く外国人のように彫りが深く、どうやら若い青年のようである。突然の訪問者に安田は狼狽し、感謝的に「何者だ!!」と叫んだ。青年は落ち着いた様子で、丁寧に応えた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島(くるしま)です。」
 その刹那、もしかしたらという思いが安田の中で込み上がっていった。来島という青年は続けた。
「数ヶ月前に私たちに連絡をされたと思うのですが、身に覚えがないですか。」
 そう述べる来島の唇はニヤリと微笑を浮かべていた。安田は確信した。遂に自分を途方も無い生というしがらみから解き放ってくれる者が、今やっと彼の眼前に現れたのである。しかしその一方で、これまで散々待たされた鬱憤がないわけではない。彼は自分でも知らず知らずのうちに、言葉に刺をもたせた。
「随分と遅かったじゃないか。」
「ええ、私たちにも事情というものがありますので。」
「何、事情?」
 この来島の一言に安田の表情は歪んでいった。この男は自分の気持ちを知らないのではという思いが、腹の底から徐々にこみ上げてきた。
「ええ、これから私は貴方を殺そうとしているのです。これは殺人以外の何物でもありません。用心するに越したことはないですよ。」
 来島は涼しい顔をしながら応えた。が、こうした彼の表情は安田を更に苛つかせた。
「……成程。で、いつ殺してくれるんだ。今か?」
「落ち着いて下さい。まずは貴方を審査しなければなりません。」
「……審査だと。」
「ええ、死は万人に処方できるものではありません。私たちは私たちの倫理に則って、死を扱っているのです。」
 こう話す来島の態度は一切変わらず、事務的に自らの役割を全うしているようであった。その一方で、安田の表情はみるみる険しくなっていった。医者から癌と診断されて約2年。その間、いつ終わるとも分からぬ自分の命の行方を心配する自分の気持ちなぞこの若造にはわからないのだと思いはじめた。
「さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事を……。お前らは死にたい人間を殺してくれるのだろう。俺は今すぐにでも死にたいのだ。それじゃ駄目なのか!!!」
 その剣幕は逆に安田が来島を殺す風であった。だが来島は一歩も引かず、彼の目をじっと見据えて言った。
「……審査はします。それが会則です。でなければ失礼させて頂きます。」
「ぬう……。」
 動揺を隠しきれなかった。まさか向こうから断ってくるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「そもそも何故貴方は私たちに拘るのですか?」
「……妻だ。」
 先ほどとは打って変わって力のない声で応えた。
「成程、癌だとは聞いていましたが、見たところ自宅療養みたいですね。察するに、奥さんがお1人で?」
「……そうだ。これ以上妻には迷惑を掛けられん。妻の奈保子はな、俺が病気をしてからは、ずっと傍にいてくれている。茶道が趣味で前までは先生もやっていたが、それもぱったりとやめてしまった。何もかも、俺のせいで我慢しているんだ。たったひとりの家族なのにな……。」
 そういうと彼は俯き、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。癌と診断された安田は、入院をすすめた医者の反対を押し切って、すぐに自宅療養することにしたのだ。これまで何人もの友人を亡くしている。その者の多くは大抵薬漬けになり意識が朦朧とし、家族に別れを告げられないままこの世を去っていった。安田にはそれが何よりも寂しい事に思えてならなかった。しかし、そんな彼を看病している妻の奈保子は日に日に、徐々に疲れていった。頬などはこけはじめ、白髪も多くなったような気さえする。更に目の下には真っ黒いクマがいつの間にか出来ていった。そんな奈保子の表情が変化していくことに彼は耐えられなくなっていったのだ。
「分かりました。審査はさせてもらいますが、近いうちに貴方のもとを訪れますよ。」
 来島の口調は相変わらず事務的であった。それでも、まだ蟠りがあるものの、自分の気持ちを組んでくれた節があるところが、安田にはやや良い印象を持たせた。
「……必ずだぞ。」
 安田のその言葉を聞くと来島はくるっと後ろ向き、彼が入ってきたと思われる窓から静かに消えていった。再び安田に無限の時間が訪れた。


 来島が来た以降も、安田の日常は何ら変わらなかった。毎日3度の食事を妻が用意してくれ、夕方には熱湯につけた熱いタオルで身体を拭いてくれる。そして昼とも夜とも関係なく眠り続けるのだ。ふと妻の方はどうかと考えた。自分の世話で疲れているのだ。何か変化があっても可笑しくないはずである。しかし考えたところで、妻のことなど彼は知る術をあまり持ってはいなかった。

 来島には家族は奈保子1人だと言ったが、いなかったわけではなかった。彼は安田家の棚の中で静かに眠っていた。
 彼は20数年前、安田家の長男、隆之としてこの世に生を受けてきたのだが、6歳の頃、それは関東に最も大きな台風が接近していた時である。息子は母の目を盗み、雨の中友達の家に遊びに行って、川で溺れてしまったのだ。我が子が家にいないことに気がついた奈保子はすぐに出張中の安田に電話をした。この頃の安田は大手建設業の役員として働いており、なかなか家にも帰ってこれずの身であった。受話器をとった時、安田はひどく動揺した。が、元来からもっている責任感から、どうしても今現場を動くわけにはいかなかった。当時彼は建設現場の監督として派遣され、彼が帰るということは工事のストップを意味していたのである。安田は妻に、現場が片付けばすぐに家に帰る事を約束した。
 それから2日後、隆之は自宅から少し離れた川沿いで発見された。安田が家に帰り着いたのは発見されて、更に2日経ってからの事であった。

 以来、安田は家には寄り付かなくなり、それに伴い夫婦らしい夫婦の会話は一切消えた。安田は心の何処かで妻が自分の事を恨んでいる気がしてならなかった。そしてその度に、何故あの時家に帰ろうとしなかったのかとも思った。彼は妻の顔を見る度に、こうした後悔とも懺悔とも分からない気持ちにさいなまれていくのである。
 が、病気をしたらしたで、奈保子に対する申し訳ない気持ちは更に膨らんでいく。この前なども、安田がうっかり零した味噌汁を拭きながら目に涙を溜めていた。安田にはそれが彼女が自分の惨めさを哀れんでいるように思えて仕方がない。安田自身が泣きたい気持ちになっていった。
 また別の日には、彼の嫌いなトマトが食卓に並んでいた。これまでの奈保子なら絶対にやらない事である。それはささやかな嫌がらせに彼には思えてならなかった。
 彼の妻は毎日確実に変化していた。しかも悪い方に、である。こうした考えに耽ることに、安田は疲れてしまい、深い溜息をついた。そして自分の生が終わるその日を思いながら、静かな眠りについた。

(下)

 1
 しかし、妻の気持ちを知りたいという安田の思いは、死を目前にして徐々に募っていった。それは来島があの日以来、彼の前に現れない苛立ちと比例していく形で気になっていった。
 そしてその機会は、そう遠くはなかった。ある時の昼食、彼の嫌いなトマトがサラダとして食卓に並んでいたのである。これで1周間のうちに3回出たことになる。とうとう我慢出来なくなり、安田はこれまで閉ざしていた思い口を恐る恐る開いてみた。
「トマトは好きじゃないんだ。」
「……そう。」
 少し間を溜めて奈保子は素っ気なく応えた。安田は構わず続けた。
「お前だって知っているだろう。それに、残せない事も……。」
 出されたものは全て残さず食べる。これが安田の元来の性分であった。だからと言って、自分の嫌いなものをそう何度も出されるのもあまりいい気がしないのも確かであった。自分の好き嫌いを長年知っている相手なら尚更である。
「でも……身体にいいから、トマト。」
 力ない表情で、奈保子は微笑んだ。しかし安田の表情は、いかにも納得のいかぬといったものであった。
「身体にいいも悪いもないだろう。どうせ死ぬんだ。」
「……。」
 彼の、この心ない一言がいけなかったのであろう。奈保子はやや唇を震わせながら、小さく、しかしながらはっきりとこう言った。
「そう文句ばっかり言わないで。人の気も知らないで。」
 そして彼女は素早く安田の前にあった食器を片付けて、早足で出ていってしまった。彼にとって、決定的な出来事であった。妻は矢張り、自分のしたいことを我慢して、これまで自分に付き合ってくれていたのだ。自分なんかいないほうが、彼女は彼女らしく輝けるのである。安田はこう思うほかなかった。


 結局来島が再び現れたのは、彼とはじめて会ってから、3週間たった後のことであった。彼はまだ太陽すらうっすらでているかいまいかという時間に、前回と同じ窓に、少しも悪びれる様子もなく立っていた。安田は再び堪忍袋の緒が切れそうな思いがした。
「こんばんは。いや、違ったかな?おはようございます。審査が終わりましたのでその結果を伝えにきました。」
 口調は相変わらず事務的である。彼は知らず知らずの内に安田の逆鱗に触れていた。
「お前、人の気もしらないでよくものこのこと……。」
「落ちつて下さい。今日で貴方の運命が決まるというのですよ。」
「五月蝿い!!今すぐ殺せ!!!殺すんだ!!!!!」
 安田は今にも来島に殴りかかりそうな勢いであった。先日の奈保子との事もあり、彼は明らかに焦っているのだ。しかし、来島の答えは安田の哀願を裏切るものであった。
「残念ながら、それはできません。それを伝える為に、今日は参上しました。」
 それを聞いた瞬間、安田血は遂に頭にまで上った。が、同時に彼は心臓に何かで締め付けられるような激痛を覚えた。来島に何も言えぬまま、彼は呼吸を乱し、ベッドの上で悶えた。その様子は来島はじっと観察していた。
 やがて、痛みがおさまると、安田は再び発作が起きないように注意を払いながら、尋ねることにした。
「……説明してくれるんだろ?」
「私たちが求めるのは後腐れの無い死。言うなれば、生に対して消極的になる程の苦痛が存在し、死を積極的に望んでいなければなりません貴方の場合はそれに反しているのです。ご理解できないようでしたら、その証拠を見にゆきましょう。」
 そう言うと来島は安田のベッドの横にあった、通院用の車椅子を用意しはじめた。一体彼は自分を何処へ連れていくのであろう。もし彼らの謳う理想が本当ならば、自分はそれに反していないはずである。それなのに……。そうした疑問や疑念が安田の頭をぐるぐると駆け巡った。
 来島が彼を連れてきたところは、台所であった。そこは食器がきちんと整理されており、掃除もいき届いていた。几帳面な奈保子の性格が其の侭現れたような空間であった。ただ目につくところがあるとすれば、机の上に数冊の本が乱雑に置かれていた事であった。それは安田にも見てとれた。そして来島は彼がその数冊の本を気にしている事をすぐに察した。
「あの本は、奥さんの料理本なわけですが、是非中を覗いてみて下さい。」
 安田は来島の顔を見た。彼はただ乱雑に置かれた書物に目を見張っている。仕方なく、彼はそれらに目を通した。するとそれらには付箋が貼ってあり、妻の字で細かな書き込みがされていた。しかもその箇所というのが、どれも見に覚えのある料理ばかりにあられてあった。最近安田が口にしたものばかりであったのだ。その中にはあのトマト料理もあるではないか。
「これは……。」
 思わず考えている事が口から漏れてしまった。来島は彼の疑問に応えた。
「それらは皆、癌に効くと言われている食材ばかりが使われています。きのこ、海藻類、納豆、そしてトマト。」
「……。」
 もしやという思いが安田の全身を駆け巡った。
「何故だ、何故こんな事を……。」
 これまで安田は、奈保子が自分の事など仕方なく世話してくれているとばかり思っていた。しかしここにきて彼の体調を労っていた事実が、自身の勘違い故に上入れ難かったのである。
「自身の胸に手を当てて考えると良いでしょう。幾十年にも及ぶ月日を、いかなる形であろうと過ごしてきた夫婦だ。その夫を先立たれて、奥さんが悲しくお思いにならないはずがないでしょう。」
 来島は胸に手を当て、穏やかに何かを諭すように言った。安田は妻との思い出が、自身の内からこみ上げてくるのを感じた。隆之を失ってからも、奈保子は安田の水筒に、彼の好きな熱いほうじ茶を入れることを怠らなかった。どんなに遅く帰ってきても、晩御飯だけは用意してくれていた。常に自分よりも先に起き、朝食の支度やら仕事の準備をしてくれていた。そうした妻のこれまでのひとつひとつの心配りが、安田の両親を責め立ててきたのである。彼は動揺しきっており、来島を哀願の目でみつめた。
「……妻はな、この前俺に、人の気も知らないでと言ったんだ……。」
 来島の口調は矢張り穏やかであったが、一方で安田を責めるかのようでもあった。
「それはこういう事じゃないですか。奥さんが頑張っているというに、貴方まで彼女を置いて去ろうとした事を咎めていたのではないですか。」
 彼は全身に雷が落とされたような心持ちがした。彼はがっくりと俯き、目には大粒の涙を溜めていた。来島はなおも続けた。
「奥さんは貴方の為に、今癌に効くと言われている水を汲みに行っていますよ。さて、貴方は本当に生きることから逃げる為に、奥さんの為に死にたかったのですか。それとも……。」
 そう言いかけて来島は目線を下に下げた。すると安田は肩を震わせながら、静かに大粒の雫を目から零していたのだ。来島はそれを見ると何かに満足したかのように彼の前を去っていった。


 それから安田がこの世を去ったのは3ヶ月あとの事であった。夏の照りつける夏の日差しが強くなった頃の事であった。以来安田家の墓前の前にはいつも、赤いよく熟れたトマトが置かれるようになった。それが奈保子の新しい習慣となっていったのである。彼女はいつも息子と夫に手を合し、滝のような汗をかいていた。が、その表情はいつも雲ひとつない空のように清々しかった。

2014年8月1日金曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合(上)


 厳しい冬の寒さが過ぎ去り、生命の息吹を感じられるようになったある夜の事である。安田隆一にとって、癌が発症して2度目の春が訪れた。彼は床の中で、無限とも思える日常をすごしながら、自分はいつ死ねるのかということばかりを考えていた。長きに渡る闘病生活は彼の心身を蝕み、遂には生きる気力すら奪っていったのである。そればかりか、このまま病気が進行し、今よりも更に強い痛みとそこからくる苦しみをも怖れるようになっていったのだ。最早、安田にとって死こそが唯一の希望となっていったのである。
 ふと、以前知人から聞いた、違法に他人の死を専門に扱ってくれる団体に連絡ととった事を思い出した。その組織とは、なんでも死にたい人間に対して、安らかなる死を提供してくれるというものである。馬鹿げているとは思った。しかし生への恐怖と死への甘美な憧れ(自分を無限とも思える地獄から開放してくれるという憧れ)が安田を突き動かし、電話の受話器を取らせたのだ。だが、電話は繋がり話は出来たものの、待てど暮らせど彼を殺しに来てくれるものなど現れなかった。なんだか馬鹿にされたような心持ちにもなったが、一方で「そんなうまい話があるわけないか」という妙な納得も出来た。彼は深い溜息をつき、再び途方も無い自分の死について考えはじめた。
 とその時、彼はひんやりと冷たいものがあたる感触を覚えた。何処かからか風が吹いているようである。しかし部屋の窓は妻である奈保子(なおこ)が閉めていったはずだ。奇妙に思いながら窓の方に目を向けると、なんと何者かがそこに立っているではないか。背は安田よりも高い長身で全身黒ずくめであった。そして、その顔立ちは良く外国人のように彫りが深く、どうやら若い青年のようである。突然の訪問者に安田は狼狽し、感謝的に「何者だ!!」と叫んだ。青年は落ち着いた様子で、丁寧に応えた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島(くるしま)です。」
 その刹那、もしかしたらという思いが安田の中で込み上がっていった。来島という青年は続けた。
「数ヶ月前に私たちに連絡をされたと思うのですが、身に覚えがないですか。」
 そう述べる来島の唇はニヤリと微笑を浮かべていた。安田は確信した。遂に自分を殺してくれる悪魔が目の前に現れてくれたのだと。しかしその一方で、これまで散々待たされた鬱憤がないわけではない。彼は自分でも知らず知らずのうちに、言葉に刺をもたせた。
「随分と遅かったじゃないか。」
「ええ、私たちにも事情というものがありますので。」
「何、事情?」
 この来島の一言に安田の表情は歪んでいった。この男は自分の気持ちを知らないのではという思いが、腹の底から徐々にこみ上げてきた。
「ええ、これから私は貴方を殺そうとしているのです。これは殺人以外の何物でもありません。用心するに越したことはないですよ。」
 来島は涼しい顔をしながら応えた。が、こうした彼の表情は安田を更に苛つかせた。
「……成程。で、いつ殺してくれるんだ。今か?」
「落ち着いて下さい。まずは貴方を審査しなければなりません。」
「……審査だと。」
「ええ、死は万人に処方できるものではありません。私たちは私たちの倫理に則って、死を扱っているのです。」
 こう話す来島の態度は一切変わらず、事務的に自らの役割を全うしているようであった。その一方で、安田の表情はみるみる険しくなっていった。医者から癌と診断されて約2年。その間、いつ終わるとも分からぬ自分の命の行方を心配する自分の気持ちなぞこの若造にはわからないのだと思いはじめた。
「さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事を……。お前らは死にたい人間を殺してくれるのだろう。俺は今すぐにでも死にたいのだ。それじゃ駄目なのか!!!」
 その剣幕は逆に安田が来島を殺す風であった。だが来島は一歩も引かず、彼の目をじっと見据えて言った。
「……審査はします。それが会則です。でなければ失礼させて頂きます。」
「ぬう……。」
 動揺を隠しきれなかった。まさか向こうから断ってくるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「そもそも何故貴方は私たちに拘るのですか?」
「……妻だ。」
 先ほどとは打って変わって力のない声で応えた。
「成程、癌だとは聞いていましたが、見たところ自宅療養みたいですね。察するに、奥さんがお1人で?」
「……そうだ。これ以上妻には迷惑を掛けられん。妻の奈保子はな、俺が病気をしてからは、ずっと傍にいてくれている。茶道が趣味で前までは先生もやっていたが、それもぱったりとやめてしまった。何もかも、俺のせいで我慢しているんだ。たったひとりの家族なのにな……。」
 そういうと彼は俯き、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。癌と診断された安田は、入院をすすめた医者の反対を押し切って、すぐに自宅療養することにしたのだ。これまで何人もの友人を亡くしている。その者の多くは大抵薬漬けになり意識が朦朧とし、家族に別れを告げられないままこの世を去っていった。安田にはそれが何よりも寂しい事に思えてならなかった。しかし、そんな彼を看病している妻の奈保子は日に日に、徐々に疲れていった。頬などはこけはじめ、白髪も多くなったような気さえする。更に目の下には真っ黒いクマがいつの間にか出来ていった。そんな奈保子の表情が変化していくことに彼は耐えられなくなっていったのだ。
「分かりました。審査はさせてもらいますが、近いうちに貴方のもとを訪れますよ。」
 来島の口調は相変わらず事務的であった。それでも、まだ蟠りがあるものの、自分の気持ちを組んでくれた節があるところが、安田にはやや良い印象を持たせた。
「……必ずだぞ。」
 安田のその言葉を聞くと来島はくるっと後ろ向き、彼が入ってきたと思われる窓から静かに消えていった。再び安田に無限の時間が訪れた。


 来島が来た以降も、安田の日常は何ら変わらなかった。毎日3度の食事を妻が用意してくれ、夕方には熱湯につけた熱いタオルで身体を拭いてくれる。そして昼とも夜とも関係なく眠り続けるのだ。ふと妻の方はどうかと考えた。自分の世話で疲れているのだ。何か変化があっても可笑しくないはずである。しかし考えたところで、妻のことなど彼は知る術をあまり持ってはいなかった。

 来島には家族は奈保子1人だと言ったが、いなかったわけではなかった。彼は安田家の棚の中で静かに眠っていた。
 彼は20数年前、安田家の長男、隆之としてこの世に生を受けてきたのだが、6歳の頃、それは関東に最も大きな台風が接近していた時である。母の目を盗み、友達の家に遊びに行ってしまった。気がついた奈保子はすぐに出張中の安田に電話をした。この頃の安田は大手建設業の役員として働いており、なかなか家にも帰ってこれずの身であった。受話器をとった時、安田はひどく動揺した。が、元来からもっている責任感から、どうしても今現場を動くわけにはいかなかった。当時彼は建設現場の監督として派遣され、彼が帰るということは工事のストップを意味していたのである。安田は妻に、現場が片付けばすぐに家に帰る事を約束した。
 それから2日後、長男は死体として発見された。安田が家に帰り着いたのは発見されて、更に2日経ってからの事であった。

 以来、安田は家には寄り付かなくなり、それに伴い夫婦らしい夫婦の会話は一切消えた。安田は心の何処かで妻が自分の事を恨んでいる気がしてならなかった。そしてその度に、何故あの時家に帰ろうとしなかったのかとも思った。彼は妻の顔を見る度に、こうした後悔とも懺悔とも分からない気持ちにさいなまれていくのである。
 が、病気をしたらしたで、奈保子に対する申し訳ない気持ちは更に膨らんでいく。この前なども、安田がうっかり零した味噌汁を拭きながら目に涙を溜めていた。安田にはそれが彼女が自分の惨めさを哀れんでいるように思えて仕方がない。安田自身が泣きたい気持ちになっていった。
 また別の日には、彼の嫌いなトマトが食卓に並んでいた。これまでの奈保子なら絶対にやらない事である。それはささやかな嫌がらせに彼には思えてならなかった。
 彼の妻は毎日確実に変化していた。しかも悪い方に、である。こうした考えに耽ることに、安田は疲れてしまい、深い溜息をついた。そして自分の生が終わるその日を思いながら、静かな眠りについた。

2014年7月24日木曜日

タナトスの使者1-2(修正版)

  安田家を後にした来島は、次に自分が何をすべきかをよく理解していた。彼はポケットから携帯電話を取り出しどこか繋げた。が、彼はコールボタンを押したかと思うとすぐに赤いボタンを押してさっさとポケットに再びしまった。そして、暫く彼が歩いていると、ポケットの中から、何かが震えるのを感じた。ところが来島はその振動があった事を心のうちで認めると、歩幅を大きくして先を急ぐばかりであった。
 彼が向かった先はオフィス街の中心であった。暗闇が支配するこの時刻、昼間の慌ただしさとは打って変わって人気はない。静寂のみがあたりを蠢いている。そして巨大なビルとビルの間に申し訳なさそうに間に挟まれている建物に、来島は吸い込まれるように入っていった。そこが死神の住処であった。そしてその死神が自分の家を開けて最初に目にした人物こそ、彼の数少ない協力者であり、パートナーである鈴木である。
「よう、先に上がってるぜ。」
 彼は何やら鍋で何かを煮込んでいるようである。来島はこうした彼の挙動に、呆気に取られながらも平生を保った。
「……ああ、呼んだのは俺だ。」
 が、そんな死神に心中を察したのか、鈴木は笑みを浮かべながら付け足した。
「そうカッカするなよ。腹が減っただろう。メシにしようぜ。」
 死神はため息をついた後、靴を脱いで奥に入っていった。
 彼が着替えを済ませる頃には夕食の準備は済んでいたようである。部屋中にバターと醤油の香ばしい匂いが広がっていた。リビングの中央にはある机には、2つの皿があり、どちらにもよく炒められたシメジとパスタ麺が盛られていた。和風パスタである。
 来島はあぐらをかいて座り、目の前の皿を睨んで合掌した。そしてフォークを片手に器用に面をからめ口に運んでいった。が、作法は重んじているものの、何処か食に対する卑しさを感じずにはいられなかった。空腹だったのである。そしてそうした来島の姿を鈴木は楽しむように、自分自身はのんびりと味わっていた。
「旨いか?」
 そう聞かれた来島は彼と目と合わせると再び目線をパスタに注ぎ麺を口に詰めた。そして、皿から麺が全て消えていくかいくまいのところで、漸く口を開いた。
「頼みたいことがある。」
 思わず鈴木は再び彼の方を見た。彼もこちらを見ている。
「あの男づての仕事か?」
「……。」
「気が進まないね。」
「他に頼むアテもないんだ。」
 そう述べる来島は、鈴木から一切目を離さなかった。彼のその事には気づいてはいたが、あえて目を合わせなかった。ただ黙々と食事をとった。
「……やらないとは言ってない。ただ、俺はあの男が好きじゃないだけさ。仕事は仕事、それがプロだ。」
「……。」
 来島は何かを噛みしめるように、最後のパスタを口に運びじっくり味を楽しんだ。
「それで来島、俺は何をするんだ?」
「こいつを調べてくれ。」
「安田隆一……癌患者か。」
「ああ、今は奥さんが安田氏の看病しているんだが、その奥さんにそれ以上迷惑をかけたくなくって死にたいらしい。」
「成程。」
 鈴木は冷笑まじりにそう答えた。その男から何か、目出度さのようなものを感じずにはいられなかったのである。
「出来るか?」
「任せろ、すぐに基本的な事は分かる。で、殺してやるんだろ?」
「彼が死を処方するに値するならな。」
「はいはい、勝手に言っといてくれ。」
 呆れたような口ぶりであった。しかしそのような鈴木の表情を見ても、来島は眉ひとつ動かさなかった。
「……っま、どうせわかっちゃいるんだ。とっととはじめよう。」
 そういうと彼は持ってきた茶色いリュックサックから自作のノートパソコンを取り出した。来島にはインターネットにおける情報の知識や電子機器の事は専門外である。しかし鈴木のことはすっかり信頼していたので安心して任せられた。彼は鈴木が着々と準備している間、食器を片付けて珈琲をいれることにした。

「でたぞ。」
 そう鈴木が呟いたのは、来島が彼の前に珈琲を出したすぐの事であった。来島はすかさずパソコンのディスプレイに目を近づけた。
「……この会社名、聞いたことあるなぁ。」
「そりゃそうだろう。」
 嘲笑気味に鈴木は答えた。一方来島は平生を装おうとしたが、眉が一瞬釣り上がったのは隠しきれなかった。
「大手の建設業会社の名前だぜ。おい、しかも役員やってたのかよ。おっさんやるじゃん。」
「……。」
「一応裏はなさそうだぞ。」
「……。」
 鈴木の言葉に来島はなんの反応も示さなかった。鈴木はそんな彼の様子に深くため息をついた。
「まだ調べてみるか?」
「そのつもりだ。今日はもういいから、早速明日から取り掛かろう。」
「来島ぁ。」
 急に鈴木の声色が変わった。勿論、それに気づかない来島でもない。
「お前、長生きできねぇぞ。」
 来島はパソコンから目を離し、鈴木の方を向いた。彼は未だにパソコンの方向を向いてはいるものの、遠くの別のことろを見ているようでもある。やがて来島はパソコンの方を向き直し、ただ一言言うばかりであった。
「参考にするよ。」

※※※

 その日、洋子の機嫌はここ数週間のうちで最も良いものとなった。はじめは夫の気まぐれで害虫駆除業者にお金を払うことに憤慨していたが、業者の青年の礼儀正しさ、真面目さ、そして何より若さと筋の通った鼻、形の良い顔の骨格などの容姿などが、自然と彼女を浮かれさせたのだ。それに、青年の笑顔やいちいちの仕草が洋子を夢中にさせた。結婚して以来、夫以外の男と20年以上接触のなかった彼女にとって、それだけ彼のような男の存在は貴重なのである。
「終わりましたよ、奥さん。」
 快活な声で青年は言い放った。すかさず洋子はそれに反応した。
「お疲れ様、冷たいものでもいかが?」
「ありがたいです、床下は埃っぽいから。」
「じゃあすぐ持ってくるから。」
 そう言うと洋子はすぐに冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったコップに注いだ。パチパチと氷の溶ける音は洋子すらも飲みたくなる程である。気がつけば彼女の喉も枯れていたのだ。
「どうぞ、かけて頂戴。」
 洋子はコップをリビングの机の上に置いた。そして青年は「すみません」と言い、置かれたコップの手前の椅子に座りゴクゴクと飲んでいく。口から麦茶が零れたが、それがかえって青年の首筋の血管を際立たせ色気を増すのである。洋子は頬を赤らめた。
「っぁあ!美味しい!!!」
 そう言うと青年は唇についたお茶を手で拭った。
「あら、何杯でもおかわりしてね。」
「いやぁもう結構、十分です。ところでこの家はいつ建てられたんですか。シロアリやゴキブリは小さいけれど行動範囲が広いから、ご近所にも同じぐらいの部屋があったらちょっと心配なんです。
「うーん、そうねぇ。あるにはあるけど……。」
 洋子は歯切れが悪そうに言った。青年は辛抱強く2の句を待った。
「この近所だと、安田さんの家だけど、多分あそこはシロアリどころじゃないと思うの。」
「どういうことですか?」
 青年は前のめりに話を聞いていた。その姿に洋子は口を開かずにはいられなかった。
「い、いやね、旦那さんが癌になって以来、そこのお嫁さん、奈保子さんって言うんだけど、奈保子さんがずっと面倒を見てるって。ああいうの、確か老々介護って言うのよね。」
「そうですか、でも夫婦仲がいいんですね。」
「それがねぇ、そうでもないみたい。」
 洋子の目は水を得た魚のようにキラキラと輝きだした。青年はその変化を逃さなかった。
「そうなんですか、でもご主人さんを介護しているんでしょう?」
「だって、他に頼るところがないから、仕方なくじゃない。詳しくはあたしもよくしらないけど、あの夫婦、何年か前に子供を亡くしているみたいよ。」
 一瞬、青年の目が大きく見開いた。
「何故、亡くなったんですか?」
「事故なんだって。何十年か前に洪水で流されたんだって言うの。夫婦もそれまでは仲睦まじいい間柄だったらしいけど、それからは他人も同然。旦那は仕事仕事で家には一切寄り付かないし、奈保子さんは奈保子さんで趣味の茶道教室や習い事で忙しくしてたみたいよ。」
「そうですか、なんだか想像も出来ませんね。」
「そう?まぁあたしはそこの茶道教室に通っていたんだけど、奈保子さんは楽しそうにやってるみたいだったけど。内心ご主人の事はどうでも良かったのかもね。」
「……。」
「そうだ、お兄さんもいることだし、久しぶりにあたしもお手前を披露しちゃおうかしら。」
 洋子は興奮のあまり、自分でも思わぬことを口走り、いよいよ顔を真赤にしていた。しかしそれとは裏腹に、青年は下を向いたままでボソボソと呟いた。
「結構です、もうお暇しないと。」
「……そう、残念。」
 洋子は肩をすくめた。しかし今日だけではないだろうという、無根拠な自信が同時に彼女の内から沸き上がってきた。
「でもでも、今日だけじゃないでしょう。また点検とかなんかでまたくるでしょう。」
 「ええ」と青年は、再び屈託のない笑顔を彼女に向けた。それを見るだけで、洋子は自分の思いが通じた気さえした。
「また寄らせていただきますよ。その時もご贔屓に。」
 そう言うと青年は持ってきた荷物をさっさと片付け簡単な挨拶をして出ていった。その右手には洋子の電話番号の書いている紙がしっかりと握らされていた。

※※※

 来島が外で安田氏の情報を集めている間、鈴木は安田家の近くで双眼鏡と集音マイクを使って、所謂、「張り込み」をしていた。が、彼らに夫婦らしい会話は一切なく、「お茶はいらないか。」「背中を拭くか。」など、事務的な内容のものばかり。流石に鈴木もこれには眠気を覚えずにはいられなかったが、別の事を考えたり、安田氏の挙動の細かい部分に興味を持ったりなど、彼なりの工夫をしてそれを凌いでいた。そんな時である、突然彼の肩をトントンと叩いてくるものがいる。思わず肩に力が入った。振り返ってみるとそこには来島の姿があった。鈴木はイヤホンを外しながら抗議した。
「脅かすなよ。」
「すまん、ところで差し入れだ。」
 見ると彼の右手にはコンビニのレジ袋が握られていた。中には弁当が入っているらしい。
「おう、サンキュー。助かったわ。」
「どうだ、調子は?」
「ああ、夫婦の会話ってこんなにもないのかっていうぐらいなんも話さないな。あと戸籍標本持ってきた。」
「持ってきたって、夫婦の本籍地は岐阜だろう。どうやって……。」
「住基ネットをハックしてプリントした。役所印がどこにもないだろう。」
 そう言って鈴木は来島に戸籍標本を手渡した。彼はすっかり感心してしまった。いつもはおどけたようなことばかり言っていても、こういうところは自分よりも先輩だとも思った。
「続柄のところを見てみろよ。昔子供がいたんだ。隆行(たかゆき)って言うらしいな。」
「知ってる、近所に聞き込みをした時に分かったんだ。交通事故で亡くなっているらしい。こっちも当時の新聞のコピーを持ってきた。」
 そう言うと、彼はコンビニ袋を机に置いて、反対にもっていたビジネスバッグから資料を取り出そうとした。
「なんだ、知ってたのか。」
 鈴木はつまらなさそうに言った。それに構わず、来島は続ける。
「しかし、問題が夫婦間となると直接接触した方がいいかもな。」
「安田のおっさんにか?」
「奈保子夫人にだ。俺に考えがある。」
「ほう……。ところで来島ぁ、ここの部屋の奴はお前んところの会長とどういう繋がりだ?明らかに誰か住んでいるぞ。数日のうちにこんな部屋を貸してくれるなんて、妙だとは思わなかったのか。」
 確かに鈴木の言い分も苦しまには理解でした。部屋を見渡すと冷蔵庫や箪笥などの家具はひと通り揃っており、観葉植物などの住居人の趣味も思われるものまである。しかし、何事も私情を挟まないほうが良い事も来島は同時に理解していた。
「金持ちの道楽者の家。それ以外はしらない方がいい。」
「……ふうん。」
 そう言って鈴木は納得した風を装い、弁当の蓋を開けはじめた。

※※※
 
 安田奈保子(なおこ)はいつものように行きつけのスーパーで買い物をして帰ろうとしていたところ、荒々しい男たちの声を耳にした。それらはどれも若そうである。が、同時に物騒だとも彼女は思った。奈保子は警戒しその声を注意深く聞いた。どうやら路地の隙間から聞こえてきているらしい。しかもこちらに近づいでくるではないか。「待たないか」、「許されると思ってんの」という叫び声が辛うじて聞きとれる。誰かが追われているようであった。やがて路地の隙間から1人の男が現れた。背は高く、スーツを着ていた。どうやら社会人になって間もないような青年である。そしてそれに続いて2、3人の若い衆が路地の影から出てきた。彼らは青年とは対照的に、パンツを腰で履いたり髪を伸ばし放題伸ばしたりと品がなく、どれもが兎を狩る狼のような形相をしていたのだ。奈保子には、彼らはこの青年を追いかけて楽しんでいるように見えた。やがて青年は奈保子の少し先のところでつまずいてしまった。柄の悪い不良共は彼を嘲り笑う。
「だっせぇぇ!!つまずいたぜこいつ!!!!!」
「人にちょっかい出すからだよぉ、おっさぁん。」
 やがて不良共は笑うことに飽きると、なんと今度は青年を蹴手繰り遊びはじめたではないか。ここまでくるとじっとその様子を見守っていた奈保子も黙ってはおけなかった。彼女は鞄に持っていた携帯電話を握りしめて、一歩一歩彼らに近づいた。すると、不良共の1人が彼女の存在に気がついた。
「おい、ばばぁ!!なんか文句あるの?」
 奈保子はそれに負けじと虚勢を張った。
「通報しましたよ!!」
 彼らに一瞬、動揺が走った。が、なめられてもいけないという気持ちも同じぐらい強かった。男3人が鋭い目つきで老婆を見てきたのである。が、奈保子はここで視線を反らすと不味いと思い、それらから決して目を離すことはなかった。やがて、1人のリーダーらしき男が遂に自身の不安に負けたらしく、
「もういい、行こうぜ。」
と言い、仲間を引き連れて去ろうとした。仲間も流石に警察沙汰は嫌だと思ったのか大人しくその言葉に従いその場を去っていった。ここで漸く、奈保子も大きく息をつくことができた。そして、青年に優しく声をかけてやった。
「大丈夫なの?」
「……え、ええ。なんとか。」
 見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったと思われるスーツは埃と不良共の足あとだらけである。
「あらあら、ひどくやられちゃったね。どう、うちにきてゆっくりしていったら?」
 青年は少し困ったような表情を見せた。
「いや、お気持ちは有難いですが、流石に迷惑ですので……。」
 しかしそんな青年の姿は、奈保子には少し滑稽に見えた。
「なに言ってるの。そんな格好でどこ行くかは分からないけど、うちでゆっくりしていった方がいいわよ。」
 この言葉に青年は観念したらしく、微笑を見せながら漸く地面から起き上がった。
「すみません、ご厄介になります。あ、申し遅れました。来島明良と言います。」


※※※

 来島は不良たちを使い奈保子と無事接触に成功した後、安田家のシャワーを借り汚れを落とさせて貰った。そして今は茶の間、嘗て茶道教室として使われていたであろう草庵に部屋へと招かれていた。壁には「一華開五葉」の掛け軸が掛けられてある。彼女は彼を怪しんでいる様子は一切ないらしかった。
「すみません、何から何まで。」
 そう来島が言うと、奈保子は微笑んでそれに応えた。
「いいのいいの。うちにはどうせ、私と主人だけしかいないんですから。」
「ご主人さんもいるんでしたら是非挨拶しておかなければ。見ず知らずの男がいきなりいたら驚いちゃいますよ。」
「いいえ、主人はちょっと病気してて家をウロウロすることなんてないの。」
「病気、ですか。」
「そう、癌なんです。」
 来島はわざと驚いたような表情を見せた。
「そうだったんですか……。いえ、うちも祖母が癌でしてね。実家の兄夫婦が介護してるんです。」
「そう、お兄さんも大変ね。」
「ええ、いつも苦労話ばかり聞かさていますよ。」
「そうねぇ、結局、負担は全部家族にいっちゃうのよね。」
 来島は内心ぎょっとした。奈保子の言い方はそれ程までに空虚でひやりとする冷たさを帯びていたのである。
「でも、頼りは兄だけなんです。それはご主人さも同じじゃないですか。」
「そうね……。なんせ主人は医者の言うことを押し切って、我儘で自宅療養になちゃったもんだから。それで2言目には、俺は病気だからっていうの。ホント嫌になるわ。」
「……。」
「……。」
「それにしても本格的な草庵だなぁ。」
「あら、分かるの?」
 急にそれまでの冷ややかな空気は去り、奈保子の表情もぱっと明るさを取り戻した。
「ええ、古い建物を見るのが好きでして。お茶をされているんでしょう。」
「昔はこれでもお茶の先生をやっててね。仕事仕事の主人が建ててくれたの。家にいれないせめてもの罪滅ぼしにね。」
「いいご主人さんじゃないですか。」
「そう?何事にも細かくれて五月蝿いよ、食べのもだって好き嫌い激しいし。レバーはダメ、きのこ類はダメ、トマトはダメ。献立を考えるのにも一苦労よ。」
「……。」
「貴方には嫌いなものはないの?」
「ええ、昔から母には食べ物に関して五月蝿く言われてきたので。」
「なんだか私と話していると、それこそお母さんといるみたいじゃない。」
「そんな。」
「いいの。それぐらい歳は離れているんだし。そう言えば、貴方仕事は?」
「実は先日まで勤めていた会社が潰れてしまって……あ!!」
 急に来島は何か思い出したように言った。
「すみません、僕面接に行くところだったんです。」
 その言葉を聞いて、奈保子もついつい慌てだした。
「あら大変!」
「すみません、折角お邪魔させていただいたのに。今度改めてお礼に伺います。」
「そんな、いいの。忘れ物だけないようにね。」
 そう言うと奈保子は来島を玄関まで送って行くことにした。来島は手早く準備を済ませ、早々に立ち去っていった。

2014年6月27日金曜日

タナトスの使者ーFile1−2

 来島は早速、安田を「審査」する為に鈴木に連絡をとった。鈴木は彼の右腕とも言える存在で、これまでに幾度となくコンビを組んで仕事をこなしてきた、言わば戦友なのである。来島は彼に基本的な情報を調べさせた。鈴木はその日のうちに、しかも1時間とかからない時間で彼に情報を送ってくれた。それによると、安田は15年前まで大手総合建設業、所謂ゼネコンの役員をやっていた、エリートサラリーマンであることがわかった。また欠勤も退勤も殆ど無く、真面目に勤務していたようである。しかしこれでは彼の事をまだ分かったことにはならない。来島は携帯電話を取り出し、鈴木に電話をかけた。
「もしもし、来島だ。データには目を通した。……ああ、だけどまだ白だとは言い切れない。いつでもいいからうちに来てくれないか。……悪いがよろしく頼む。」
 来島の家からだと鈴木の家はそう遠くはないが、夜も大分更けている。恐らく明日の朝ぐらいにくるだろう。そう来島は考えたが、この彼の計算は少し甘かったようだ。彼の家のインターフォンは、彼が予想していたよりもはやく鳴ったのだ。ため息混じりに玄関のドアを開けにいった。すると、そこには今風の黒縁の眼鏡をかけ、髪の上部のみを染めた、いかにも軽薄そうな男がそこにいた。
「これじゃあ藤堂会長に軽いと言われても、俺は反論できないな。」
「失礼だなぁ。」
 鈴木は笑って反論しているものの、少し心外に思っているらしい。
「善は急げって言うじゃない。仕事に対して実直なだけだよ。」
「……分かったから入れ、珈琲でも入れてやる。」
 鈴木はそう言った軽薄さとは裏腹に、靴をきちんと整えてから上にあがった。彼は見かけと言動とは裏腹に、慎重で細かいのだ。来島はこうした彼の細やかさや慎重さを感心せずにはいられなかった。しかし声に出して褒めたことは一度もない。
「で、あと僕は何をすればいいの?」
「張り込みをして欲しい。依頼人の近くのマンションを借りれる事になっている。」
「期間は?」
「そうだな、2週間ぐらいだな。その間俺は依頼人の奥さんに接近する。」
「どうやって?」
「……まぁ手段ならいくらでもあるさ。だがあまり時間は長くかけたくない。会長からもそう言われている。」
「そうだね、誰かに感づかれないとも限らないし。」
 このような会話をしている間、来島は珈琲をいれて彼の前に出してやった。鈴木は礼を言ってから、一口目をゆっくり味わった。
「……お、やっぱ珈琲だけはお前の方が美味いな。」
「だけとか言うな。それよりも明日からしっかり取り掛かってくれ。」
「へいへい。」
「それから、それ飲んだらさっさと帰れよ?俺だって依頼人とどう接近するか考えないといけないしな。」
「えー、つれないなぁ。折角来たんだし、もうちょっとゆっくりさせてよぉ。」
 人懐っこい声で鈴木は言った。しかし来島は彼を容赦なく突き放す。
「非常識な時間に人の家に来といて何言ってるんだ。大体、今日じゃなくても良かっただろ?」
 そう言われた鈴木の顔が一瞬ニヤついた。来島は彼のこの表情が妙に引っかかった。
「ただ僕が仕事の話をはやく聞きたいが為にきたと思っているなら、それは間違いだよ。」
 そう言うと鈴木は自分の鞄の中から数枚の書類を取り出した。来島はそれを手に取り目を通しはじめた。それは安田に関する、住民票や戸籍標本など、どれも重要な個人情報ばかりであった。
「そこに面白い事実がのってあるよ。」
 やがて徐々に来島の表情が真剣になっていった。それとは対照的に、鈴木は鈴木で愉快そうにそうした彼を見ている。
「……鈴木、調べる価値はありそうだな。」


 安田奈保子は、いつものように行きつけのスーパーで買い物を済ませて家路につこうとしていたところ、荒々しい男達の声を耳にした。声の主たちはどれも若そうではあったが、どれもお世辞にも上品とは言えぬ台詞を吐いていた。声は自然と奈保子の方へと向かってきた。心臓が脈打ってきたのが自分でもよく分かった。が、彼女は平生を保てる自信も同時に持ち合わせていた。やがて、裏路地から1人の男の影がうっすらと見えてきた。春らしく涼しそうなスーツを身につけているが、20代ぐらいだろうか。必死の形相をして走ってきた。その後ろから、髪を金色に染めた者や、髪を好き放題に伸ばしピアスをつけている者、そうかと思えば、綺麗に毛を抜いた者まで実に派手やかで柄の悪そうな集団が血眼にスーツの若者を追ってきた。若者は決して捕まらんとここまで頑張ってきたようだが、やがて賑やかな男たちの迫力に負けたのか、足を絡ませて七転八倒した。その様子を見た集団は下品な声で嘲笑し、その中の1人が男を蹴りはじめた。
「だっせぇなぁ、おい!!!!え!??」
「ねぇねぇねぇねぇ、何に躓いたの??んん??」
 1人に続いてもう1人、更にもう1人と罵声を浴びせながら、集団は蹴手繰り出す。奈保子はすかさすバッグから携帯電話を取り出し、「ちょっと!!」と大きな声で集団に向かって言った。しかしそれに狼狽したのは奈保子の方ではなくて、賑やかな男たちの方であった。誰か奈保子の手の中にある機械の存在に気づくと「やべっ、見られた!!」と言い、仲間の背中を叩いて逃げ出した。他の仲間もそれに従う形で次々と逃げていった。彼らが逃げると、奈保子はすかさずスーツの青年の方に走り寄った。
「大丈夫なの?」
「え、ええ、大丈夫です。」
 見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったばかりと思わしきスーツは埃にまみれ、靴の跡がいくつもついていた。
「怪我してるじゃない。お洋服もボロボロ。あたしの家でゆっくりしていったら?」
「いや……でも…。」
 青年は明らかに躊躇していた。自分に遠慮しているのだろうと奈保子は思い、やさしい口調で諭そうとする。
「何処に行くつもりかは知らないけれど、その格好では駄目だよ。遠慮せずに……ね。」
「……すみません、何から何まで。」
 それから2人は安田家へと向かい、そこで青年は傷の手当をしてもらい、顔を洗わせてもらった。その間、青年は自分の事について色々と話した。名は宮田と言い、就職活動中の大学生らしい。そして先程の男たちには、目を合わせた瞬間に誤解されたらしく、追いかけられる羽目になったというのだ。
「しかし安田さん、息子さんも僕ぐらいの年頃じゃないですか?」
 奈保子はにこやかな表情で答えた。
「そうね、産んでいればそれぐらいかな。でも、残念ながら主人とあたしには子供はいないから。」
 青年はほんの一瞬、目が鋭くなった。しかし奈保子は全く気づかなかった。
「そうなんですか、ところでご主人さんは今はお仕事をさているんでしょうか。急にお邪魔させてもらった手前、挨拶なしにはちょっと……。」
「ごめんなさいね。」
 奈保子は先ほどの調子とはやや違い、俯きボソボソとした口調で言った。
「家にいるんだけど、今癌でね。滅多に人には会いたがらないの。だからごめんなさいね。」
「……そうでしたか。」
 察するように青年は続けた。
「僕の父も癌で療養してて、今は実家の兄が週に何度か病院に通っています。」
 奈保子の目は少し大きく開いた。
「まぁそうだったんだ。お兄さんも大変じゃない。」
「ええ、でもこの前なんか、親父は病気になっても我儘で困るって愚痴を零していました。」
「そうなんだ。」
 奈保子の表情が少し和らいだ。それを見た青年も笑みを浮かべた。
「安田さんのご主人さんって、どんな方なんですか?」
「んー、堅物で根っからの仕事人間ね。そして仕事仕事かと思えば、今度は病気して家にこもりっきり。全く、人の気も知らないでね。」
 そう語る奈保子の顔は夫に対する憎さと怒りとの表情に満ちているように、青年には見てとれた。しかし、奈保子は青年のそうした真剣な眼差しに気づくとはっとした。
「あっ!!ごめんなさい。なんだか愚痴っぽくなっちゃって。」
 今度は困ったような笑いを浮かべた。対する青年は愉快そうに答えた。
「ごめんなさいはこっちのほうなのに、なんだか安田さんの方が謝ってばっかりだ。」
「あら、あの状況で助けないわけにはいかないから、そんな気にすることないとおもうけど?」
「もう行かなきゃ。長居し過ぎました。」
 そう言うと青年は立ち上がり、帰り支度をはじめる様子を見せた。
「あら、じゃあまた暇な時に寄っていって。こんな時間ばかりを持て余した老婆の相手を良かったらしに来てね。」
「いえいえ、安田さんは気持ちもお若い。それじゃあお世話になりました。」
 青年は安田家をあとにすると、ポケットから携帯電話を取り出し、あるところに電話をかけた。
「もしもし、鈴木。さっき出てきた。」
「おお、どうだった?」
 電話の向こうの鈴木と呼ばれた男は興味津々といった感じで青年の話に食いついた。
「安田氏の事を嫌っているようにも見えなくはない。」
「おまえ……それどっちだよ。」
 鈴木は呆れたような声を出した。
「今の時点ではまだ分からん。だがあの夫婦に何らかの亀裂がある事は確かだな。」
「そりゃあ、あれ以外にないんじゃない?」
「結論を出すのははやい。お前の方はどうだ?」
「退屈なもんさ。話もなんかこう、店員さんとお客さんのやりとりみたいに、「お身体拭きましょうか」、「うん」、「ご飯にしましょうか」、「うん」ぐらいなもんだよ。あとは時々爺さんが咳き込む声が聞こえてくるだけ。」
「収穫なし、か。あとで食い物買っていってやるから、欲しいものがあればメールをくれ。」
「おう、流石に腹へったわぁ。頼んだよ、来島。」
 青年は通話を切り、急ぎ足で何処かへと歩いていった。

2014年6月15日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版5)

1・躾期

1887年3月6日ーヘレンの欠点とはどういうものか

 アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーという7歳前後の少女と出会う以前、彼女の事を「色白くて、神経質な子供」だと思っていました。これはハウ博士が書いた、ローラ・ブリッジマンのレポートを読んだ上で、彼女との教育を予め想定した事が由来しています。
 ですが実在のヘレンはそのような人物ではありませんでした。彼女はこれまで両親に、なんの制約も制限も受けてこなかった為に、活気溢れる健康的な子供へと育ってきたのです。じっとしていることは殆どなく、子馬のようにうごきまわっています。
 ですが、そうした教育方針が仇となっている面もあるのです。ヘレンとはじめてあったサリバンは、彼女の突進を受けて、危うく地面に頭をぶつけそうになりました。そればかりか、彼女はサリバンのバッグを勝手に開けて、なんと中身を確認しようとしたのです。一体何故彼女はもうすぐ7歳の少女とは思えない、幼稚で無作法な行動をとってしまうのでしょうか。
 先程も述べておいたように、彼女は両親によって「自由に育てられて」きました。例えそれが子どもとして、人間としてやってはいけない行動であっても、障害を持って生まれた子供への同情から、子供故の純粋な気持ちから来ていることを察している事から、それらを容認してきたのです。またヘレンの側でも、他人のしている行動や行為が物理的に見えない、聞こえないという事情から、外界からの情報が殆どはいってはきません。ですからヘレンは私たちの原始的な感情たる快不快の感覚だけが極端に発展させていき、社会性を持たない子供へと成長していってしまったのです。
 そこでサリバンは自身のはじめの仕事として、教育以前の、人間の土台となり得る躾の部分から手をつけようと考えたのでした。

1887年3月月曜の午後ー人間的に躾けるとはどういうことか

 ですが、サリバンの言うところの躾とは、どのようなことを指すのでしょうか。この手紙を書いた日、彼女はヘレンと激しい喧嘩をしています。原因はヘレンの食事作法にあったのですが、それが目の前のものは全て手づかみでとり、欲しいものは例え他人の皿でも勝手に取るといった、すさまじしいものでした。ここで「成程、流石にこれは誰でも怒るだろう。」と思った方も多いでしょう。ですがサリバンは単純に、その作法の汚さ見苦しさから怒った訳ではありません。
  私たちはどのようにして便器で用を足すことを学んだのでしょうか。どのようにしてお風呂で体を洗い、清潔を保つことを習慣化させていったのでしょうか。言うまでもなく、自分の両親から「人間として」躾を受け、習慣とさせていったのです。ですがこれが人間以外のもの、例えば狼に育てられたのならば、どうなっていたでしょうか。こう問われると、一部の方々は「アマラとカマラ」を彷彿すると思います。彼女らは狼に育てられた為に、背筋は曲がり、口を食べ物に近づけて食事をし、4本足で歩行したといいます。私たち人間は他の動物とは違い、はじめから人間として完成している訳ではありません。複雑なルールや取り決めのある社会で生きる為に、人間として躾られることではじめて人間と言えるのです。
 ですからサリバンは、ヘレンの、あまりに人間としての作法から離れたこうした食べ方を容認する事は出来ず、躾が必要だと感じ実力で言うことをきかせようとしたのでした。
 しかし大きな課題も残りました。結果的にヘレンは正しく食事をすることが出来ましたが、それまでに両者ともくたくたになるまで争わなければならなかったのです。こうしたことを続けていて、果たしてヘレンの躾はうまくいくのでしょうか。

1887年3月11日〜13日ーそれまでの自分を捨てさせる
 サリバンはそれまでの方針を大きく変えて、ヘレンと「つたみどりの家」ということろで2人暮らしをはじめることにしました。そもそもヘレンがこうなってしまったのは、彼女の独裁を許してきた両親にも責任があるのです。両親は彼女の我儘を受け入れ続けてきた事で、自然とそれを受け入れる心身を手に入れ、環境を整えてしまっていったのでした。ですから彼女が幾ら人のお皿に手をつけようとも叱ったりはせず、泣き喚けば全てを許して彼女に屈服するのです。そしてヘレンの側でも、そうした自分にとって我儘を言いやすい環境が整っていた為に、暴君としての気質を磨いてきました。
 だからこそサリバンは、そうした暴君の存在を許せる環境からヘレンを一度切り離した上で、独裁できない環境で躾けようとしたのです。
 そして、サリバンは彼女の暴君としての気質を失わせるべく、彼女を「征服」することにしました。「征服」と言っても一般的な野蛮な意味ではなく、前回の手紙のように、人の道にあまりにも逸れた行動にのみ、力によって抑えこむことを意味します。これにははじめの方こそ、ヘレンは強い拒否を示し、手がつけられない程でした。ですが「つたみどりの家」がこれまでのような、独裁を許してくれる環境ではないことを悟ると、不本意ながらも言うことを聞くようになっていきます。


2・知性の生成

3月20日〜4月3日ー教育の土台の生成

 環境という自身よりも大きなものが変化していったことで、ヘレンの内面もそれに合わせる形で変化を見せているようです。はじめはあれ程「征服」されることを拒んでいたものの、日が経つにつれてそれを受け入れはじめました。そして「征服」されることに慣れてくると、今度はそれを楽なものだと感じるようになっていったのです。またサリバンの側でも、彼女がうまく「征服」を受け入れた時には、好きなものを与えたり頭を撫でたりなどして、「征服」されることを快感とすら思うようにさせていったことが考えられます。
 ですから3月20日というその日を、ヘレンは晴れやかな表情で迎えられたのです。彼女は「征服」を完全に受け入れると同時に、人間として「やってもいい、いけない」という事を学んだのでした。
 しかし彼女はまだ、教育という長い道のりのスタートラインにたったに過ぎません。また更に大きな問題は、彼女は「ことば」というものの存在にすら気づいてはいません。私たちは知識や知恵を「ことば」によって保存し、自由自在に使うことができます。それは「犬」や「猫」といった具体的な概念から、「理念」や「思想」といった高度な概念まで、あらゆるものを「ことば」によって規定し他者との交流に用いるのです。だからこそ、「ことば」というものは、人間社会において他者と交わることにおいて欠かすことは出来ません。ましてや、何かを教えたり自身の考えを伝えたりする教育の場において、それなしには不可能と言っていいほどでしょう。果たして彼女らはこの大きな問題をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。

2014年6月7日土曜日

タナトスの使者 File1−1(修正版)

ただ生きるという以外に
何の目的もなしに
いつまでも生き続け
どこまでも
生を続けていく種族というものは、
客観的には滑稽だし、
主観的には
退屈なものだろうさ

ショウペンハウエル


 他者に死を与える事はいかなる場合であっても、殺人である。それが大量殺人犯であろうが快楽殺人犯であろうが、病気に苦しむ親を酷く思い息の根をとめる親思いであろうが、皆等しく罰せられるのだ。しかしそうした禁忌をあえて犯し、その業苦の人生から人々を救わんとする組織がこの世には存在するのである。彼らはギリシアの「死」の神の名に肖り、「タナロジー学会」と名乗っている。来島明良(くるしま あきら)はそんな死神の使いとなり、人々に死の審判を下していた。彼らとて、誰でも無差別に死を与えているのではない。それは公平なる良心からくるものでなければならないのだ。そして来島はいつ何時もそれを忘れまいと、月に一度の墓参りを習慣としている。手を合わせ目を瞑ると、これまで彼が審判を下してきたものの顔が浮かび上がってくる。皆人生に疲れ果て、生という鎖を断ち切ろうとしたくて堪らないといった表情を浮かべていた。その表情を丁寧に思い出していくうちに、来島は背筋がピンと伸び、全身の筋肉が締まっていくのを感じる。そうした彼の姿はまるで煉獄の亡者達の魂を狩る死神のようにすら見えてしまう。そして目を開けた瞬間には、これから自分が成すべきことが不思議と鮮明に浮かび上がってくるのだ。
 ある時彼がいつものように墓参りを済まし家路につこうとすると、向こうから黒い高級車がゆっくりとこちらに近づいてきた。来島はその車に幾度となく乗ったことがある。やがて車は来島の前でとまりミラーがゆっくり開くと、男の顔が出てきた。この顔とも来島は何度も突き合わせている。
「ここだったか。」
「偶然ですね。」
 来島はわざと白々しくした。この男がなんの用事もなしに彼に会うことなどということはあり得ない。しかしもしかすると、という「淡い期待」も同時に抱かずにはいられなかった。
「毎月来ているんだろう。」
 来島は黙っていた。が、心の中では「やっぱり」という落胆を感じてはいた。
「頼みたい事がある。」
「……仕事ですか。」
 その一言には、彼の精一杯の非難でもあった。「あなたも線香の一本ぐらいあげていってはどうですか」という言葉がそこまで出ていたが、あえて押し黙った。
「それ以外にお前と私とに何がある。すぐに取りかかれ。」
 そう言うと男は彼に一枚の紙切れを渡した。そこには依頼人らしき人物の名前が書かれてある。男は彼が承諾するかしないかを確認もせずに、車を出し去っていった。ひとり取り残された彼は、紙を丁寧に折って財布の中にしまい込み、早速仕事にとりかかることにした。

 安田隆一にとって最早日常というものはただ死を静かに待つだけの、無意味なものとなってしまった。10年以上前に会社を定年し、多くの友人をあらゆる病気で亡くし、そして自らも2年前からガンに全身を蝕まれて生きる気力を殆ど失っていたのだ。もう待つことも疲れ果てた彼は、いつしかいかにはやく死ねるかということばかりが頭を巡るようになっていった。やがてふと、以前に友人から聞いた、違法で他人の死を専門に扱う団体に連絡をしたことを思い出す。なんでもそこに頼めば、自分の一生を簡単に終わらせてくれるらしい。しかし待てど暮らせど今日までなんの音沙汰もない。
「そんなうまい話があるわけないか。」
 彼はそんな独り言を漏らしため息をついた。その時である。窓のあたりから冷たい風が吹いているのを感じた。(可笑しいな、妻が締めていったはずなのだが……。)虚ろな眼差しで庭の窓に目を向ける。すると窓は開け放たれているばかりか、そこには季節外れにもトレンチコートを着た、若く背の高い男が立っていた。安田は何者?と思うと同時にもしや!とも思った。そして安田が自分に気がついた事を知ると、男は静かに口を開いた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。
 安田にはそれだけで一切が分かった。ついに自分を殺してくれる悪魔がこの場に舞い降りてきてくれたのだ。安田はやっとかという疲れきった表情を浮かべた。
「随分遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたよ。」
 この一言に安田は腹を立てた。幾ら向こうにとっては仕事だとはいえ、なんだか自分の生き死にをこの若造が安く見積もっているように思われてならなかったのだ。彼の聞きやすく、透き通った声の調子もかえってそうした感情を助長させた。
「何だと!どういうことだ!!」
「落ち着いて下さい。私は何も貴方を怒らせに来たわけではありません。」
「当たり前だ!」
 来島は落ち着き払って、安田の怒りを鎮めようとした。だがその様子が更に彼を苛立たせるのだ。
「私たちにも事情というものがあるのです。それに貴方だって、誰かに自分が死ぬところを止められるのは困るのでしょう。」
「こんな老いぼれの命を誰が気にするんだ!保険会社か!!」
 こうした安田の態度に来島は呆れながらも、これから自分たちが社会的にどのような事をやろうとしているのかを説明していく。
「……いいですか、私たちがやろうとしていることは立派な犯罪です。それは刑法202条(※1)にも定められています。捕まれば、私は一生檻の中でしょうし、貴方だって死ぬ前に余計な汚名がつくことになるんですよ。」
 これには流石の安田も狼狽した。が、彼にとって法の存在など死の前では取るに足らない事は変わりなかった。
「……では、その調査とやらが終わったらすぐ殺してくれ。その方が君も警察に捕まることもあるまい。」
 何かを圧し殺すかのようにこう述べた。一方、来島の口調は変わらず、ただ業務的に、しかし何処かでは安田を挑発するかのように話を続ける。
「警察の事などではありません。これでも医者ですから、下手は打ちませんよ。問題は私達の活動を面白いように思っていない人々もいるということです。貴方が見つけたくらいだ。もしかすると、もうすぐそこにまで来ているかもしれません。」
 来島は窓の方に目をやった。すると、安田も食い入るように窓の外を見はじめた。
「安心して下さい。今は大丈夫ですよ。」
 安田は今度は顔を赤くして下を向いた。そしてそれを隠すかのように、こう述べた。
「……しかし、お節介な奴らもいるものだ。尊厳死は誰しも認められた、平等な権利とばかり思っていたがな。」
「平等な権利なんかありませんよ。そもそも尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもありませんよ。」
「むう……。」
 安田は誤解していたようだ。彼らが来てくれれば、すぐに、しかも簡単にその一生を閉じれるものと思っていた。しかしどうやら事は彼が考えているほど、単純ではないようである。
「……私はあと、どれほど待てばいいのだ?」
「そうですね、調査の上に、貴方を審査しなければならない。と言っても心配いりません。少しの間だけです。」
「審査だと?」
「私達が扱っているのは“死”です。“死”はだれにでも平等で公平なものでなければなりません。その為に、私達にも会則というものが存在します。まずはその会則に違反しているかいまいか審査し、それが通った時、はじめて死ぬことが出来るのです。」
 安田の中で一旦収まっていた怒りが再び蘇ってきた。彼らはまるで自分の痛みに無頓着な気がしてならなくなっていった。
「おい、神様か何かにでもなったつもりか!!人を何だと……。」
「従って頂けなければ、話はこれまでです。」
 話の途中、来島は力強く割って入った。そして安田はまたしても閉口してしまったのである。彼はまたも俯き、汗をかきながら考えてごとをしているようだった。
来島もその様子を暫く眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……何故貴方はそこまでして私達に拘るのです?ガンだとは聞いていましたが、この様子だとどの道先は長くないでしょうに。」
 そう言って来島は部屋を隅々まで見渡した。安田のベッドの周りには医療機器と思わしき機材が取り囲むようにして置かれていたのである。
「そうだ、もうリンパ節にまで移転していてステージⅢBだ。だが余命半年と医者から宣告されて、2年半にもなる。ここまでくればもう打つ手はないだろう。私も多くの友人をガンで亡くしているが、皆最後は体中に管を散々巻きつけられた挙句、痛み止めで意識が朦朧とした状態で、家族に別れも告げられない儘この世を去っていったよ。そんな死に方は嫌だとは思わんかね?」
「……お気持ちはわかります。しかし……それでは…何故です?」
 来島は慎重に言葉を選ぶかのように答えた。
「君も医者なら分かるだろう。私以外の家族への負担、妻への普段だよ。彼女以外家族はもういない。子供もいないしな。だが、もう限界らしい。ちょうど君たち学会に連絡をする2週間前の話だよ。私は妻の介護で晩飯を食っていたら、ちょっとした不注意で味噌汁を零してね。妻がおわんをとろうとした時だ。妻の横顔が私の知っている女の横顔ではなかったんだよ。私は何かの見間違いかと思ってまじまじと凝らしたよ。するとどうだい。目に力はなくなり皺も余計に増えて、表情には生気が感じられん。妻は私という地獄の鎖に繋がれているのだよ。このままでは、彼女に生き地獄を見せ続けることになる。……思えば妻は明るく社交的な性格でな。私がこうなる前は書道の先生をしていて、それもなかなかの評判だったんだが、病気をしてからはそれもぱったりやめてしまった。だからもう一度、妻には妻の人生を生きて欲しいんだ。その為に私は邪魔なのだよ。」
 見ると安田はシーツをギュッと握りしめ、全身からは汗が噴き出るように出ていた。しかしそんな安田の様子に、来島はあろうことか涼しげな笑みを見せた。
「いや、つい感動してしまいました。その意思は死を処方するに値します。」
 安田はシーツをより強く握りしめた。どうしてもこの男が気に喰わないのだ。
「……では、殺してくれるのだな。」
「いや、審査はまだ続きます。心配いりません。貴方のメフィストフェレスはすぐに参上することになるでしょう。そのときまでしばしの別れです。」
 そう言うと来島はトレンチコートを翻らせながら、相手の返事も聞かない儘に窓から去っていってしまった。


脚注
※1ー人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。

2014年5月31日土曜日

煙の時代

「でよぉ、お前の標準語なんとかならんがかぁ。」
 慣れないビールの味に酔ってテレビをボーっと見ていた僕に、突然武志はこんな事を聞いてきた。これは地元に帰ってくるとよく言われる台詞である。というのも、大体僕のように、高知県を離れて他の県に行った友達は、向こうの方言がうつっても帰ってくれば土佐弁を喋る、或いは意地を張って向こうの方言を喋らないため、方言がうつらないまま帰ってくる。しかし僕の場合はその逆で、元々土佐弁が好きではない事、高知にいた時の自分が嫌いな事から、僕は頑として高知に帰っても標準語を話している。だから高知の友達からは奇妙がられるのだ。
「ごめん、どうにもなおらないんだ。土佐弁を話すとかえって変な感じするし。」
「まぁ山野君は大学行ってからずっと関東ながやし、仕方ないがやない。」
 奥の間から武志の奥さんが出てきて、机の上の潰されたビール缶を片付けながらあっけらかんとこういった。
「そんなもんかや。」
 武志は首を傾けながらビールに手をやった。僕は苦笑いで、
「長い間向こうにいるからね。」
 とだけ答えた。すると武志は何か思い出したように、こうつけ足した。
「まぁな。昔はこうしてお前と酒を飲むとか考えられんかったなぁ。」
 武志はしみじみと下を向きながら話を続けた。
「高校の時の俺って、ドラえもんのジャイアンみたいな存在やったやん。お前の事も馬鹿にしちょったし、先生とか大人も舐めちょった。けどこうして働きだして、自分が馬鹿にしてきちょったもんがすごかったがやなぁって事が分かったし、それにあんな事したに、こうして遊べるっていうのは有難いにゃあ。新しい友達もえいけんど、やっぱり古い友達がえい。」
 こう語る彼は、昔を懐かしがるようでもあり、悔いるようでもあり、またこの場そのものを喜んでいるようでもあった。そして僕も同じ気持ちである。僕は高校生の頃を思い出していた。武志が語るように、昔の彼は乱暴者で機嫌が悪いと、なんにでもつっかかっていた。そしてクラスの中でも端の方の席にいた僕は、しょっちゅう彼の鬱憤のはけ口となっていた。ところが時が経ち成人を迎えた夜、武志は僕によそよそしく話しかけてきた。僕もどうしていいか分からず、どぎまぎしながらもそれに応じた。こうして僕と武志の付き合いははじまり、今でもこうして酒を酌み交わす仲となった。僕の胸ぐらを掴む武志。それに怯えながらも、彼の手を服から剥がそうとする僕。その過去があってこれ。そう考えるとやっぱり僕も僕で、滑稽で恥ずかしくもあり、心地良い。だから僕も僕の誠意をもって、彼に同意を示した。
「正直僕は古い友達だからこそやりづらいところがあるんだ。」
「そうなが。」
 武志は少し意外そうな顔をした。
「うん。俺高知にいた時の自分って嫌いなんだよね。そして高知の友達はその時の僕を知ってるから、なんだかやりづらいなって思うこともあるんだよ。でも、こうしてお酒飲みながら昔の事を話すのも、いいなって思う。」
 今度はウンウンと頷きながらビールを口に含み、
「まぁ、今日ははじめてお前がうちに遊びに来てくれた日やからな。ゆっくりしていってくれ。」
 と言った。そして彼は奥さんにお酒のつまみを家中に響く声で催促していた。僕も、そんな武志の様子にホッと胸を撫で下ろしながら煙草に火をつける。そして思いっきり煙を肺に詰め込んで、ゆっくりと吐く。やがて煙は周りの空気に溶け込んでいった。

十二年目の再会

 あれは九月の、まだ残暑が続いていた頃のことでした。その日、ぼくは中学時代の同級生だった恵子ちゃんと、姫路駅近くのロータリーで待ち合わせをしていました。恵子ちゃんはもともとはぼくと同じ姫路の人間だったのですが、両親の仕事と彼女の進学をきっかけに東京へ引越し、それから約十二年間疎遠になっていました。ですがつい先日、その恵子ちゃんから突然連絡がきて、今度姫路に行く用事が出来たから久し振りに遊ぼうという事になったのです。
 しかしぼくは彼女と再会することを楽しみにしている一方で、一体何を話したらいいのだろうか、何処に行けばいいのだろうか、なんと声をかければいいのだろうかという、不安や緊張も感じていました。そうした事を考えていたためか、ぼくは待ち合わせ時間の四十分以上も前にロータリーに着いてしまいました。当然彼女はまだ来ているわけがありません。
 そこでぼくは気を落ち着けるという意味も込めて、近くのCDショップに足を運ぶことにしました。そこは姫路駅から五分くらいのところにあり、学校の帰りに恵子ちゃんとよく通った思い出の場所でもありました。店内に入ると、そこには数人の学生らしき人々と、ぼくと同年代ぐらいの女性が一人と、店員さんしかいませんでした。なので他の人を気にすることなく、ぼくは新商品をチェックすることができました。ですが、ここでまたしてもある不安がぼくの脳裏をよぎりました。音楽好きのぼくは、CDショップやレンタルビデオ店に入ると時間が経つのを忘れて、音楽の視聴に没頭してしまう傾向がありました。結果、友達との待ち合わせ時間に遅れてしまうのです。この日もまずいなとは思っていました。ですがどうしても気持ちを落ち着けたいぼくは、ヘッドフォンを耳に当てて視聴することにしたのです。そしてプレイヤーのスイッチを入れると、ヘッドフォンからはポップなメロディラインが聞こえてきました。こうしてぼくは待ち合わせの事などすっかりわすれて、音楽の波にさらわれていってしまったのです。
 しかしさらわれて戻ってきた時にはもう手遅れでした。ぼくが慌てて携帯電話のディスプレイを確認すると、約束時間を一七分も過ぎてしまっていたのです。ぼくは思わず、
「あかん、遅刻や!」
 と自分でもびっくりするぐらいの声を出してしまいました。すると店内のどこからか、
「やばっ、遅れてるやん!!」
 という女性の声が聞こえてきました。それはぼくが入店した時からいた、ぼくと同年代ぐらいの、あの女性でした。彼女は手に持っていた音楽雑誌をおいて急いで何処かへ消えていってしまいました。その光景に気をとられていたぼくは、我に返ると彼女につづくかたちで店内を出ていきました。
 ロータリーに着くと、彼女を見分ける自信のなかったぼくは携帯電話を取り出し、彼女に連絡しました。
「もしもし、今どのあたり?」
「ついてんで、タクシーとまってるところ。」
「タクシー止まってるっていっぱい……。」
 この会話の途中、二人は目をあわせて噴き出してしまいました。何故なら、先程CDショップを慌てて出ていった、あの女性が携帯電話を片手に話していたからに他ならなかったからです。

たんぽぽ

 冬の寒さが残る3月の出来事です。その晩、息が苦しい中、私は行く宛もなく夜の酒場を徘徊しておりました。街のネオンは人々の心を吸い寄せるように怪しく光っておりました。私もその中の一人で、その妖艶な明かりを求めて右へフラフラ左へフラフラと、まるで魂の抜けた屍人のようだったことでしょう。
 そんな私の耳に突然、大きな怒鳴り声が何処からともなく響いてきました。私が声の方へ目を向けると、そこには非常に体格のいい中年のスーツを着た男が、若い新入社員と思われる若い別の男を罵っていました。なんと言っていたのかのは聞き取れませんでしたが、私の耳には確かにこう聞こえました。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
 その心の言葉に私はたまらなくなり、逃げるようにその場を立ち去りました。苦しかった息は更に酸素を吸うことが困難になり、私を苦しめます。そしてそんな中私は心のなかで、「私は間違っていたのだろうか。私の考える文学は間違っていたのだろうか、」と何度も自分に問いかけていました。

 私は実家に帰郷する迄は、関東の方でひっそりとアルバイトをしながら生計を立てていました。朝は六時に起き職場へと向かい、帰ってくるなりすぐにパソコンを立ち上げ小説を書く。そして小説をある程度書き上げるとパソコンを閉じて読書を少しして寝る。こんな生活を続けておりました。ですが、前日のちょっとした無理が祟ったのでしょう。ある日私は職場で倒れてしまいその儘入院。すぐに母は実家から駆けつけてくれました。やがて診察は終わり、診察室で診断の結果を聞くこととなりました。
「それで先生、この子の病気はなんなんでしょうか。」
 この母の一見、落ち着いた口調の裏には、周りへの体裁を気にしながらも私の体が気になってしょうがないという強い不安があることが私にはすぐに分かりました。ですが、そんなことを知ってか知らずか、この外来医師は顔色をひとつ変えず、まるでニュースの記事でも読むかのようにこう私たちに告げました。
「心配いりません。軽い過労のようなものです。点滴をすればすぐに良くなりますよ。あと睡眠も足りていないようだから、今日明日は安静にすることをお薦めします。」
 その言語を聞くと、母はほっと胸をなで下ろしていました。私も当然内心穏やかではありませんでしたから、この言葉には幾分か救われた心持ちがしました。ですが、その翌々日からが問題でした。私はその日以来、仕事に行くと急に気分が悪くなり、二、三時間しかその場にいられないのです。私は再び病院を訪れ、診察をしてもらいました。医師は私を仕事によるうつ病と診断し、長期の休暇を提案しました。私はこの診断に反対しました。私は実家に帰ることを恐れていたのです。実家の父や母は、私が文学の道を歩もうとしていることを一切知りません。うつ病と診断され、実家に帰れば生活は制限され、活動もやりづらくなってしまうことでしょう。これが私にとって、どれ程の苦痛なことでしょう。そう考えた私は両親に連絡する前に、大学時代の友人であるNを呼び出し相談してみることにしたのです。
「それで、実家に帰りたくないからってこっちに残ってどうやって生活するつもりだ。」
 私の部屋に入り、腰を落ち着かせたNはこのような質問を向けてきました。この時の私の顔といったらさぞ当惑していたことでしょう。私は下を向き、どこを見でもなく、ただそこにある何かを見ていました。
「でも帰りたくないんだ。親父やおふくろは、俺が小説を書いていると知ったら、どう思うか……。」
 Nは呆れた顔をしてポケットから煙草を取り出しました。
「そら……、お前の気持ちも分かるよ。確かに、ここにはお前のやっていることを理解してくれている友達も俺を含めて多いだろう。高知に帰っても、対立物のなんたらだ、否定の否定だらを分かってくれる人もおらんかもなぁ。でもな、何を言っても人間体が資本だぞ。無理して働くわけにもいかねぇだろ。現実は、お前が考えている以上にシビアだよ。」
「………。」
「まぁ、それにソコソコ書くことも出来ないってこともないだろう。しっかり養生することを俺も勧める。」
「でも書きづらいさ。それに、今まで俺がこうして文学に取り組めてきたのはNとか皆がいたからだと思うんだ。環境だって違う。」
「だからなんだ?」
「いや、だからね、環境が違うんだ。」
 この時、私は既に少し熱くなっていました。
「いいか、環境が違うってことは生活スタイルを変えなきゃならない。そうすると、高知は田舎だ。田舎に行けば、田舎的な暮らしが待っている。田舎的な暮らしは都会的な暮らしに比べて楽だ。習慣的に培われるものが少ないからね。すると、今まで培ってきたものは意識していてもだんだんと削がれ出す。分かる。ここが問題なんだよ。」
 すると、Nは熱くなっている私の答弁に対し、冷静に、冷たくこう返してきました。
「でも生きることに関してはそう大した問題じゃないだろ。俺達は生きている。俺から言わせてもらえればこっちの方が大きな問題だ。死んでも小説がかけるなら話は別かもしれんけどな。」
「……。」
 私はもうどうしていいのか、分からなくなっていました。彼の言っていることはもっともな話です。ですが、自分の命を文学に捧げたいと考えたことのある私にとっては、己の言い分も一里あるとも考えていました。ですから尚更分からないのです。私がこうして悩んでいると、Nは私にとどめの一言を告げました。
「しっかり体治して、また出てくればいいじゃないか。俺も待ってる。」
 そう言って彼は私の肩を叩いてくれました。私は暫く考え、いえ、恐らくぼんやりとその言語を飲み込んだ、と言ったほうが正しいでしょう。そして理解した後、ゆっくりと頷き実家の両親に電話をしました。その電話をしている最中です。突然、私はそれまで我慢していたものが心の底から一気に込み上げてくるのを感じ、気がつけば目から涙が一粒二粒こぼれました。ですが何も、単純に実家に帰ることがそこまで嫌で泣いたのではありません。この涙は文学を志す者として、ある程度実力をつけるまでは実家に帰らない腹積もりでしたのに、自身の未熟さからくる病気によって帰らなければならないことを恥じて泣いているのです。また、私は自分の夢がここで途絶えたような心持ちも、この時同時に感じていました。それらが爆発し一滴の涙となり、やがて一滴は虚しい嗚咽となって私の頬を伝っていきました。

 その一週間の後、私は六畳一室のワンルームマンションを綺麗サッパリと片付け、Nをはじめとした友人たちと別れの挨拶を告げて高知に戻ってきました。高知に戻ってきて、私の生活は実に退屈なものになりました。インターネットも接続していない我が家では小説を更新する気にはなれず、(私は出来上がった小説は必ずブログにアップすることが習慣としていました。)読書をするか、或いはDVDで映画を見るかをして毎日を過ごしていました。

 そんなある日、私と家族が夕食を食べている最中、父からこんな質問を受けました。
「それで、お前の将来設計としてこれからどうするがで。」
 私は躊躇することなく、こう言い放ちました。
「暫くは家にいて、一年間お金を貯めて関東に戻るつもりでいるうだけど。」
 こう私が行った瞬間、父の顔は少し歪みました。それは私が子供の頃から嫌いな父の表情でした。
「お前の考えていることは分からん、関東へ戻って何がしたい。」
 私は当惑しました。父に小説の勉強をしたいと素直に述べてそれを受け入れてもらえないと考えていた私は、この質問に対し、嘘をつくことにしました。
「向こうで働きたいんだ。高知では賃金が安いし、職は少ない。関東は高知に比べれば仕事があるだろうし、賃金も高い。」
 父は考え込むフリをしていました。フリなのです。思えば父は実家に帰ってきた私をチラチラと見ていて、「こいつは何を考えているのだ」と思案していたことでしょう。父は大変に漠然とですが、私の夢を見透かし、常々気に入らないと思っていたことでしょう。私は父の詰問から逃れられないことをここで悟ったのです。
「どうも可笑しいにゃー。そんなん思ってないやろう。お前は関東へ行って何がしたい。」
 私は下を向いて、何も答えられないようになってしまいました。父を説得することをはじめから諦めていた私は何か言わなければと思いつつも、言葉が浮かんでこないのです。そんな私を見かねたのか、父は決定的な一言を私に言ってきました。
「小説家になりたいがか?」
 私は一度コクリと頷きました。父は深くため息をついて、一言。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
 私は父の顔をまっすぐ見ていました。同じ顔をしていました。父の顔はそれまで私の夢を否定してきた多くの人々と同じ顔をしていました。私はじっと見ていた母の顔も見ていました。母もやはり同じような顔をしており、私を哀れんでいるようにも見えました。父は更に独り言を漏らすようにこう続けました。
「昔はそれで良かったかもしれん。昔は人が困っちょったら助けれた時代やき。でも今はそうはいかんぞ。まして生活の基盤がしっかりできちょらんお前に、小説なんか書ける訳ないやか。考えてみよ。大学にでも行って世間をみてきたら親の気持ちが少しは分かると思うたけんど、なんも見てこんかったか。まぁええわ。出て行くんやったら本当は大学の時にかかったお金を返してもらいたいけんど、ええわ、好きにせぇ。」
 そう捨て台詞を吐くと父は席をたち、その儘自分の部屋へ入っていきました。残された母は黙って涙を流していました。そして私はその場に一秒でもはやく去りたい気持ちで席をたち、家を出てフラフラと街へ出かけたのです。

 私は間違っていたのでしょうか。もう一切が分からなくなっていました。息はだんだんと苦しくなってくる一方です。頭に思い浮かぶのは、関東の慣れ親しんだ街並みやNをはじめとした友人たちの顔ばかり。ですが今の私は一人ぼっち。誰も私を知らないのです。こちらの友人も知りません。父も私のことを知りません。母ですら私のことを知らないのです。私は深い孤独に全身を貫かれたような気分になってきました。ああ、足ももつれてきました。上手く立つことが出来なくなった私は、アスファルトめがけて体を叩きつけられました。もうめちゃくちゃです。何がなんだか一切が分かりません。どうにでもなってしまえ。そう思った時でした。私の転んたアスファルトの先には一輪の、もう既に白い種をつけたたんぽぽが咲いていました。冬の冷たさが残っているとは言え、春は春です。咲いていたとしても全く可笑しくありません。ですが、そのなんも変哲もないたんぽぽに私は心奪われていました。硬いアスファルトに力強く根づき堂々と孤独に咲いているそれは、今は微弱でも、いつかはコンクリートを貫く程の力強い生命力を持った種をこの瞬間に飛ばしています。この種たちは他の兄弟達と別れ、暫くは寂しい思いをすることでしょう。ですが、孤独になろうともこの種は成長し、やがては母親と同じように新たな生命を風に運ばせる日がくることでしょう。そう考えていくうちに、私の呼吸は軽くなり、すんなりと立ち上がることできました。この時このたんぽぽは私の中にも、この力強い生命の種をわけてくれたのです。私はこれまでの足取りとは違い、しっかりと地面に踵をつけて暗闇の中へと進んで行きました。

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日~4月3日(修正版4)

1・躾期


1887年3月6日ーヘレンの欠点
 アン・マンスフィールド・サリバンは、ケラー大尉の寄越した車の中で、彼の娘であり、目も見えず耳も聞こえずの少女であるケレン・ケラーを教育してゆくという、自身に課せられた使命に胸を熱くさせていました。その彼女の心中は不安もあったでしょうがそれ以上に、期待が彼女を支配し、身体の震えを止められません。
 やがて車はケラー家の屋敷までくると、ケラー大尉は中庭で温かい拍手をして出迎えてくれたのです。しかしそうした挨拶よりもサリバンは真っ先に、これから自分の生徒になる少女の事を知りたがりました。そして家に近づいてみると、戸口のところに子供が立っていたのに気づきます。この子供こそ、ヘレン・ケラーその人でした。ケラー大尉の話では、彼女は「誰か」が来ることを両親や屋敷の人びとの動きから察知し、興奮していたと言います。そしてサリバンはヘレンに近づこうとして、玄関の階段に足をかけようとしました。するとこの小さな少女は、なんとサリバン目掛けて突進してきたではありませんか。これにはサリバンもその衝撃に耐えきれず、後ろへ倒れそうになりましたが、うまい具合にケラー大尉が後ろにいてくれたおかげで怪我をすることはありませんでした。ですがヘレンの驚くべき行動はそれだけではありません。彼女はサリバンのバッグを勝手に覗いて中身を確認しようとしたのです。大人達はすぐに、彼女はキャンディや人形といった自分の好きなものを勝手に取ろうとしているに違いないと考え、バッグをとりあげてしまいました。ヘレンは顔を真赤にしてひどく腹を立てています。ですが、この様子を見ていたサリバンだけはそう考えませんでした。ヘレンはバッグの中身に自分の好きな「何か」が入っているかいまいかという、有り余る好奇心に突き動かされているに過ぎないと考えたのです。そこで腕時計を見せて彼女の注意を引くことにしました。そしてこの試みは成功し、ヘレンはすぐに腕時計に夢中になりました。

 そしてこうしたヘレンと付き合っていくうちに、サリバンはある大きな欠点を発見していきます。それはヘレンはこれまでに「躾」というもの受けてきてこなかったということです。読者の皆さんもよく思い出してみて欲しいのですが、あなた達が何故このヘレンのように、愚かにも他人に体当たりしたりバッグの中を覗こうとしたりしてこなかったのでしょうか。きっとそこには親という監視者があなた方をずっと見張っており、悪いことをしようものなら何かしらの制裁が待っていた事でしょう。
 しかしヘレンの場合はそうではありません。彼女の場合、両親が他の子とは違うことを可哀想に思うあまり、彼女の好きなようにさせてきてしまったのです。その為、人間的な生活のあり方を知らず、ただ自分の内なる衝動や欲求にのみ従い生きてきました。その為に彼女の世界というものは、物理的な障害も相余って、頭の中に鮮明に人々や家や車が投影されているのではなく、ぼんやりとふわふわした、きっとそれは靄や霧、或いは一面雪が敷き詰められているような、純白の世界にフワフワとした物体が浮かんでいるような、兎に角、想像を絶する様な仕組みになっているのでしょう。
 そこでサリバンはヘレンを教育する「前に」、「ゆっくりやりはじめて彼女の愛情を勝ちとる」ことで「躾けようと」したのです。


3月月曜の午後ー人間的に躾けるということ
 しかし彼女を躾けることは容易なことではないようです。その日、サリバンとヘレンは見苦しいまでの喧嘩をしました。原因はヘレンの食事のマナーだったのです。彼女は前に出てきたものは、自分のものだろうが他人のものだろうが関係なく、しかもそれを手で掴み、欲しいものを欲しいだけ食べようとしました。そしてこれにはサリバンも黙ってはおけなかったというわけです。
 しかし彼女は、ヘレンの作法が単純に汚いからだとか服にしみがつくからだとか、そういった理由でとめようと思った訳ではありません。それは人間として生きるのであれば、止めることを避けては通れなかったからそうしただけなのです。もしこのまま彼女の作法を許していってしまえば、きっと彼女は人間ではなく、ただ小枝を齧るリスのように、或いは牧場で糞をする牛のように、獲物を狩るライオンのように、ただ野生の下僕となって生きていくしか道はなくなっていってしまいます。ましてや食事というものは、人間の生活において重要な習慣のひとつと言っても過言ではありません。そう自負するからこそ、サリバンはどのような事があるにせよ、人間的なマナーにおいて、ヘレンに食事をしてもらわなければならないのです。
 ですが、そんなサリバンの気持ちをよそにして、ヘレンはそうした作法を拒み続けます。スプーンを渡そうとすれば床に投げてみたり、ナプキンをなかなかつけようとはしなかったり、やはり他人の皿に手をつっこもうとしたり……。こうした根気のいるような、躾とも喧嘩とも分からない葛藤が長く続いた末、勝利の軍配はサリバンにあがりました。しかし彼女はその後、心身共に疲れてしまい、ベッドに顔をめりこませ泣きました。やがて泣くに泣いて、それに疲れてくると、すっきりとした気持ちで顔を起こして仰向けになって今後のことを考えはじめました。

3月11日~13日 ヘレンと両親、ヘレンとサリバン
 前回の食事作法の失敗から、サリバンは「つたみどりの家」と呼ばれる一軒家に自分とヘレンの2人で住むことにしました。というのも、彼女はここでヘレンを教育する事は不可能であると悟ったのです。幾らサリバンが人間としての土台を彼女に与えようとしても、それまでの彼女と両親との関係がそれを拒んでしまいます。ヘレンはヘレンで、何処かしらで何かは分からない不思議なものが自分のしたいようにさせてくれているし、今回もそうしてくれるという期待を感じている事でしょう。また両親も両親で「何もそこまでしなくても」という感情からついつい彼女を助けてしまっているのです。ですからサリバンは、そうした両親との関係から一度彼女を切り離した上で、ヘレンと新たな関係をつくると共に、人間的な土台を形成していかなければならなかったのでした。
 更にサリバンは、それまでの7年という歳月の間に積み上げられたそれまでの土台を崩し新しいそれを築くために、「征服」という手段を採用します。もちもん「征服」と言っても、単純にヘレンの意思を無視してサリバンが好きなように自身の都合を押し付けるのではなく、人間的な道から大きく逸れた行動をした場合にのみ行使されるということを意味しているのです。
 そしてヘレンの側では、こうした変化にはじめは戸惑いを感じており、あらゆることを拒み続けていました。しかしこれまでと環境が違うことを感じ取り、少しずつサリバンの「征服』を受け入れていくようになっていったのです。


2・知性の生成期


3月20日~4月3日ー土台の形成と新たな問題
 環境という自身の感情における土台が大きく変化した為に、やがてそれに適応しようとヘレンの人間としての土台も変化を見せていきました。はじめはあれ程拒んでいた「征服」も、身体が適応するにつれて徐々に受け入れていき、最終的には自らすすんで服従されていくようになっていったのです。そうしてヘレンはサリバンと両親とでは成し得なかった、新たな関係(指導者と生徒)を築き、同時に人間的な精神を手に入れつつあります。そこには晴れやかな顔をして編み物をしたり、サリバンの膝の上に乗っている「少女」の姿がそこにはありました。これをほんの2週間前に誰が想像できた事でしょう!
 しかしそこには大きな問題が横たわっています。ヘレンは未だに「ことば」というものの存在について知らずにいるのです。人間を教育するという点において、これは欠かすことの出来ないほど重大なことです。何故なら、私達が社会で生きていく上で「ことば」なしの社会など想像が出来るでしょうか。それほどまでに私たちの社会や暮らしに大きく根付いているのです。
 では、理解できていないものをどのように理解させていけば良いのでしょうか。それは彼女たちの教育生活がその答えを出してくれています。下記はサリバンがヘレンとのはじめの2年間を振り返る中で述べているのもです。

 ある概念が子ども心の中ではっきりできあがっている場合、その概念の名前を教えることは物の名前を教えることと同じようにやさしいことなのです。

 つまり、「ことば」という概念が分かるまで、ヘレンは様々な「ことば」に触れ、経験していくとが必要だったのでした。サリバンがヘレンに事ある事に指文字で「ことば」を教えようとしていたのもこの為です。4月3日までの日記では、動詞という、名刺よりも高度な概念の「ことば」を理解しはじめてきているといいます。彼女が「ことば」そのものを理解する日もそう遠くはない事でしょう。

2014年5月23日金曜日

タナトスの使者ーFile1-1

ただ生きるという以外に何の目的もなしにいつまでも生き続けどこまでも生を続けていく種属というものは、客観的には滑稽だし、主観的には退屈なものだろうさ

『自殺について 他四篇』 ショウペンハウル著


 月に一度の墓参りは最早、来島(くるしま)にとって欠かすことのできない習慣のひとつになっていた。彼はこの「岡崎」の墓前で手を合わせる事で、医者でありながら、否、医者であるが故に人の命を葬る自身の身を戒めているのである。目を瞑ると、これまで自身が生死の審判を下してきた者達の顔が浮かび上がってき出す。そして、それらの表情ひとつひとつが来島の使命感となって彼を突き動かすものへと転化してゆくのだ。また彼のそうした佇まいは、そのすらっとしていて整った容姿と相余って、霊魂を天上に送る天使のようにも見えなくもない。そういう神秘的な要素を意図することなく纏っているのである。そうして神秘の、目に見えない衣装を羽織った彼は、目を静かに、力強く開いて迷うことなくある方向へ向かおうとする。
 すると、来島に向かって一台の黒い高級車がやってきた。その車は彼もこれまでに幾度となく乗ったことのあるものである。また、彼は心の何処かでこの車が自分を見つけてくれることを望んでいたようにすら感じていた。そして彼と車がちょうど並んだところで後ろの窓が開き、その奥には藤堂の姿があった。
「ここだったか。」
 なんの感情もこもらせず、ただわざとらしそうにそう告げた。
「よして下さい、白々しい。」
 この男ははじめから俺がここにいることを知っていたのだ、知っていたからどこかで待ち伏せしていたに違いない。来島の勘、藤堂との長きに渡る付き合いが、彼にそう囁くのだ。それが図星だったのか、藤堂は彼のこの言葉を鼻で笑い飛ばし、まぁ乗って話でもしようと誘ってきた。彼は躊躇することなく藤堂の反対側にまわった。
「話もいいですが、線香の一本ぐらいあげていったらどうです。」
 それはかつての旧友の墓を訪れないことに対する、藤堂への避難の言葉であった。しかし、そんな来島の冷たくも温かい避難は、藤堂の冷めきった心に火をつけることはなかったのである。
「使者への手向けなぞ、生者の自己満足に過ぎん。それに、我々の間での話と言えば、これだけで充分だろう。」
 そう言って藤堂は、自身のポケットからとあるメモを来島に渡した。そこには、次の仕事のクライアントの簡単な個人情報が走り書きで記されてあった。来島はそれをじっと見つめて、すぐにしまおうとはしなかった。
「仕事、ですか。」
「そうだ、すぐに取りかかってくれ。」
 少し彼を突き放すかのように藤堂は言い放った。そしてそうした心持ちが来島にも通じたのか、それに応じるように、車から降り、やがて桜吹雪の中へと姿を消していった。


 自身が余命半年と診断されて2度目の春を迎えた頃、安田隆一はこんな事を考えていた。自分はあとどれぐらい生き続けるのだろうと。ガンという病気が肺から全身にかけて蝕まれており、最早生への執着は一欠片も残ってはいなかった。寧ろ、この長きに渡る苦しみから解き放たれたいという、死への憧れの方が日増しに強くなっていくのが自分でもはっきりと感じられた。というよりも、その事以外に考えることすらできなくなっていた。身体の苦しみだけではない。そのうち寝たきりになってチューブで繋がれて生かされるということにもなるかもしれないしそれも恐ろしい。しかし何よりも安田に死を望ませる事は、妻の存在であった。これまで献身的に彼を介護し続けてきた彼女は、恐らく心身共に疲れきっている気がしてならなかった。最近ではその疲れを隠せないのか、お箸がちぐはぐに用意されていたりだとか、同じものを2個買ってきたりだとか、そういった妻らしからぬ間違いも増えてきたようにも思える。このまま自分に縛らせておくことは、この先の彼女の人生を奪っているような気がして安田にはならなかった。
 ふと1ヶ月前にある知人に、こんな依頼をしたことを思い出す。なんでも最近では、他人の死を助けてくれるといった団体が存在し、事故や自殺に見せかけて殺してくれるのだという。安田はこの話を聞いた時、藁をも掴む気持ちであった。だが、実際1ヶ月経ってみればどうだ。音沙汰もない。やはりそんなにうまい話はありはしない。そう安田が思って窓の方を振り返った、まさにその時である。妻ではない何者かがうちの中へ入ってきているのだ。背は高く、髪も長い。しかし女ではなく、どうやら若い男のようである。向こうもこちらが気がついているのを察したのか、慌てることなく心地の良い低い声で挨拶をしてきた。
「遅くなって申し訳ありません。」
 安田は度肝を抜かれた。まさかという期待と驚きが彼の全身を駆け巡った。男は挨拶を続ける。
「日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 安田にとって、日本タナロジー学会がどういう組織であるのか、来島という男が何者なのかといったことはどうでもよかった。ただあるひとつのことだけははっきりしていたのだから。この来島という男は、自分を殺してくれる為にやってきてくれたのだ。焦る気持ちを抑えながら、安田はしみじみとこう述べた。
「遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたが、こちらにも事情がありますので。」
「事情?」
「ええ、ですからこうして用心して、窓から失礼させて頂いたのです。」
 安田にとってこれは奇妙な事に思えた。一体何に用心せねばならぬというのだろうか。保険会社か何かが、わざわざ自分がどうのようにして死ぬのかを見にくるということも考えにくいし、この男が警察に感付かれるような間違いを犯したとでもいうのだろうか。そんな彼らの、自分とは全く関係のない都合だけで死ぬ事を延期させられたかもしれないと思うと、安田は腹立たしくなってきた。
「何が事情だ?誰にも遠慮することはなかっただろう。」
「わかっていらっしゃらない、もっと慎重になってもらわないと。」
 来島という男はややわざとらしく肩をすくめて、刑法202条にこんな条文があり、これから自分たちがしようとしている事はれっきとした犯罪だということを安田に教えた。

人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。

 だが安田には来島が何を言いたいのかよく分からなかった。
「だからなんだ、警察がかぎつけているとでも言うのかね?」
 来島はあくまで落ち着き払って質問に答えた。
「そうではありません、私はこれでも医者です。下手をうつような事はしていません。学会の活動を面白くないと思っている者達がいる、という言っておきましょう。あなたが見つけたくらいだ。そろそろ世間が私たちの事に気がついてもおかしくはありません。私たちは死を処方します。人が自分で死期を決める権利を持つことをあまり道徳的ではないと思っている人達がいるんです。」
「そうかね?尊厳死は人に認められて当然の権利だと思うがね。」
「いいえ、ご理解頂けてない。尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもないのです。」
「うむう……。」
 安田はここまで聞いて一切が飲み込めた。しかしこれから死ぬ人間が法律を気にしたって仕方がない。寧ろ法律を犯してでも、彼は死を羨望した。
「よかろう、これからは慎重になる。で、具体的には私はどうすればいい?いつ殺してくれる?」
「待って下さい。死は誰にでも処方できるものではありません。まずはあなたを審査させて頂きます。」
 人を1か月も待たせておいて、一体何を、何の権利があって審査するというのか。こう思うと安田は自身の内から憤怒が湧き出てくることを抑えきれなかった。それを来島も感づかかない程愚鈍ではなかった。
「私たちのやり方に従って頂けないのなら話はこれで終わりです。」
「い、いや……それは、困る。」
 安田は怒りを鎮めることに務めた。しかし、そうまでして他人に殺してもらおうとする彼の姿勢に来島は疑問を感じた。
「何故です。貴方は末期の肺ガンでもう余命幾許もないとお聞きしています。どうしてそこまで私たちに拘るのです。」
「そうだ、だが余命半年と言われ、もう2年と半分になる。私は自分の最後をせめて自分らしく迎える為に、自宅療養を選んだのだ。君も医者なら分かるだろう。ガン患者というものは症状が悪化していけば、そのうち寝たきりなってチューブで全身を繋がれて、そして最後には痛み止めで意識が朦朧としながら、家族に別れを告げられぬうちにあの世行き……。私ももう歳だ。これまでそのような死に方をいくつか見てきたが、それだけは嫌だと思ったものだ。だが、その私の我儘のせいで、妻がもう耐えられなくなってきている。あれはちょうど君たちの学会に依頼する2週間ぐらい前の話だ。私は妻の介護で飯を食っていたが、ちょっとした不注意で味噌汁を手から零してしまってね。妻がそれをとってこちらを振り向いた時に、それまで私をなんの文句も言わず、健気に世話をしてくれる妻はそこにいなかった。『別の何か』がそこにはいたんだよ。まるで煉獄に繋がれている亡者のようだった。妻は私という煉獄に囚われているのだ。だから何処にも行けず、何も出来ず……。元々妻は社交的で活発な性格で、私が病気をするまでは茶道を人に教えていた。しかしそれも私がこうなってしまって以来、ぱったりとやめてしまった。それが私という鎖に繋がれたまま、自分の人生を生きられないのはあまりにも不憫過ぎる。だから、一日でもはやく私を殺して欲しいのだ。」
 こう述べる安田の顔は次第に目はカッと開き、口は釣り上がり、まるで鬼のような形相へと変貌していった。しかしこれとは対照的に来島の表情は穏やかで、まるで全てを見透かしたような笑みを浮かべていた。
「いや、感動しました。私も協力のし甲斐があるというものです。」
 こうした彼の反応は安田の怒りを再び呼び起こした。が、またもぐっとこらえて、彼の次の句を待った。
「どうか心配なさらないで下さい。その時がくれば再び貴方を訪れます。」
「それはいつなのだ。」
 感情を殺すようにして安田は聞いた。
「さぁ、ですがそう遠くはありませんよ。いずれまた来ます。それまではくれぐれも慎重に頼みますよ。」
 来島はそう言うと安田の次の言葉も待たず、窓から去っていってしまった。

 来島はその後、安田の死の審判のための準備に取りかかった。まずは情報屋でもあり彼の右腕とも言っていい鈴木の力を借りることにした。まずは相手の基本的な個人情報を調べさせる。すると安田は15年前まで大手総合建設業、所謂ゼネコンの役員をやっていた、エリートサラリーマンであることがわかった。だがこれだけで彼にまで死を処方して良いという判断はつかない。死を望んでいるのには、何か裏があるかもしれない。それこそ、自分たちの対抗勢力がなんらかの形で絡んでいる事も否定出来ない。そこで来島は藤堂に頼み、安田宅の近くのマンションの一室を借り、鈴木に彼のデータを集めながら安田の動向を覗うことにした。鈴木はプロだ。仕事に関して一切文句を言わず、昼夜を問わず盗聴器に耳を傾けていた。ただ来島の差し入れだけは容認できないものがあるらしく、一言が二言、二言が三言と小言が増えていった。しかし、その盗聴の成果も虚しく、安田はいつもと変わらない日常を送っているようだ。彼の一日のうちの会話といえば食事や入浴の時に妻の問いかけに「ああ」や「うん」と答えるぐらいで、怪しい言動はひとつもなかった。
 ただ収穫がなかったわけではない。退屈で眠くなるような張り込みの傍らで、鈴木は彼の戸籍標本をインターネットからハッキングして手に入れていたのである。そしてこの戸籍のコピーを手にした時、来島の目は鋭く光った。そこには彼ら夫婦には嘗て息子が存在していた事が記載されていたのだ。

2014年4月5日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版3)

1・躾期

3月6日
 この日の手紙を書き終える数日前、アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーと運命的な出会いを果たしました。そしてサリバンは彼女に出会ってたった数時間のうちに、その欠点を見抜いてしまいます。と言いますのも、ヘレンは他の子供達に比べて、人間的な精神が未熟で、自分を抑える事を全く知らないのです。ですから、彼女ははじめて出会ったサリバンに挨拶もなしにいきなり突進し、鞄の中に手を突っ込んで中に何が入っているのか調べようとしたのでした。(ここで注意して頂きたいのは、ヘレンは何も自分の好きなものが中に入っていると思って、鞄の中を確認しようとしていたわけではありません。あくまで鞄の中そのものに何が入っているのかについて興味があったのです。だからこそ彼女はサリバンから腕時計を渡された時、そちらに興味の方向をうつしかえていったのです。)
 そしてヘレンがこうなってしまった原因は、幼少期の躾が施されていない為なのです。通常の6歳から7歳の子供達であれば、それまでにこれはしてはいけない、ここまでなら良いといった躾をある程度受けてきている事でしょう。ですが、ヘレンの場合、彼女の両親が彼女の障害に同情するが故に、彼女を躾ようとはしませんでした。ですから、ヘレンは自身の思うようにしか行動せず、抑える事が全く出来ないのです。
 そこでサリバンはこの「躾期」にある彼女を制御し、訓練するために、「ゆっくりやりはじめて彼女の愛情を勝ちとる」ことにしました。

3月月曜の午後
 この日、サリバンはヘレン・ケラーと食事の作法のことで大げんかしました。それ程にヘレンの作法というものはすさまじいもので、欲しいものはなんでも手でつかみ、人の皿のものにまで手を出してきます。当然サリバンはこれを許しませんでした。
 ですが、サリバンが「人間的な食事作法」に拘った理由は、単に汚いからだとか、見苦しいだとか、そういったものではありません。そもそも、私達は誰からどのようにして食事のとき、ナイフやフォークを、お箸や茶碗を持つことを学んだのでしょうか。それは言うまでもなく、自分たちの両親からそのように教育されてきからに他なりません。
 しかしこれがあの「アマラとカマラ」のように、狼に育てられていたとしたら、どうなっていたでしょうか。きっとお箸やフォークを使うことはなく、頭を食べ物につけて貪っていたのでは、という想像を拭い去ることはできません。
 私達は人間たるお父さんやお母さんから、それなりの教育を受けてきたからこそ、人間的な性格や習慣を身につける事が出来たのです。ですからサリバンも、いかにヘレンが抵抗し言うことを聞かなかったとしても、人間の生活や習慣を手にいれてもらうべく、強制しなければなりません。
 結果的にはヘレンはサリバンとの激しい格闘の末に、正しく食事することはどうにか出来ました。同時に、サリバンにとっては、ヘレンの躾の遅れの大きさを身をもって実感する出来事となったのです。

3月11日〜13日
 前回の食事作法の件を経て、サリバンはヘレンと「つたみどりの家」と呼ばれる一軒家に2人で住むことを決めていきました。というのも、前にも書いたとおり彼女の躾の遅れは予想以上に彼女の生活に大きく響いており、またそうなってしまった原因たる両親がそれを許してしまっていることにより、サリバンがいくら躾をしようとしても身につかないのです。
 そこでサリバンはそうした環境から彼女を引き離し、「したいことしかしない」という彼女を土台の部分から、強制的に「征服」させることで叩きなおそうとしたのでした。
 ところで「征服」というと何やら虐待めいたものを彷彿とさせてしまうかもしれませんが、ここまでこのレポートを読んでいただいた読者なら理解してもらえるかと思いますが、勿論、そういうことではありません。サリバンはあくまでヘレンに、「人間的な」生活や習慣を躾ようとしたに過ぎないのですから。
 そしてヘレンの方でもはじめこそ抵抗していましたが、もう自分を庇ってくれる環境がないということもあり、徐々にサリバンの征服を受け入れざるを得なくなっていきました。

2・知性の生成期

3月20日〜4月3日
 「征服」という、ヘレンにとってもサリバンにとっても苦しい期間を乗り越えて、遂に彼女は人間的な表情(はれやかで幸福そうな顔つき)、生活(編み物を楽しんだりサリバンにキスをする)、習慣(ナプキンをつけて食事をする)を手に入れはじめていくことができました。
 ですが、ここでも大きな問題がないわけではありません。ヘレンは言葉という概念の存在をまだ知りません。「人形」や「犬」といった単語そのものは知っているものの、それらがどういう意味を成しているのかについては、まだ知らないのです。
 私達は言葉によってあらゆるものを整理しています。それは、机や椅子といった具体的な概念から、イデオロギーや主義、主張といった高度な概念まで、それに頼っています。もし、言葉なしにそれらを整理しろと言われればどうするでしょうか。想像もつきません。それ程までに私達にとって、言葉というものは、何かを整理したり考えたりする事において欠くことの出来ないツールとなっているのです。
 ですからヘレンの場合も、言葉というものの存在に気づくまでは、あらゆることを整理したり、高度な事を考えることが不可能だと言えるでしょう。これは教育にとって実に大きな問題であることは明白です。
 しかし、サリバンはヘレン・ケラーとのはじめの教育生活の2年間を振り返る中で、こう述べています。

 ある概念が子ども心の中ではっきりできあがっている場合、その概念の名前を教えることは物の名前を教えることと同じようにやさしいことなのです。

 要するに彼女が言葉という概念を理解することも同様で、多くの言葉に触れる中で、自分の中ではっきりさせていく中で気づく事が可能なのです。よって、これからの彼女に必要なことは、多くの言葉を詰め込み、言葉という概念をはっきりさせるということに他なりません。

2014年3月23日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜3月20日(修正版2)

1躾期

3月6日ーヘレンの教育における方針の決定
 アン・マンスフィールド・サリバンは1887年3月3日のこの日に、ヘレン・ケラーと運命的な出会いを果たすことになります。
 ヘレンに出会うまでのサリバンは、彼女の事を色白く神経質な少女だと思っていました。これはハウ博士が書いた、ローラ・ブリッジマンのレポートを読んでそう推察らしい事を後の彼女自身が認めています。しかし実際のヘレン・ケラーそうではなく、血色もよく常に子馬のようにたえず動いているような少女でした。
 ですがこの少女には、同時に教育における大きな欠点があったのです。サリバン曰く、彼女には「動き、あるいは魂みたいなもの」が欠けているといいます。これはヘレンの精神的な未熟さを指摘しているのです。というのも、彼女は普通の6歳、7歳頃の少女と比べて、人のものを勝手に取らない、バッグの中を除かないといった、教育以前の基本的な躾が行き届いている様子がまるでありませんでした。そして、そうした躾の遅れが表情や態度にも表れている為に、反応はにぶくめったに笑う事はないのだと、サリバンは考えています。
 そこで彼女は、「ゆっくりやりはじめて、彼女の愛情を勝ちとる」という大まかな方針を決めていったのでした。

3月月曜の午後ー方針の転換
 しかし、その方針を大きく転換しなければいけない時期がはやくもきてしまいます。
 この日、サリバンはテーブルマナーの件でヘレンとひどく争っていたのです。と言いますのも、ヘレンの食事作法というものは、手づかみであたりのものを食べ散らかし、他人のお皿にまで手を突っ込むというすさまじいものだったのでした。そしてサリバンはこれを良しとはしませんでした。
 当たり前の事のように思われるかもしれませんが、私達がテーブルの上でナイフやフォーク、お箸で食事するのは自身の、人間たる両親からそうした教育を受けてきたからに他なりません。ですがもしこれが他の動物の両親だったならば、どうだったでしょうか。例えば、アマラとカマラのような、狼に育てられた事例はいくつか存在しますが、彼らは4足歩行し、調理されたものを嫌い、生肉を、勿論道具は使わず犬食いで食べていたと記録されています。つまり私達が人間たる所以は、人間的な躾や教育を受けてきたからであり、決してはじめから人間として完成していたわけではありません。ですからサリバンも、ヘレンを人間として躾けるべく、これまでのやり方を許さず、人間的な生活を強要したのです。
 しかしヘレン自身はそれを拒み、これまで好き勝手に食事してきた経験から彼女に抵抗を試みました。
 結果的にサリバンはヘレンに人間的な食事をさせることに成功しましたが、大きな課題が残ったのも事実です。やがてサリバンは3月6日にたてた方針を思いきって捨てる事を決断していきます。

3月11日〜13日ー土台からつくりなおす
 前回の失敗から、サリバンはヘレンと「つたみどりの家」と呼ばれる1軒家に2人で住むことを決めました。というのも、彼女の両親はこれまで、目が見えず耳が聞こえず、口もきけない事を可哀想と思う心、同情から、ヘレンに対して人間的な躾を施す事をせず、彼女の好きなようにさせてきたのです。その為、ヘレン・ケラーという少女は真っ当な人間としての振る舞いが出来ず、したいかしたくないかで行動する、野生動物のような人物になってしまっていったのでした。
 そこでサリバンは、いちど彼女を野生動物にしてしまった環境から離し、人間的な躾を施し、人間としての器を形成していこうと考えたのでしょう。
 更にその手段として、サリバンは「征服」という方法を使うことによって、それまで形成されつつあった土台を壊し、新たな土台をつくろうとしました。
 そしてヘレンの側でも、はじめこそこれを拒んではいましたが、徐々に否応なくそれを受け入れざるを得ないようになっていきます。彼女の振る舞いを許してくれる環境はもう何処にもないのですから。

2知性の生成期

3月20日ー器の形成と新たな課題
 ヘレンは「征服」という最初の難関を乗り越え、遂に人間としての土台を手に入れたようです。人間としての強制的な躾を受けてきたことで、彼女は人間たる表情や行動(笑みを浮かべたりキスをしたりする)をとるようになってきたのです。そして器が形成すれば、次に重要なのは、何を注ぐのか、ということです。サリバンに曰く、これを考える事が今後の彼女の楽しい仕事なのだといいます。

2014年3月9日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版1)

 1887年3月3日のこと、アン・マンスフィールド・サリバンは身体が震えるほどの熱い期待を胸に、ヘレン・ケラーとの出会いを果たします。そしてその出会いというものは、彼女にとって衝撃的なものでした。車から降りて階段に足をかけようとすると、突然小さな可愛らしい何かが、突進してきたのです。それがヘレン・ケラーその人でした。
 サリバンは彼女と出会う以前に、ハウ博士が書いたローラ・ブリッジマンのレポート(そこには盲目で神経過敏な少女が書かれていた)を読んで、それまでヘレンに対して青白く神経質な少女をイメージしていました。しかしそうした予想は、現実のヘレンの突進を受けた事によって大きく崩れ去ってしまいます。この小さな生徒は、自身の先生に思いっきりぶつかったかと思うと顔や服やバッグを触り、バッグを取り上げようしました。

 ここで多くの方々は彼女のこうした行動を受けて、脳に物理的な障害があることをまずは疑うのではないでしょうか。結論から述べると、それは間違いであると言わざるを得ません。何故ならヘレンは他の子供達と同様に、ビーズに糸を通したり、その糸がするする抜けてしまう場合には大きな結び目をつくって自分で解決したりといったのうに、人間として、ある程度高度な遊びが可能だからです。
 ではヘレンの場合、教育にあたっての問題というものは何処にあるのでしょうか。それは外面ではなく内面、彼女の精神的なことろにこそあったのです。と言いますのも、それまで彼女は両親の同情、目が見えず、耳が聞こえず、可愛そうだなという気持ちから、彼女の好きなようにさせてきました。ですから彼女はこれまで教育らしい教育を受けてこなかったどころか、気に入らないことは一切せず、あたかも「野生動物」のように、ただしたいかしたくないかによって行動してきたのです。(よって、ここでは現在のヘレンのこのような状態を「野生動物期」と呼ぶことにします。)

 それでは、このような状態にあるヘレンを「正しく」教育する為にはどうすればよいのでしょうか。結論から申しますと、彼女に必要なのは「躾」です。そもそも彼女がこのようになっていった原因は前記した通り、両親の彼女に対する接し方にあります。そしてそうした接し方を続けていくうちに、ヘレンはヘレンでしたいかしたくないかという段階から次の段階には進めず、ある程度の土台をつくりあげてしまい、両親は両親でそれを容認していく中で、ヘレンのそうした精神性を、その行動がエスカレートしていっただろうにも拘わらず、自然と受け入れてきたのでした。だからこそ、サリバンはヘレンを「服従」させることで、強制的に躾し、それまでの土台を壊して新しいそれをつくっていく必要があったのです。
 ですがこう述べると、一部の方々から、「服従とは何事か、それでは虐待している親たちと変わらないではないか!!」という罵詈雑言にも似たような批判が飛んできそうなものでしょう。ですがそうした方々も、きっとサリバンが何を基準にしてヘレンを「服従」させていったのかを知ったならば、そうした感情の牙をおさめてくれるはずです。というのも、勿論彼女は自身の感情の起伏によって、或いは大人の目線(これはしていい、してはいけない)によって、彼女を征服したのではありません。サリバンはヘレンのいちいちの行動を、好奇心からきているのか、或いは動物的な本能のようなもの(寝たいから裸で寝る、食べたいから手で掴んで食べる)からそうしているのかを区別し、前者が勝っている場合にはそれを容認し、後者が勝っていると思った場合には力によって抑制していきました。

 すると、彼女の内面にはどのような変化が表れていったのでしょうか。
 例えば皆さんには小さかった頃、好きな食べ物、嫌いな食べ物はありましたか。私の父は野菜が嫌いだった為に、よく皿の端にビーマンや茄子が残していたのを記憶しています。そんな父の後ろ姿を見てきた私も、昔は茄子が嫌いでした。逆に牛や豚などの肉類は大好きで、現在でもそうです。ところでそうした食べ物の好みというものはどのようにして決まっていくのでしょうか。私自身、きっとはじめから肉の味を好んでいたわけではないと思います。恐らく、最初は肉を食べても美味しいとは思わなかったと思います。何度も何度も食卓に出されていくうちに、その味を覚えていき、やがてそれを食べることに快感を覚えていったはずです。そしてある時点から、それを見た瞬間に顔が綻ぶようになっていった事でしょう。要するに、同じ刺激を何度も何度も与えられる事によって、私は肉という食べ物の像を深めていきました。
 そして「野生動物期」から次の段階へと移り変わっていくヘレンにも同じ現象が起こっていきました。ただ彼女の場合、多くの快感は知っているものの、それが豚肉なのか鶏肉なのか、それぞれの像が漠然としていたために、更に言えば美味しいと不味いということしかない為に、自分が何を食べているのかについてはまるで分かってはいなかったのです。(本書の中で彼女の表情が動き、あるいは魂みたいなものが欠けていると表現されていたのは、この為でしょう。)そこでサリバンは躾によってそれぞれの刺激を整理していくことで、この場合にはこうした快感が得られる、この場合にはこうした快感が得られるといったように、刺激や快感にも種類があることを教えていったのです。そしてヘレンの方でも、それぞれに合わせた反応を取るようになっていき、(勿論、その反応の仕方については、サリバンが自分の顔を触らせたり、彼女の顔を触ったりするといった方法で教えていったのではないかと考えています。)それが感情としてあらわれはじめます。その結果、3月20日以降のヘレンは、晴れやかな顔で編み物をしたり、気分の良い時にはサリバンの膝に乗るような、快活で表情豊かな少女へと変わっていきました。「知性の生成」段階です。

 こうして彼女は、「野生動物期」という曖昧で無秩序な世界を脱出し、「知性の生成期」という、人間として必要な、教育という扉を開いたのです。

2014年3月2日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたか−1887年3月6日〜4月3日

 サリバンがヘレン・ケラーという少女と出会った時、彼女はある衝撃を受けました。ケラー大尉の車を降りて階段に足をかけようとした瞬間、小さな可愛らしい少女が彼女目掛けて突進して来たのです。それがヘレン・ケラーという小さな女の子でした。サリバンはそれまでヘレンの事を、ハウ博士が書いたローラ・ブリッジマンのレポート(※1)から、青白くひ弱な子供を彷彿していたのです。しかしヘレンはそれとは対照的で、活発で動きをとめる事を知らない元気な子供だったのでした。
 そしてサリバンは彼女に対して、もうひとつ、大きな違和感を感じはじめます。それは彼女は他の同年代の子供達に比べて、明らかに精神的な未熟さがあった、ということです。彼女にはここまではしていい、してはよくないといった線引きが全く出来ず、常に自分のしたいように行動しているのです。この為サリバンはヘレンを「野生動物」だと称しました。ですから、この時期の彼女の段階に名前をつけるとすれば、「野生動物期」と呼ぶことが出来るでしょう。
 ではこの「野生動物期」にあるヘレンを教育していくにはどうすれば良いのでしょうか。結論から述べますと、ヘレンに必要だったのは教育以前の段階で行うべき、躾です。彼女の両親はそれまで同情の気持ち、目が見えず、耳が聞こえず、口がきけないという状況を可愛そうだと思う気持ちから、彼女の好きなようにさせてきました。しかしそれは彼女の我儘を助長させ、したくない事は絶対にしない暴君をつくりあげる結果となってしまったのです。
 そこでサリバンはヘレンを自分に「服従」させ、しては良いこといけないことを「形式的」に強要させようとしました。そしてこの「服従」という言葉には、教育において必要な条件とヘレンの特殊性を示す、2つの意味合いが込められています。前者は教育とは生徒が指導者の言うことを聞くことが前提となっていること。後者はヘレンがこれまで躾をせずに人格が形成されてきたために、土台の部分からつくりなおさなければいけないという意味において使われているのです。
 しかしこのように述べると、一部の方からは、「それでは一方的に自分の感情によって子供を育てている為に、虐待をおこなっている親とまるで同じじゃないか」という反論がきてもおかしくはありません。ですが彼女は何も、感情的に「服従」
させたわけでもなく、また大人の目線によって、「してもいいよくない」を区別させたわけでもありません。2通目の手紙において、サリバンはヘレンと食事の作法において、正しく食事をさせることに執着しました。ところが1通目の手紙においては、バックをひったくりその中身を確認しようとしたり、インク壺に手を突っ込んだりした時にはそれ程怒ろうとはしなった様子なのです。恐らく彼女はヘレンの行動における「したい」という衝動を、動物的な本能によるものなのか、子供らしい、なんでも気になってしまう好奇心とに区別し、前者のみを「してはいけない」部類にカテゴライズしたのでしょう。こうする事で、彼女は動物的本能にエネルギーを注ぐことをやめていき、好奇心のみに注意を払うことが出来るようになっていったのです。
 そしてこの好奇心こそ、サリバンの教育論において重要な役割を果たす要素になっています。

 私はいつも、何が彼女の興味を最もひくか見つけだし、それが計画した授業に関係があろうとなかろうと、それを新しい出発点にした。

 これはヘレンとの授業を振り返ったサリバンの言葉ですが、ここでサリバンは、あくまでも教育とは教育者が主体ではなく、生徒の好奇心こそが主体であり、教育者はそこに目線を合わせ指導を行うべきであると述べているのです。
 「野生動物期」のヘレンにも好奇心と認められるものは確かにあった事でしょう。しかしそれを伸ばす方法がありませんでした。というのも、サリバンの方法論のひとつとして、頭をなでたり、褒めたりして、子供達の心を満たし、好奇心を正しい方向へと導くという方針を掲げていましたが、ヘレンにはそれが通用しなかったのです。何も響かず、気が向かないことは一切してきませんでした。ですから彼女はそうした器を形成する意味においても、「服従」させる事が必要だったのです。(※2)

 こうして「服従」を経て、「教育者の言うことには従う」、「相手の気持ちを受け止める器がある」という条件を揃えた、次の段階こそ、「知性の生成期」(※3)なのです。彼女は「服従」という苦難を経て、教育における土台を形成していったのでした。

※脚注
1・ハウ博士のレポートには、ヘレンと同じような境遇であるローラ・ブリッジマンは、青白くひ弱そうな子どもとして書かれていた。

2・1887年3月20日の日記においてーこの子どもの心のなかで動き始めている美しい知性を方向づけ、形づくることが、私の楽しい仕事となりました。

2014年2月24日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜3月20日(修正版)

 今回は、3月20日にある、「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです!知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。」という2行を中心にして、その前後で、ヘレンの内面がどのように変化していったのかを中心にして、本書をまとめていきたいと思います。というのもそれらの言葉通り、彼女はこの日を堺に自身とその周りの環境全てをかえたのであり、それを考える事はサリバンの教育論を考える上で避けては通れない問題とも言えます。
 そこでここでは、その2行の前後の期間をそれぞれ規定し、どうのような必然性があった為にヘレンはそう変わらざるを得なかったのかを考えていくつもりです。

 そもそも私の以前のレポートにも書いてあった通り、ヘレン・ケラーという少女の教育における問題というものは、身体ではなく精神の方にありました。つまり目が見えない、口がきけない、耳が聞こえないということ以外、私達と何も変わらなかったのです。
 ですが、彼女の両親はそうした障害に同情しているが故に、ヘレンの言うことをなんでも聞いてしまっていました。その為、性格はとても我儘になり、不満があると苦い結果を残すまで争うことをやめようとはしません。
 また両親はヘレンとまともに会話、意思の疎通をはかる術を持ちあわせてはおらず、彼女との関係は常に彼らの努力のみによって成り立ってきました。ですから、彼女は自分から何か訴える事があっても、何かを受け止める事はありません。サリバンが文中において、「彼女の愛情や思いやりや他人の賞賛を夜転ぶ子供らしい心に訴えるすべが一つもありません。」と書いてあったのはこのためです。
 私はこの期間を、欲求を抑えず常に放出し、愛情(ここでは物理的な接触や言葉によって精神が満たされること)に訴える心を持ちあわせておらず、ただ自分から何かを訴えているばかりの状況から、「欲求放出期」と名付けることにしました。

 そこでサリバンは、その原因となった両親から引き離し、全く違う環境で、彼女を征服することでこの期間からヘレンを脱出させようとしたのです。
 それではそうした環境に追いやられた事によって、ヘレンはどのように変化していったのでしょうか。
 サリバンに征服された事によって、ヘレンはこれまでのように欲求を好きなように放出する事ができなくなっていきました。そしてこれまでのように、両親のように彼女の我儘を許してくれる存在がいないのもその一因となっていることも見逃せません。ですから、彼女はサリバンに服従する中で、それなりの発散の仕方を見つけるしかなく、自然と指文字や言葉に興味を向けていったのです。
 またサリバンの教育スタイルとしては、征服というぐらいですから、当然サリバンからヘレンへ、何かしらの強制力が働くことになります。つまりそれまでの、ヘレンから誰それへ何かを訴える流れとはまるで逆なのです。ですからヘレンは、他人の思いやりや愛情を受け止める器というものを形成せざるをえなくなっていきました。だからこそ彼女は、3月20日のその日には、サリバンの傍で、晴れやかな顔をして編み物をしていれたのです。
 上記のように、征服によって強制的に欲求を抑えられたこと、そしてその強制力から相手の征服や大まかな感情を受け止める器を形成していった事から、この期間を、「欲求制御期」と規定することにしました。

2014年2月14日金曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたか1887年3月6日〜3月20日

 レポートの数も大変多くなってきましたので、今回はこれまで私が書いてきた、3月6日から20日までの出来事をおさらいしてみようかと思います。おさらいとは言いましたが、単に整理していくのではなく、3月20日(※1)を堺に彼女がどうのように変化していったのかを論じていくつもりです。というのも本文にある、「知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。」という一文からも理解できるように、この日からヘレンは教育において質的に次の段階へと進んでいった過程が潜んでおり、これを論じていくことは本書を理解していくことにおいて避けては通れません。そこでまずは3月20日以前と以後の彼女を比較し、それぞれが教育においてどのような段階にあったのか、どのような期間であったのかを規定し、前後の違いを論じていきます。

 私は以前、自身が書いたレポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版5)において、ヘレンは普通の7歳前後の子供達と比べて身体面に異常はなく、その問題というものは、「好奇心を抑えられない、社会性が乏しく誰がきても自分の我儘を通そうとする精神的な気質にある」と述べていました。
 そしてそれはどのようなものであったのかというと、食事の作法と言えばナプキンも付けず、辺りにあるものはナイフやフォークを使わず手づかみで食べ、お客さんが来るかと思えば勝手に鞄の中を覗こうとし、そうかと思いそれを制止しようとすれば暴れてしまう、というものだったのです。これらの行動からこの期間の彼女の特徴は、下記のような事になるでしょう。

◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。

 私はこの期間を、欲求を抑えず常に開放し、社会性を無視した行動をとるために、「欲求開放期」と仮に名付けることにしました。
 そしてこの「欲求開放期」のもう一つの特徴として、「愛情を受け取る器がない」という事が挙げられるでしょう。ここでいう「愛情」とは、一般的な、誰かが誰かに好意を寄せる時にとる行動等の事ではなく、物理的な接触や言葉によって精神が満たされる現象を指す事を意味します。これまで好き勝手に欲求を満たしてきたヘレンにとって、「愛情」などというものの存在など無縁であった事でしょう。そしてサリバンはこれこそが自身の教育において大きな障害になるだろうと考えていきます。
 そこで彼女は「征服」という手段によって、それをヘレンに植え付けようとしたのでした。ここで注意して頂きたいのは、ここでいう「征服」とは、人として倫理的、道徳的に外れた行動を強制的に正していくという意味を指すということです。(詳しくは3月月曜の午後、3月11日のレポートを参照)やがてこの彼女の試みは成功し、3月20日以降のヘレンの行動は劇的に変わりました。
 服従を学んだ事で、彼女はサリバンが監視している範囲では、ある程度欲求を抑える事ができはじめてきました。(ですが彼女と同年代の子供達に比べると、その効力はまだまだ薄いものであると言えるでしょう。7歳前後であれば、ある程度、大人から離れていても、自らの欲求を抑える術をある段階までは身につけているはずですから。)またサリバンのキスを許したり、サリバンの膝の上に乗ったりと、形式的ではあるかもしれませんが、愛情の存在を感じつつあるようにも見えます。ですからこの期間を「愛情獲得期」と呼ぶことにしましょう。

欲求解放期
◯社会性がまるでない。
◯欲求を抑えることが出来ず知らず、ただ、したいかしたくないかのみで行動している。
◯愛情を受け取る器がない。

愛情獲得期
◯愛情を感じつつある。
◯サリバンがいれば、欲求を抑える事ができる。

 この2つの期間を比較すると、その違いはやはり欲求が抑えられるか否か、相手の精神的な好意を受け止められるか否かにあるのです。

2014年1月18日土曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年10月

 前回の手紙では、ヘレンがアナグノス先生に自分で書いた手紙を送った事が綴られていました。またそこにはいくつかの代名詞が使われていたのです。そして今回もまた、彼女は彼に手紙を送ったのですが、前回よりも多くの代名詞を、しかも正しい形で使っています。

 また彼女は、このところ自身の想像力によって、自分の状況を正しく理解していけるようになってきているようです。というのも、ヘレンは自分と他の子供達がどこか違うことに気がつきはじめています。その証拠に、彼女はサリバンに「私の目は何をするの?」という質問をしたそうです。恐らく、彼女は自分が慎重に歩いたり動いたりしているのに対し、他の子供達が大きな足音を立てて走っている様子や、自分が知り得ない知識(空の色や、人がどれほどいて、何をしているのか等)を知っているところから、どうやら自分が知ることができない情報をなんらかの形で取り入れているのだ、と推察していったのではないでしょうか。

2014年1月15日水曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年10月25日

 ヘレンはなんと自ら、「私」、「貴方」といったような代名詞を使いはじめるようになっていきました。これは彼女が、自分や周りの人々を、ある程度客観視しはじめてきているという傾向を示します。
 「ヘレン」や「サリバン」といった固有名詞は、特定の人物、たったひとりを指す普遍的な言葉ですが、「私」、「僕」といった代名詞は誰が話しているのかでその人物が変わりますし、「貴方」、「彼」などもまた、誰に話しかけているのかで変わってくるものです。ですから代名詞を使うということは、自分と相手、またはその人々の立場関係をある程度把握していなければなりません。
 つまりヘレンも、自分や周りの人々の立ち位置、関係を把握できるようになってきつつある、ということが言えるでしょう。

2014年1月11日土曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年10月3日

 ここではヘレンがボストンの子供達に向けて、話すのと同じように、「自分で手紙を書いて送った」ということが書かれてあります。彼女はまた、どうやら次回のボストンへの訪問を心待ちに思っているようです。

2014年1月6日月曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年9月18日

 最近のヘレンは色について、とても興味を示してきています。彼女は初歩読本から「褐色」という単語を見つけて、その意味を知りたがったり、「考えることはどんな色なの?」といった事をサリバンに尋ねてくるのです。そしてこうした彼女の行動を観察していくうちにサリバンは、どうやらヘレンは生後数十ヶ月という、自身が目も見え耳も聞こえていた僅かな時期の事を覚えているに違いないという推察を立てていきます。(その根拠はどこにも記載されていません。)
 ヘレンの色に対する概念は、(正しいか正しくないかは兎も角として、)私達以上に大きな広がりをもっています。その証拠に、彼女は「考えること」にも色があるのではないかと思い、サリバンに質問を投げかけました。そしてサリバンは彼女の考え方を否定することなく、幸せなときは輝く色をしているし、そうでないときは悲しい色をしているのだと話したのです。