2014年10月30日木曜日

課題提出用ブログ;千代女ー太宰治を読んで

 今回から、O君の書いた評論を私がコメントしていきます。以下はその文章です。

❖O君の評論❖
千代女 太宰治

 18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。その周囲の思惑も自身の感情も時間と共に変わっていきますが、周囲の思惑に振り回されていった和子自身は次第に「自身に文章を書く才能がない」 という客観的に自分を見たときの頭の像と「もしかしたら一つくらいはいいところがあるかもしれないし自分で文を書いてみたい」という感情的で主観的な頭の 中の像の板挟みになり「頭に錆びた鍋でも被っているような、やり切れないもの」を感じて、「自分で自分がわからなく」なっていきました。

  この作品では、<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>が描かれています。

 この作品では和子が綴方や小説などに向ける感情の変化を周囲との関わり合いと共に描いていますが、その変化は作中の時間の経過と共に大きく1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)の三つに時系列順、あるいは環境毎に分ける事ができます。そしてこの時間の流れの中で 一貫している事は『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』、『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』の二点です。

 1.の時点では偶然にも投書が雑誌に載ってしまい、『投書が雑誌に載って選者の先生から高い評価を受けた事実』ばかりが不当に賞賛されてしまい、担任の 先生や学友などの周囲からの視線が変わり、自身に綴方の才能がないことに自覚がある故にそのことが非常な重荷になり、性格も臆病になった上に綴方や小説に 関して嫌悪感を感じるようになっていきます。その後、小学校から女学校に進学し、環境が大きく変化したことで周囲の視線と自身の才能から生まれる苦しさか ら抜け出し、最終的に小説を読むことや綴方をすすめる叔父がとあるきっかけから和子に近づかなくなったことによって、一度は綴方のことをきれいに、忘れ て、日常の仕事や勉強をこなしながら張り合いのある日々を送れる位にまで精神的な健康を取り戻すことができたのです。しかし、その後小学校時代の担任が家 庭教師に来たことをきっかけに和子が文章の才能を活かすことに未練のあった母や生活が苦しくなったその先生の思惑に和子は家族ぐるみで振り回され、結果 「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という感情さえ出てくるようになるのですが、同時に、「文才とやらははじめからなかったのです」と 再び自分に才能がないという自覚を新たにもしてしまうのです。さらに、昔の担任との関わりが切れた後に、18歳の女性が小説で名前を挙げたことを知った叔 父が和子を小説家にしようと意気込んで家を訪ねてくるようになります。しかしながら、現在の彼女が書いた文章を読んだ叔父は書かれた文を半分も読まずに 「才能が無ければ駄目」だと言い出すのです。ここに来て12歳の頃から和子にあった文章の才能がないという自覚が他人から告げられることによって主観と客 観が一致することになります。しかしながら和子の心の中には文章を「書いてみたいとも思う」という感情が既に存在しているために、矛盾している二つの頭の 像、つまり現実的に存在する『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。そして女学校を卒業するという環境の変化も相俟って急に人が変わってしまい、二つの頭の像の争いが大きくなっていくにつれて、自分で自分がわからない 状態として「頭に錆びた鍋でも被っているような」感覚を自覚し、12歳の頃に雑誌に自分の綴方を選んだ先生に助けを求めるまでに精神的に追いつめられたの です。

❖コメント
 私の評論の構成は、あらすじ→一般性→論証となっており、どうやらO君はそれに則って今回書いてくれているようです。ですので、この構成が評論においてどのような役割を果たしているのかを見ていくとともに、彼の作品自体がその役割を適切に果たせているのかを見ていきましょう。

 はじめにあらすじですが、当然ここではその文学作品がどのようなものか、はじめて読む人々に簡潔に説明する必要があります。そして単に説明するだけではなく、次の一般性→論証への足がかりをつくっておかなければなりません。以上の観点から見た時に、果たして今回のそれは条件を満たしているのでしょうか。
 結論から申しますと、どうやらO君は後者の条件ばかりに気を取られて前者の条件が抜け落ちているようです。というのも、文中のはじめにある、「18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに」という一文ですが、これでは作中の主体的な人物が、18歳の女性にあるかのような書き方になっています。ですが、この物語は12歳の少女の頃の出来事が中心にあるのであり、18歳の彼女はそうなっていった過程を綴っているに過ぎないのです。
 また次に、「周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。」と続いていますが、一体周囲とは誰と誰の事なのでしょうか。これは単純にもう少し具体的な事を書けと述べているのではなく、周囲が誰なのかを明確にすることで、作品の雰囲気が明確になることだってあるのです。
 例えば「友達の思惑と自分自身」と書けば、少年少女の他愛もない自慢や好奇心を扱っているのか、と読書は思うでしょうし、「周囲の大人と自分自身」と書けば、自分の力ではどうすることも出来ないが、1つの立派な人格が形成されつつある過程が描かれているのか、と思うことでしょう。
 あらすじとは、物語を整理するためだけにあるのではなく、はじめて読む人にも、その作品の魅力や雰囲気を伝える為に書かなればいけないことを承知しておいて下さい。

 次に一般性ですが、ここではこの作品を「一言で言うと」どのようなことが書かれているのかを明示しなければなりません。O君の出してきた一般性はこうでした。

<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>

 どうやら、あらすじの部分で、「周囲」、「女性」といった部分を不明瞭にしてしまった為に、その「女性」の問題が何処にあるのかが、いまいち分からない印象があります。例えば、成人した女性でも、自分の文章が上手いと思っていたのに、友達から悪文と思われていた事が発覚し書けなくなっていったと言う事は十分あり得るではありませんか。矢張り、あらすじと関連して、どの年代の、どのレベルでの悩みなのか、というところが希薄になっています。

 そして論証ですが、ここでは上記の一般性をもとに、何故その「一言」なのか、というところを論じていきます。O君はこの作品を、

1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。
2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。
3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)

の3つの時系列に分け、一貫している箇所を見つけてそこから問題を明らかにしていこうとしているのです。それが下記に当たります。

◯『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』
◯『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』

 更に彼はこの2点を明記した上で、時系列を追って作品全体の変化を捉え、和子の問題を解こうとしています。
 ところが、O君の論証には致命的な点があるのです。それは、「『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。」とあるように、和子は積極的に文章を書きたいという思いを強くしていったと考えているところにあります。どうやら彼は文中の、「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という一文を見てそう思ったようです。ところがこれは、書けるものなら書いてみたい、という感情の表れとして書かれているのではなく、寧ろ自分に文才がないことを自覚している故に書かれている「皮肉」に過ぎません。しかしどういう形にしろ、和子が途中から自分の意思で文章を書くようになっていったのは事実としてあります。では、それは何をきっかけにしてそうなっていったのでしょうか。ヒントは下記にあります。

柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になる より他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そんなにまで、ひどく言われると、いい気持がしないらしく、そうかねえ、それじゃ和子が可哀想じゃないか、と淋しそうに笑いながら言いました。
 叔父さんの言葉が、あたっていたのかも知れません。私はその翌年に女学校を卒業して、つまり、今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或いはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。

 一体何故彼女は、叔父のこうした酷い言葉を強く否定しながらも、心の何処かでは肯定してしまったのでしょうか。それこそが、彼女が現在、自分の文章とどのような形で向き合っているのかの答えになっているはずです。

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