2014年4月5日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版3)

1・躾期

3月6日
 この日の手紙を書き終える数日前、アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーと運命的な出会いを果たしました。そしてサリバンは彼女に出会ってたった数時間のうちに、その欠点を見抜いてしまいます。と言いますのも、ヘレンは他の子供達に比べて、人間的な精神が未熟で、自分を抑える事を全く知らないのです。ですから、彼女ははじめて出会ったサリバンに挨拶もなしにいきなり突進し、鞄の中に手を突っ込んで中に何が入っているのか調べようとしたのでした。(ここで注意して頂きたいのは、ヘレンは何も自分の好きなものが中に入っていると思って、鞄の中を確認しようとしていたわけではありません。あくまで鞄の中そのものに何が入っているのかについて興味があったのです。だからこそ彼女はサリバンから腕時計を渡された時、そちらに興味の方向をうつしかえていったのです。)
 そしてヘレンがこうなってしまった原因は、幼少期の躾が施されていない為なのです。通常の6歳から7歳の子供達であれば、それまでにこれはしてはいけない、ここまでなら良いといった躾をある程度受けてきている事でしょう。ですが、ヘレンの場合、彼女の両親が彼女の障害に同情するが故に、彼女を躾ようとはしませんでした。ですから、ヘレンは自身の思うようにしか行動せず、抑える事が全く出来ないのです。
 そこでサリバンはこの「躾期」にある彼女を制御し、訓練するために、「ゆっくりやりはじめて彼女の愛情を勝ちとる」ことにしました。

3月月曜の午後
 この日、サリバンはヘレン・ケラーと食事の作法のことで大げんかしました。それ程にヘレンの作法というものはすさまじいもので、欲しいものはなんでも手でつかみ、人の皿のものにまで手を出してきます。当然サリバンはこれを許しませんでした。
 ですが、サリバンが「人間的な食事作法」に拘った理由は、単に汚いからだとか、見苦しいだとか、そういったものではありません。そもそも、私達は誰からどのようにして食事のとき、ナイフやフォークを、お箸や茶碗を持つことを学んだのでしょうか。それは言うまでもなく、自分たちの両親からそのように教育されてきからに他なりません。
 しかしこれがあの「アマラとカマラ」のように、狼に育てられていたとしたら、どうなっていたでしょうか。きっとお箸やフォークを使うことはなく、頭を食べ物につけて貪っていたのでは、という想像を拭い去ることはできません。
 私達は人間たるお父さんやお母さんから、それなりの教育を受けてきたからこそ、人間的な性格や習慣を身につける事が出来たのです。ですからサリバンも、いかにヘレンが抵抗し言うことを聞かなかったとしても、人間の生活や習慣を手にいれてもらうべく、強制しなければなりません。
 結果的にはヘレンはサリバンとの激しい格闘の末に、正しく食事することはどうにか出来ました。同時に、サリバンにとっては、ヘレンの躾の遅れの大きさを身をもって実感する出来事となったのです。

3月11日〜13日
 前回の食事作法の件を経て、サリバンはヘレンと「つたみどりの家」と呼ばれる一軒家に2人で住むことを決めていきました。というのも、前にも書いたとおり彼女の躾の遅れは予想以上に彼女の生活に大きく響いており、またそうなってしまった原因たる両親がそれを許してしまっていることにより、サリバンがいくら躾をしようとしても身につかないのです。
 そこでサリバンはそうした環境から彼女を引き離し、「したいことしかしない」という彼女を土台の部分から、強制的に「征服」させることで叩きなおそうとしたのでした。
 ところで「征服」というと何やら虐待めいたものを彷彿とさせてしまうかもしれませんが、ここまでこのレポートを読んでいただいた読者なら理解してもらえるかと思いますが、勿論、そういうことではありません。サリバンはあくまでヘレンに、「人間的な」生活や習慣を躾ようとしたに過ぎないのですから。
 そしてヘレンの方でもはじめこそ抵抗していましたが、もう自分を庇ってくれる環境がないということもあり、徐々にサリバンの征服を受け入れざるを得なくなっていきました。

2・知性の生成期

3月20日〜4月3日
 「征服」という、ヘレンにとってもサリバンにとっても苦しい期間を乗り越えて、遂に彼女は人間的な表情(はれやかで幸福そうな顔つき)、生活(編み物を楽しんだりサリバンにキスをする)、習慣(ナプキンをつけて食事をする)を手に入れはじめていくことができました。
 ですが、ここでも大きな問題がないわけではありません。ヘレンは言葉という概念の存在をまだ知りません。「人形」や「犬」といった単語そのものは知っているものの、それらがどういう意味を成しているのかについては、まだ知らないのです。
 私達は言葉によってあらゆるものを整理しています。それは、机や椅子といった具体的な概念から、イデオロギーや主義、主張といった高度な概念まで、それに頼っています。もし、言葉なしにそれらを整理しろと言われればどうするでしょうか。想像もつきません。それ程までに私達にとって、言葉というものは、何かを整理したり考えたりする事において欠くことの出来ないツールとなっているのです。
 ですからヘレンの場合も、言葉というものの存在に気づくまでは、あらゆることを整理したり、高度な事を考えることが不可能だと言えるでしょう。これは教育にとって実に大きな問題であることは明白です。
 しかし、サリバンはヘレン・ケラーとのはじめの教育生活の2年間を振り返る中で、こう述べています。

 ある概念が子ども心の中ではっきりできあがっている場合、その概念の名前を教えることは物の名前を教えることと同じようにやさしいことなのです。

 要するに彼女が言葉という概念を理解することも同様で、多くの言葉に触れる中で、自分の中ではっきりさせていく中で気づく事が可能なのです。よって、これからの彼女に必要なことは、多くの言葉を詰め込み、言葉という概念をはっきりさせるということに他なりません。

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