2013年9月29日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版3)

 1887年3月3日。この日、アン・サリバンは熱い期待の中、生涯の生徒となるヘレン・ケラーとはじめて顔を合わせました。そして彼女はヘレンと同じ時を過ごしていくうちに、ある違和感を感じていきます。というのも、ヘレンには普通の7歳前後の子供と比べて、「動き、あるいは魂みたいなもの」が欠けていたのです。つまりサリバンは、彼女の表情が乏しさ、何かぼんやりしたところがあるところをここで指摘しています。そしてこの違和感はすぐさま彼女の問題意識として浮上し、そこから彼女の教育に対する重大な欠陥を見つけていったのでした。

 それは「身体的な障害という物理的な障壁があるために、子供らしい内的な衝動を抑える、発散する術がない」というところにあります。通常7歳前後の子供というものは、自分の足で思いっきり大地を蹴ったり、自転車を力いっぱい漕いだりして、自身の内から湧き出てくる衝動を発散する事ができます。ところがヘレンの場合、盲、聾という障害の為に、それが出来ないどころか、知る事もできません。
 またそればかりか、そうした障害は彼女の「内的な衝動」を間接的にも発散させにくくさせてしまっています。というのも、ヘレンの世界観というものは、障害がある為に外界からの情報が極端に制限されている故、私達よりも非常にぼんやりとした、観念的なもので出来上がってしまっているのです。(彼女の表情が乏しいのはその為です。)ですから、彼女の表現方法も私達のそれとはかけ離れた、極端なものになってしまっています。
 例えば、彼女がサリバンの持ってきた人形に興味を示した際、サリバンは彼女の掌に「doll」と綴り、人形を指して頷きました。ヘレンの表現では、頷くというのは「あげる」ということを意味します。そして彼女はサリバンの真似をして「doll」と綴り人形を指さしました。その後、サリバンは人形を手に取りましたが、彼女曰く、もう一度上手にかけたらあげるつもりでいたのです。ところがどういうわけか、ヘレンは人形を取り上げられると思い、急に怒りだしました。これはヘレンの表現の範囲が非常に狭く、彼女の望む範囲の表現以外は全てノーとして捉えられてしまうという性質からきています。もしこれが私達であれば、自身の理解できない表現を見てとった時、「これは何を意味するのだろう」と多少なりとも考えるのでしょうが、彼女には外界の人々の反応を知るすべがあまりにも少ないので、彼女のなりの、かなり限られた表現の中で他人の行動を受け止めていくしかなのです。

 こうした事情からサリバンはヘレンを教育するにあたって、「彼女の基質(内的な衝動)を損なわずに、どうやって彼女を訓練し、制御するか」という目的論を獲得していきました。そして辿り着いた方法論というものが、「ゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとる」というものでした。これは即ち、ヘレンのこうした極端な表現方法を正しく理解しながらも、人間的な表現や振る舞いといった社会性を教え身につけていってもらう、ということを意味します。そうして社会性を身につけていく中で、サリバンはヘレンが自然と人間的な感情を自身に向けてくれる事を期待しているのでしょう。
 またここで注意しなければいけないのは、この時の教育の「主体」というものは、あくまでヘレンにある、ということです。というもの、サリバンは自身の方法論を述べた後、こう付言しています。

力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 第2文で、あまりにも人間の土台から逸れた行いには力をもって制御するとは言いながらも、サリバンの基本的な指導方針は第1文にもあるように、あくまでもヘレンの側に教育の主体はあります。

 よってここでのサリバンの大まかな方針としては、ヘレンの意思を基本的には尊重しつつ、彼女を理解していきながらも、社会性を身につけていく、というものなのです。

2013年9月24日火曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版2)

 サリバンがヘレン・ケラーとはじめて出会ったのは、3月3日の事でした。驚くべきことに、彼女はこの日のうちにヘレンの教育に対する重大な欠陥を見つけ出し、多くとも数日のうちに大まかな方針を決めていったのです。

 そしてその重大な欠点とは、精神的な部分にあるのでした。というのも、彼女は他人の荷物を勝手に覗く、触れる、触るものはなんでも壊す、その表情は魂みたいなものが抜け出ている、虚ろである等といった、とても7歳前後の少女とは思えない奇行をとるのです。
 こうした事実からサリバンは、彼女が「子供特有の内から湧き出る衝動」によって振り回されていることを指摘しました。通常、彼女のぐらいの年齢の子供達は、世界のあらゆるものごとをその小さい身体で力いっぱい感じ取る事ができます。例えば、広々とした公園や学校のグラウンドを駆けまわったり、ブランコを大空へ飛び込むように大きく漕ぐことによって、世界の大きさを体感しようとします。まるで、彼らの小さな身体に潜む、大きな何かに突き動かされるようにエネルギーを使い果たそうとするのです。ところがヘレンの場合は、そうした衝動が他の子供達と同様にあるにも拘わらず、それをうまく発散することができません。またそれを知る術もないのです。ですから「彼女の休息を知らない魂は暗黒の中を手探りする」しかありません。それがどのようなものか、なんの為に使うのかを知る事もできないままに……。ですから、彼女は空虚な表情で、あらゆるものを手で触り、壊すことしかできないのです。

 そこでサリバンは、ヘレンの「内的な衝動を失うことなく、効率よく発散させていく」(※)という目的論を立てて、問題の解決に取り掛かっていったのでした。そしてその解決方法が下記にあたります。

 私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 彼女は上記での目的論に対して、「ゆっくりやりはじめて愛情をかちとる」という方法論にたどり着きました。そしてその方法論の前提として、ヘレンの従順さ、服従する事が要求されています。
 ここで注意しなければならないのは、この「服従」という言葉に含まれれる「認識」というものは、普段私達がイメージしているそれとは異なった内実になっている、ということです。ここ述べられている「服従」とは、虐待している親たちのような、全面的な降伏を意味するのではありません。あくまでも、人間の社会的なルールに逸れた場合、それを強制するといった意味で使われています。ですから彼女の「服従」とは、暴力や支配が目的になっているのではなく、最低限の社会性をヘレンに持ってもらうことが目的になっているのです。
 そうして培っていった社会性は、彼女の人間的な感情の土台にもなっていきます。何故なら、私達の感情というものは、社会を生きていきた中で育まれてきた、経験的なものなのですから。例えば、ある時点までは、「子供を大切だと思っている親が、自分を叱る」という事ができなかったとしても、何度も親に叱られ続けたり、自分がその当時の親の立場を経験していく中で、「大切であるからこそ、かえって叱らなければならなかったのだ」ということに気づいていくはずです。そしてこのヘレンも、はじめはサリバンが叱ったり、征服する理由がわからずとも、正しく社会性を身につけていく中で、自身への愛情が裏に潜んでいた事が理解していく事でしょう。

 しかしここで気をつけて頂きたいのは、ここではヘレンを征服することよりも愛情をかちとることが積極面として表れている、ということです。
 この日以降の手記を見ていただければ理解して頂けると思うのですが、ここでのヘレン・ケラーを取り巻く環境というのは、サリバンとヘレンの兄のジェイムズ以外、彼女に逆らうものが何もありません。よって、彼女の身の回りには、彼女の現在のあり方を変えようとする環境と現在のあり方を受け入れようとする環境とが存在していることになります。そしてこの2つの環境のうち、果たして彼女はどちらを選ぶでしょうか。この続きは、3月11日の手記にて論じさせていただきたいと思います。

脚注
※本文中では、「彼女の基質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、制御するかがこれから解決すべき最大の課題です」とある。

2013年9月14日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月13日(修正版)

 前回の手記では、ヘレン・ケラーの社会性があまりにも未発達な為、彼女の内的な衝動を抑えてく事が困難である。だからこそ征服していくことで強制的に人間的な土台を形成していく必要がある、という事が書かれてありました。
 そして今回のそれでは、どうやらこの試みはうまくいっているようです。彼女は「つたみどりの家」に出入りしている人々の仕草や身振りを、徐々に真似をしていっていることがそこには書かれてあったのでした。

2013年9月7日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日(修正版)

  前回までの手記では、これまでサリバンが持っていた〈ゆっくりと教育していく中で愛情を勝ち取る〉という方法論にどうやら問題があるため、ヘレンの教育は滞っている、という事が書かれていました。そして今回彼女は、ある大きな決断を下す事になるのです。
 なんと彼女はヘレンを親元から離し、2人だけで「つたみどりの家」という場所で暮らすことにしました。そしてこの決断はサリバンの内面を考えても大きな 決断であったと言っても過言ではありません。と言いますのも、これまで持っていた方法論を完全になげうって、ヘレンを〈服従させる〉為に「つたみどりの 家」にうつったのですから。彼女曰く、そうする事こそが知識と人間的な精神を勝ち取る為の大きな一歩だというのです。

 しかし多くの読者からしますと、ある疑問が浮上してくるのではないでしょうか。それは、何故ヘレンを〈服従させる〉事がそれらに繋がっていくのか、ということです。
 ここでひとつ訂正させていただきたいのですが、以前の考察(1887年3月6日の記事)において、私はヘレンが服従を覚える事がサリバンへの愛情(人間的な感情)が芽生える直接的な原因になる、というような書き方をしていたかとは思いますが、それは間違いでした。ではこの問題を解くにあたって、はじめに私たちはどのようにして愛情を、人間的な精神を培っていったのかということを考えなければなりません。
 結論から申しますと、私たちはそれらを社会に関わっていく中で培っています。例えば小学生にも満たない年齢の子供達は、自分の知らない他人が近づいてくるとよくお母さんやお父さんの後ろに隠れてしまいますが、あれははじめて対峙する人物にどのようにして関わればよいのかわからないからこその反応でしょう。またちらちらと親の態度を伺いながら、少しずつ関わっていこうという態度を見せる場合もあります。これは、子供達は親とその他人の関係を自分達なりに見極める事によって、他人との関わり方を学んでいっているのです。
 事実、私は両親の振る舞いを見ていた為に、幼少の頃、祖父の事が嫌いでした。両親は本人の前では口をつぐんではいたものの、家の中では祖父への愚痴を常々こぼしていました。そして私の方でも、はじめの頃は祖父の事を好いていましたが、徐々に両親と祖父との社会的な関係が見えはじめるにつれて、一緒に遊ぶことをなんとなく断ってみたり、突然避けたりしていたように思います。その中でいつしか私の心の中では、祖父という人物は私の両親を困らせる悪者であるという像が深まっていき、両親と同じく祖父を避け、或いは両親以上に直接的に祖父を嫌っている態度を示していったのです。(もっとも、今思えば少々可哀想な態度をとってしまったとは思いますが。)
 ここで注意して頂きたいのが、私の両親の祖父に対する表現というものが、私個人に対する認識に非常に大きく影響していている、ということです。どうやら子供というものは両親をはじめとする周りの人々の振る舞いや態度を見て、それらをはじめは表現をそのまま受けとり、次にその内実(認識)を埋めていっているのです。

 そして、サリバンも恐らくは子供のこうした性質を知っていた上で、はじめはヘレンもこうした子供らしい敏感さによって、彼女が自分にどのように働きかけているのかを少しずつ理解していってくれると考えていたのでしょう。ですが、ヘレンがあまりにも社会とかけ離れ、長い間、家族に守られた自分だけの世界に篭っていた為に、そうした能力すらも欠如していたのです。ですからサリバンとしては、一度そうした環境から離し、服従させる事で、強制的に自身の表現を模倣させる必要があったのでした。果たして彼女のこの試みはうまくいくのでしょうか。