2010年11月28日日曜日

寡婦―モオパッサン

 ある時バヌヴィルの館に狩猟にやってきた人々は、その晩食事を終え、暇を持て余していました。そんな折、ふと人々の目にある未婚の老嬢の頭毛でつくられた指輪がうつります。人々はその指輪をはめている老嬢の様子から、この指輪と彼女には何か因縁めいたものを感じ、話を聞きたがります。そうして人々に促された老嬢はしぶしぶ、ある悲しい過去を語り始めるのです。
 この作品では、〈他人の道理を押し付けられた、ある悲しい老嬢の姿〉が描かれています。
 それは老嬢が17の少女だった頃に起こります。ある時、少女の家に一家の主を失くしたその妻と、13歳の息子を預かることになります。やがて、その少年は17のその少女に情熱的な恋心を抱くようになっていくのです。ですが、少女にとって、その少年の恋心は単なる遊び道具でしかなく、いつも彼の心を弄んでいました。
 ところがそれから一年経ったある晩、少年は少女に向かってこう言いました。「僕はあなたを愛しています。恋しています。あなたを死ぬほど恋しています。もし僕をだましでもしたら、いいですか、僕を棄ててほかの男とそういうことになるようなことでもあったら、僕はお父さんのようなことをやりますよ――」彼の父のように、というのはそもそも彼ら一族にとって、恋愛というものが人生の全てであり、それによる死や復讐は一族の間では認められていたのです。それは少年の父も例外ではなく、オペラ座の歌姫にだまされたあげく、巴里の客舎で自殺していました。そして、この少年もそんな一族の血に則り、彼女に捨てられるようなことがあれば命を絶つといっているのです。この台詞を聞いた少女は一切を悟り、「あなたはもう冗談を云うには大きすぎるし、そうかと云って真面目な恋をするには、まだ年がわか過ぎてよ。あたし、待っているわ」とやんわりと彼の愛情を拒んだのです。しかし、この言葉を真に受けた彼はやがて少女が他の男と婚約したことを知ると、やはり父親と同じ最後を遂げてしまうのです。そうして、残された彼女はその責任を負うため、彼の寡婦として未婚を今日まで貫いてきたのです。
 しかし、果たして本当に彼が死んだ原因は彼女にあったのでしょうか。結論から述べると、それは否です。何故なら、彼女にはそもそも彼のルールに従う義理も義務もないのですから。確かに少女は少年の心を弄びましたし、嘘もついたかもしれません。ですが、一切は彼の中で取り決められたのであり(事実、作中彼女がそれに同意した素振りは一切ありません)、彼女はその引き金を引いたに過ぎません。彼が死んだ原因は、彼自身にあったのです。ですが、そうは言っても、彼女が自身に責任を見出すのも無理もありません。何故なら少年は、「あなたは僕をお棄てになりましたね。僕がいつぞや申し上げたことは、覚えておいででしょう。あなたは僕に死ねとお命じになったのです。」となんと自分のルールを他人にまで押し付け、あたかも彼女が自分を殺したのだと言って死んでいるのですから。

佳日―太宰治

 著者の友人である大隈忠太郎は東京での暮らしになじめず、渡支を決心します。そして彼が渡支して5年後、著者は大学の同期の友人、山田勇吉から大隈の結婚話を耳にします。ですが、山田はひょんなことから体を壊してしまい、著者が結婚のもろもろをまとめることとなるのです。一方、著者が結婚の段取りに右往左往する中、大隈は自身の細君となる人物を迎えにはるばる北京から帰ってきました。そうして向かえた結婚式の当日ですが、この日、大隈は花嫁の姉からある信じられない一言を言い放たれることとなるのです。彼女は何故そのようなことを言ったのでしょうか。
 この作品では、〈戦場に出ている夫の居場所を必死で守ろうとする一人の細君の姿〉が描かれています。
 事のはじまりは大隈が自身のモーニングを持っていないことからはじまります。著者はそんな彼のために著者は早速モーニングを貸してくれる人物を探し始めます。そして婚約相手の父親である小坂氏に頼んだところ、快く貸してくれることとなりました。そして氏は早速次女に旦那のモーニングを貸すよう命じます。ところがなんと次女はその命を拒んでいるではありませんか。その次女の言い分はこうです。

「そりゃ当り前よ。お父さんには、わからない。お帰りの日までは、どんなに親しい人にだって手をふれさせずに、なんでも、そっくりそのままにして置かなければ。」

 この言葉を聞いて、著者と大隈は深く感動していました。彼らはその言葉から、彼女の不在の夫の居場所を必死で守るその姿勢を見たのです。夫は現在不在であるが、確かにここの家の者である。だから、夫の私物を勝手に他人に着せることがあってはならない。そう言った姿勢が彼女の言葉には含まれていたのです。だからこそ、作品の終盤で彼らは次女のことを「下の姉さんも、偉いね。上の姉さんより、もっと偉いかも知れない。」と評しているのです。

2010年11月27日土曜日

駆け込み訴え―太宰治

 この作品では、新約聖書に登場するイスカリオテのユダがキリストを裏切る際のエピソードを誇張し綴っています。もともと彼は裏切る直前までキリストをこよなく愛していました。しかし、キリストの度重なる言動、行動が彼を失望させ、悲しみ、やがて裏切ることとなるのです。一体ユダはキリストの何処を愛し、何に憎しみを抱いていたのでしょうか。
 この作品では、〈自分を押し付けるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 この作品に登場するユダはキリストに対して、「私はあの人を、美しい人だと思っている。」とある種の像を持っています。この像と現実のキリストがユダの中で一致している時は、彼はキリストを愛することが出来ました。
ですが、キリストが一旦この像と著しくかけ離れた行動を取ると、ユダはキリストを恥辱である、体たらく、憐憫であると非難するのです。例えばキリストの全身に香油をかけ、そしてその香油で彼の足を洗っていたマリヤをユダが叱っていたところ、キリストが「この女を叱ってはいけない。」とそれを制する場面。この時、ユダはキリストの少し赤らめた頬を見て、「あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。取りかえしの出来ぬ大醜聞。」と、あたかもキリストが彼女を愛するはずがないと言わんばかりにその愛情の兆しを強く否定し、非難しているのです。
このようにユダはキリストを自身の像を基に彼への愛情を図っていたことから、キリストの像を愛していたということが言えるのです。またこの像というものは、彼の中で育まれていたことから正確には彼自身を愛していたと言っても過言ではないでしょう。だからこそ、最後の晩餐のシーンでユダの像を著しくかけ離れ、彼を強く非難しているキリストに対し、ユダは彼に裏切られた心持になり、自身を「復讐の鬼」と表現しているのです。

2010年11月26日金曜日

罪人―アルチバシェッフ

罪人―アルチバシェッフ




○あらすじ
トンミイ・フレンチはある時、死刑の立会人として罪人の最後を見届けることになっていました。彼はそのことに関して「なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎と して動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持」になる一方、恐ろしさも感じていました。そんな対立する複雑な気持ちの儘、彼は自身の家を出て、死刑の場へと向かうのです。

○ キーセンテンス
気の狂うような驚怖と、あらあらしい好奇心とに促されて、フレンチは目を大きく開いた。

どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一番恐ろしかった事を忘れたのを、思い出さなくてはならないような心持がする。
 どうも自分はある物を遺却している。それがある極まった事件なので、それが分かれば、万事が分かるのである。それが分かれば、すべて閲し来った事の意義 が分かる。自己が分かる。フレンチという自己が分かる。不断のように、我身の周囲に行われている、忙わしい、騒がしい、一切の生活が分かる。

鍪が、 あのまだ物を見ている、大きく開けた目の上に被さる刹那に、このまだ生きていて、もうすぐに死のうとしている人の目が、外の人にほとんど知れない感情を表 現していたのである。それは最後に、無意識に、救を求める訴であった。フレンチがあれをさえ思い出せば、万事解決することが出来ると思ったのは、この表情 を自分がはっきり解したのに、やはり一同と一しょに、じっと動かずにいて、慾張った好奇心に駆られて、この人殺しの一々の出来事を記憶に留めたという事実 であって、それが思い出されないのであった。

○ 仮説
一、この作品では人間のある複雑な心情が描かれているが、そこがこの作品の一番の特徴ではないのか。
一、しかし、それでは作品の表面上をなぞらえたに過ぎない。ここで重要なのは、彼が死について恐怖を感じながらも好奇心を持ったところに作品の論理性があるのではないか。

2010年11月23日火曜日

緒方氏を殺した者―太宰治

 この作品では、緒方氏何故死んだのかについて著者が考察している様が描かれています。著者は、そもそも彼が死んだのは彼の作家精神にあると考えています。では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのでしょうか。
 作家とは人間の複雑な心情、なんとも言えない不条理な事柄に芸術性を見出し、文章として表現します。それは時に、「不幸が、そんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨て ることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがな かったか。愚かさを愛したことがなかったか。」と作家の目には甘美に映ることもあります。すると、察するにこの緒方氏という人物は作家が不幸や病気に憧れを感じるように、死に対して甘い憧れを感じ死んでいったのです。

2010年11月22日月曜日

憑きもの―豊島与志雄

「私」には止められないもの、というよりも彼に憑いているものが2つあります。1つは酒、そしてもうひとつは恋人の秋子だと言うのです。特に秋子の眸は彼を捉えて離さず、じっと彼を見つめ、また彼女の眸を見ると酒を飲みたくなってしまうのです。そこで彼は彼女の眸の正体を暴くべく、お酒と「別居」すべく、2人で浅間山麓へと向かったのでした。
 この作品では、「身近にあるとはどういうことか」ということが描かれています。
 浅間山麓へ向かった2人は、「私」のふとした提案から、浅間山に登ることになりました。そして火口の淵まで辿り着くと、彼はある衝動を感じはじめます。それは「彼女を突き落すか、彼女と一緒に転げこむか」という殺人衝動を感じていたのです。ですが、彼は彼女を殺せる決定的な瞬間に、むしろ彼女を助けてしまいます。そして「私」は秋子を失いかけた時、それをなんと後悔しだすのです。その時の心情を彼はこう述べています。「淋しくて惨めだった。何もかも頼 りなかった。後からついて来た秋子を招き寄せて、私はその膝に顔を伏せた。何もかも頼りないのだ。憑いてくれ、しっかりと憑いてくれ、そうでないと、俺は 淋しいんだ。しっかり憑いていてくれ。」と。彼は彼女がいなくなることを考えると、突然淋しさを感じ出したのです。これは、彼が普段彼女と共にいたために、彼女と共にいる利点と言うものを忘れてしまっていたために起こった現象なのです。例えば私たちが普段使っている携帯電話ですが、普段その着信を煩わしく思っている人がある日それを失くしてしまった時、どう感じるでしょうか。常に誰かと連絡が取れる状況から一変して、取れなくなってしまうことに不安を覚えずにはいられないでしょう。私たちは日常使っているものに対して、不満や怒りを感じがちですが、それと同時に実はそれが本来持っている利点や恩恵というものも忘れてしまいがちなのです。話を作品に戻すと、この「私」もそれと同様に、秋子が自分の周りにいることで解消されていた寂しさがあるにも係らず、それを忘れ欠点だけが目立ってしまい、彼女を自分から離そうとしたのです。それに気づいた彼は、彼女を自分から離すことは不可能だと考え、共に生きる道を選んだのです。

炎天汗話―太宰治

 この作品では、著者が自身の好きな劇団を見に行った話を綴っています。その劇団とは著者が学生のときに一度だけ見たもので、今回改めて彼は十年ぶりにその劇場を訪れました。劇を拝見する際、彼は劇団員たちが「その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して」いました。ですが、現実の彼らというものは全く十年前と芸が変わっていませんでした。しかし、著者はここでもう一度、芸が〈変わらない〉ということを思い返してみるのです。実は芸が変わらないということは相当の努力の証であり、この努力がなければ、芸は落ちる一方であると彼は考えたのです。進歩だけではなく、維持もまた芸を磨き高みを目指している何よりの証拠となっているのです。

2010年11月19日金曜日

姥捨―太宰治

 あやまった人を愛撫した妻、かず枝と妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫、嘉七。お互い自身の罪のため、身の結末を死ぬことに依ってつけようと思い自殺旅行に出かけます。その旅行の中で夫婦の絆を深めていく嘉七とかず枝でしたが、それでも死の覚悟を一切緩めません。夫は彼女は死ぬべき人間ではなく、死ななければいけないのは自分自身であるだと考えており、一方の妻も、夫にかまをかけられても「あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから。」と彼の提案を跳ね返します。彼らはこのまま死んでしまうのでしょうか。そうして夫は自身の苦しみから逃れることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈人から愛されるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、夫は人生に関してある種の苦しみ、辛さを感じ死ぬことを決意しています。その決意を述べる際、彼は「私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひ とのちからを過信した。」とも言っています。つまり彼は誰かに支えられる、頼ることでその苦しみから耐え、凌いでいたのです。
 ですが彼らは自殺に失敗し、眠っている妻を夫が「しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。」と彼女の体を運んでいる時、「この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。」と、彼女も自分自身に頼っていることに気づいたのです。
 私たちは多くの場合、自身が苦しいときや辛い時、恋人に話を聞いてもらい自分の苦しみや辛さを分かってもらおうと考えてしまいます。そしてその願望は大抵の場合かなえられます。困った時も恋人に相談する方も少なくないはずです。このように、愛することと頼ることは何か結びつきがあることは明白なのです。
 話を作品に戻すと、この夫と言うのはこれまで、自身の苦しみに耐えられず、妻に頼って生きてきました。ですが、その頼った分が妻に頼られることで返ってきては本末転倒です。だからこそ彼は自身を守るため、妻を捨てなければならなかったのです。

2010年11月17日水曜日

気の毒な奥様―岡本かの子

 或る大きな都会の娯楽街に屹立している映画殿堂で満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されている夜のこと、そこに鬢はほつれ、眼は血走り、全身はわなわな顫えている一人の女が飛び込んできました。女はそこにいた少女たちにこう告げました。
「私の夫が恋人と一緒に此処へ来ているのを知りました。家では子供が急病で苦しんでいます。その子供を、かかり付けのお医者様に頼んで置いて、私は夫をつれに飛んで来ました。どうか早く夫を呼び出して下さい」
 それを聞いた少女たちは彼女の夫を探すべく、彼女とその夫の名前を尋ねました。しかし女は自身の名誉のため、名前を告げることをためらっている様子。そこにある「才はじけた少女」が全てを心得、「筆を持って立札の上に、女の言葉をその儘そっくり書きしるして、舞台わきに持って行って立」ちました。ですが、この後、少女が予想もしなかった意外なことが起こってしまうのです。
 この作品の面白さは、〈現実と少女たちのある認識のギャップ〉にあるのです。
 「才はじけた少女」は恐らくこう考えたはずです。子供と奥さんがいながら浮気をする紳士もそう多くはない。こう書いておけば夫は特定できるはずだ、と。ところが、現実には浮気はしている紳士は彼女とその他少女たちの予想に反して多く、この紳士たちの姿を見て世の中の奥様を哀れんでいるのです。
 さて、こう言った現実と私たちの認識との間にあるギャップというものは、私たちに驚愕と関心をもたらしてくれます。現に今日の多くのテレビ番組では、私たちの認識の塊である常識というものにまず着眼し、現実とどうずれているのかを暴くという構造が主流であり、多くの視聴者はそこに関心を寄せています。この作品もまた、私たちが少女たちの立場に立つことによって世の紳士の実態の一部を知り、そこに興味を持つことになるのです。

2010年11月14日日曜日

ざしき童子―宮沢賢治

 この作品では、著者の地方のざしき童子の伝承がいくつか紹介されています。このエピソードはどれも当時の日常が舞台になっており、ひょんな事柄を何かとざしき童子と結び付けています。一体何故人々はそんなひょんな事柄をざしき童子という、存在も疑わしい人物のせいにしなければならなかったのでしょうか。
 まず、この作品の伝承を考察するにあたって、〈何故伝承はここまで伝えられてきたのか〉というところに着眼しなければいけません。伝承が伝承として成立するまでの過程には、大きく分けて2つのパターンが存在します。ひとつはある現象が人間の人知を超えている場合。もうひとつは伝承の条件にぴったりと当てはまる場合です。
はじめに前者ですが、人というものは未知というものに恐れを抱きます。何かそこには嘘でもいいから、原因が欲しいものです。そこで人々は太古から人知を超えた現象、病は悪魔のせい、嵐や台風は神のせいと、それらを自分たちの空想の産物のせいにしてきました。このざしき童子の話だって例外ではありません。どこから聞こえているか分からない箒の音や、十人いるはずの子供が一人増えた事など、自分たちの力では解決できないことをそれにせいにしているのですから。
次に後者ですが、これはやはり前者の現象において彼らの名前が登場する中で、その条件というものは決まってくるのです。ですからその条件にぴったりとはまった時、人々は脳裏に彼らの存在を連想します。例えばあなたの部屋が自身の子供によって、荒らされたとしましょう。すると真っ先あなたは家の者を疑い、子供が荒らしたという結論に至るまでに時間はかからないでしょう。しかし、今度は泥棒があなたの部屋を泥棒が荒らしたとしましょう。するとあなたはどう考えるでしょうか。ちゃんと観察をしなければ、状況だけで子供が犯人であるとついつい決め付けてしまう危険性はないと言い切れるでしょうか。やや話のベクトルは違いますが、論理の話では構造は同じはずです。つまり、嘘でも誠でも、ある仮説が真実として認定されたとき、同じ状況が整っていれば、私たちはそれを前の仮説に当てはめて考えてしまうくせがあるのです。ざしき童子の話もやはり、日本の歴史の中でその存在が認められてきたからこそ、その条件がそろっていれば人はすぐにざしき童子のせいにしてしまうのです。

ぐうたら戦記―坂口安吾

 少なくとも太平洋戦争が終結する数年間、この著者の生活はじつにぐうたらなものでした。というのも、その生活というものは原稿がなかなか書けず、ただただ酒を飲みつくすだけの毎日だったのです。ところでそんなぐうたらな彼は、自身の芸術観とこの戦争にある類似性を見出している様子。それは一体どういうところにそれを見ているのでしょうか。
 この作品では、〈著者の芸術家としての葛藤〉が描かれています。
 そもそも彼の芸術観というのは、「芸術の世界は自ら の内部に於て常に戦ひ、そして、戦ふ以上に、むしろ殉ずる世界」と、非常に戦争と似通ったところがあります。つまり彼は内面では芸術家としての苦悩を抱き、悶々と戦っているのです。ですが、なかなか自身が到達したいところになかなか到達できず、鷹に食われ、糞として落とされ、生まれ変わりまた同じところを目指しているのです。この悪循環のため、彼は、表面上はぐうたらするしかなく、自身の内面と現実の現象のギャップに苦悩しているのです。

2010年11月11日木曜日

鬱屈禍―太宰治

 ある時、著者の小説がいつも失敗ばかりで伸びきっていないことを見かねて、ある新聞社の編集者が「文学の敵、と言ったら大袈裟だが、最近の文学に就いて、それを毒すると思われるもの、まあ、そういったようなもの」を書いてみなさいと言ってきました。気を利かせてくれた編集者のためにもと、彼は意気込んでこれに取り組みます。さて、著者にとって「文学の敵」とはいったい何なのでしょうか。
 この作品では、言うまでもなく〈敵とはなにか〉について述べられています。
 まず、著者はジイトの「芸術は常に一の拘束の結果であります。」という一説を軸に「文学の敵」というものを論じ始めています。このジイトの一説では、文学は常に何かに拘束され、つまり何かが足りなかったため、その中で工夫することによって発展を遂げてきたというのです。ですが、だからと言って、著者はこの拘束に感謝しなさいと言っているわけではありません。むしろこれに大いに苦悩し、嫌ってしかるべきなのです。では敵とは何なのでしょうか。「ああ、それはラジオじゃ無い! 原稿料じゃ無い。批評家じゃ無い。古老の曰く、「心中の敵、最も恐るべし。」」と著者は力強く述べています。一番の敵はまさに、あれのせいで、これのせいでと出来ない理由を他から見つけてくる自分の心にあったのです。

2010年11月10日水曜日

或る忠告―太宰治

 これは、ある詩人が著者に対して、一言物申しているところがその儘作品となっています。彼は一体著者のどのような姿勢が気に入らず、一言物申しているのでしょうか。
 この作品では、〈著者と作品との関係〉が描かれています。
 残念ながら、この作品で詩人が何故著者に物申しているのか、その理由までは深く言及されていません。ただ彼は著者の作品を読み著者の生活態度、心持を見抜き、家に訪れその怒りをぶつける事になったことは事実です。確かに詩人の言うとおり、作品にその人の人柄、心持というものはよく表れています。例えば、ごく小さいレベルのもので言えば、作家の気が抜けている場合、面倒くさくて見直しという作業を怠った結果、誤字脱字につながっていきます。
作品というものは当然著者のものの見方、考え方が大きく反映しますから、読者は作品を読んで彼らの心持を読み取り、目には見えない作家という像を自分の中でつくり上げているのです。

2010年11月7日日曜日

愛と美について―太宰治

 この作品は、著者の兄弟のある一日のやり取りを切り抜いたような作品になっています。彼らはある曇天の日曜日。それぞれ退屈していた兄弟達は、家のならわしに従って皆で物語の連想をはじめます。
 この作品では、言うまでもなく〈日常の仲睦まじい兄弟の姿〉描かれています。彼らは、それぞれの性格があらわれた語りで、物語を展開していくのですが、それぞれに不味い部分があったとしてもそれを互いに尊重し、ときには互いにそれを生かそうともしています。その姿は、読者である私達には微笑ましく見えることでしょう。だからこそ、物語の最後に登場する母の姿に私たちは共感し、共に笑う事ができるのです。

2010年11月6日土曜日

足―豊島与志雄(未完)

○ 著者にとって二階から垂れ下がっている足とはどのようなものであったか
無作法なもの
お化け(冗談交じり)
睡眠を妨げる対象

○ 男の足の事情を知った著者はその後、どう感じたか
そこまで考えてくると、私は何だか馬鹿にされたような、また妙に憂欝にとざされたような、訳の分らない気持に沈んでいった。

○ 本質を掴む道しるべ
著者は何故、男のことを考えて「馬鹿にされたような、また妙に憂欝にとざされたような、訳の分らない気持」になったのか。

2010年11月4日木曜日

朝―太宰治

 何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。

2010年11月2日火曜日

赤とんぼ―新美南吉

 赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根の竹の上に、チョイととまり、昨年の夏の「可愛いおじょうちゃん」との思い出を思い出しています。
 はじめて彼女と会った時も、赤とんぼはその竹にとまっていました。そして「可愛いおじょうちゃん」を見つけると、その赤いリボンの帽子にとまってみたくなりました。ですが、おじょうちゃんが怒ることを恐れて、赤とんぼ少し悩みました。やがて赤とんぼは意を決しその帽子にとまってみました。果たして、その時の彼女の反応とは。
 この作品の良さは、〈決して言葉を交わすことの出来ない2人がこころを通わせる〉というところにあるのです。
 赤とんぼは少女の言葉が理解できても、自分の言葉を発する事が出来ません。一方少女も自分の言葉は発することは出来ても、赤とんぼの言葉を理解は出来ません。こうして見ると、二人の間にはかなりの隔たりがあるように感じます。ですが少女は子供ながらの感性なのか、赤とんぼが考えている事を正確に理解し、心を通わせることが出来たのです。ここに物語のラストを感動させる要素があるのです。
私達は当然互いの言葉も理解できますし、自分の気持だって伝える事ができます。しかし、それでも相手に上手く気持を理解してあげられなかったり、逆に理解してもらえなかったりと人間関係で四苦八苦しています。だからこそ、ここまで心を通じ合わすことが出来る二人の別れのシーンは、私たちに深い感動を与えているのです。

きりぎりす―太宰治

 「あなた」のところに嫁いで5年目、「私」はあるすれ違いから彼のもとを離れる決心をします。
 元々「私」の愛した「あなた」というのは、「貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せ られて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行く」正直で清潔感のある人物でした。ですが、「あなた」は自身の画家としての出世を機に大きく変わってしまいました。果たしてどう変わってしまったのでしょうか。その変化を「私」はどう感じていたのでしょうか。
 この作品では、〈ある社会的な成功と正しさとの違和感〉について描かれています。
 画家と社会的な成功をおさめた「あなた」は一言で言えば、俗物という言葉がその儘当てはまる人物になってしまいました。あれ程展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていた彼が、自身のアパートの狭さを恥じ、他人の体裁を気にするようになっていったのです。そして表では他人に媚びているにも拘わらず、裏ではその人に対して愚痴を言うようになっていきました。「私」は「あなた」のそこに嫌悪を感じているのです。
 ですが、彼が俗っぽくなっていくにつれて、社会的な成功も築いていきます。「私」はそこに、自身の人生観に疑問を感じられない様子。私達は生まれてから今日まで、多くの経験、体験を積んで自分の人生観、倫理観、道徳観を築いていきました。私達はこの体験や経験に基づいて行動しているのです。「私」はそういった生き方にこそ、人としての正しさがあるのではないかと考えています。それに対して「あなた」は今まで自分の築いた人生観を全て投げ捨て、俗物となり成功しているのです。しかし、彼のそんな生き方に不潔さを感じている彼女にとって、それを受け入れられるはずもなく、「この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」とむしろ自分だけは正しく生きようと決心を強く固めるのでした。