2015年2月26日木曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)

 ある時、山男は獲物である山鳥を捕らえたことに気を良くして、それを振り回しながら森を出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝に獲物を投げ出して、寝っ転がります。すると彼は自分でも気づかぬうちに夢の中へと旅立ってしまいました。
 夢の中で彼は木樵に化けて、町へと下りていたのです。そしてそこで山男は「陳」という、薬売りと出会います。彼は陳を警戒して、「薬はよろしい。」というのですが、その声があまりにも大きかった為に、周りからの注目を集めてしまいました。それに気づいた山男は、慌てて「六神丸」と呼ばれる奇妙な薬を呑むことになったのです。
 すると薬を呑んだ彼は、みるみる身体が小さくなり、陳の薬箱に閉じ込められてしまいます。「しまった」と思うも後の祭り。山男はどうにかして、その理解し難い状況を飲み込もうとします。その時、なんと薬箱の中の何者かが山男に、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてくるではありませんか。彼は「おれは魚屋の前から来た。」と腹に力を入れていいました。
 しかしその声があまりにも大きかった為に、陳に怒鳴られてしまいます。しかしこれに気を悪くした山男は、もう一度大きな声で怒鳴り返しました。すると陳は、彼が叫ぶと町の者に彼の正体がばれてしまい、生活ができなくなってしまうと嘆き始めます。これに同情した山男は、陳にもう叫ばないことを約束します。
 そうしてその場が落ち着くと、山男は再び、自分に声をかけた人物を探し始めます。それは矢張り、山男と同じように、陳に騙されて六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人曰く、山男は六神丸を呑んでまだ時間が経っていないので、薬箱の中にある黒い丸薬を呑めば元の姿に戻るというのです。そして自分たちも、水に浸かった後に丸薬を呑めばもとに戻るといいます。
 そこで山男は、タイミングを見計らい、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。ところが、黒い丸薬を呑んでもとの姿に戻ったはいいものの、陳も丸薬を呑んで大きくなり、山男を捕らえようとします。
 やがて山男が捕まり、「助けて」と叫んでいるところで夢から覚めます。現実に戻ってきた彼は、投げ出された山鳥や陳や六神丸の事を考えるものの、ただ
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 と言うばかりだったのです。

 この作品では、〈獲物の気持ちを理解したにも拘らず、捕食者としての生活を優先せざるを得なかった、山男の姿〉が描かれています。

 上記の「一般性」を考えるにあたり、もう一度物語を、山男の「獲物」に対する捉え方の変化を見ていきながら整理してみましょう。

 夢の中で陳に捕まるまでは、山男にとって「獲物」はただの食べ物に過ぎません。また枯れ芝に山鳥を投げ出す描写から察するに、彼は山鳥に自分と同じ精神が宿っている、という事すら認めてはいなかったでしょう。
 ところが陳に捕まり閉じ込められてしまったことによって、彼の内面に変化が生じます。それまで捕食者であった山男は、陳に捕まったことで獲物となり、どうにかその信じ得ない状況を理性的に理解しようとします。ですがなかなかそれを受け止められない彼は、陳に怒鳴られると怒りのあまり、怒鳴り返してしまう始末。そして陳もこうした山男の態度に困り果ててしまい、つい泣き言を漏らしてしまいます。
 ここでも再び山男の内面に変化が生じます。それまで獲物として捕まってしまった事に腹を立てていた彼が、なんと陳に同情しはじめたのです。恐らく、嘗ては陳と同じく捕食者の身であった山男は、捕食者の立場から陳を理解したのでしょう。そして捕食者の立場から獲物の役割を理解し、静かにすることを約束したのです。
 ですが、いざ黒い丸薬を呑んで元の姿に戻れることを知った山男は、一体どうしたでしょうか。迷うことなく黒い丸薬を呑んで、陳のもとから逃げようとしました。幾ら陳の気持ちが理解し、獲物の立場を分かろうとも、矢張り食べられたくないものは食べられたくありません。そしてその挙句、陳に捕まり生命の危機を極限のところで感じた刹那、夢から醒めてしまいます。
 こうして山男は、生きたくても生きられず、ただ大人しくしておくか、最後まで藻掻くかしか出来ない獲物の気持ちを知っていったのです。
 ところがここで大きな問題が残ります。それは獲物の気持ちを垣間見た儘に、現実の捕食者としての立場に戻ってきたことに他なりません。捕食者として生き抜く上で、それを知ることは弊害以外の何物でもないのです。たった一瞬の躊躇が獲物を逃し、狩りに支障をきたすとも限らないのですから。よって彼は、
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 などと言って、自身の生活のために、獲物の気持ちをなかったことにするしかありませんでした。
 一方の都合を知ることは、もう一方の都合を果たす上では、障害にしかならないことだってあり得るのです。

2015年2月23日月曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)(修正版)

 「スバー」はバニカンタの、3人娘の末の子としてこの世に生を受けましたが、生まれながらに唖でした。その為に、人々からはまるで感情がないように扱われ、母からは自身の不具のように忌み嫌われて育ってきたのです。その変わりにスバーは美しい容姿と感情豊かな心を持ち合わせていました。が、感情が豊かな故に、そうした人々や母の仕打ちに日々深く傷つけられていきます。
 そんな彼女にも幾らかの友人がいました。2頭の牝牛とプラタプという青年です。彼は怠け者(と言っても、インドの怠け者は日本のそれとは違い、仕事が休みの家に行き、客として相手を楽しませるという、職業的な側面も持ち合わせています。)で魚を捕る事が好きで、スバーはそれをいつも見守っていました。またプラタプにとっても、彼女の存在はそこにいるだけで彼の大きな手助けとなっていたのです。
 しかしそんなスバーも、時が経ちお嫁に行かなければいけない歳になってしまいます。両親は世間体から、この不具の娘をどうにかして嫁がせようと躍起になりました。そうして彼女はカルカッタの家へ嫁ぐこととなったのです。ですがスバーはお嫁に行きたいとはちっとも思っておらず、ただ嘆くばかりでした。そしてあれ程仲のよかったプラタプすらも、「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」と、スバーの心を分からず別れを告げてしまいます。
 ところが、そうして嫁いだ先にも、結局は彼女が唖だと分かると追いだして、花婿は再び、今度は口の利ける花嫁を貰うことにしたのでした。

 この作品では、〈言葉にならない言葉、声にならない声が、この世には「確か」に存在する〉ということが描かれています。

 私たちはどうして人の気持ちを読み違えたり、それを疑ったりするのでしょうか。それは「気持ち」というものが、物理的な形で存在しないからに他なりません。そしてそれだけに、言葉を話せない人々の「気持ち」というものはますます希薄になってしまいます。
 この作品に登場するスバーも、唖故に、「気持ち」という目には見えないものの存在を周りから認められなかった者の1人です。ですが彼女は本当に言葉を持ちあわせていなかったのではなく、寧ろあり余るほどの感性を持った少女だったのでした。
 ですが、この物語の悲劇というものは、それなのにスバーの気持ちを理解した者が1人もいなかったというところにあります。母も父も花婿も、一緒に釣りをした仲であったプラタプですらも、彼女の気持ちに気付かず、快く彼女を見送ってしまいます。
 しかしそれを知り得る唯一の人物が世界の何処かにいるとすれば、それはこの作品を読んだ私たちに他なりません。無論、だからと言って、物語のスバーに直接何かしてあげる事は出来ないのです。ですが、こうした「言葉にならない言葉、声にならない声」の存在に耳を傾ける事が出来ます。ましてや日本人たる私たちは、他の国々の人々よりもそうした事にただでさえ敏感でなければなりません。夫が妻に「愛してる」と生涯言わなかったからと言って、妻の事を果たして想ってはいなかったのでしょうか。息子が親に「有難う」と言わなかったからと言って、年老いていく親の身を案じていないことになるのでしょうか。
 文学というものは、人々の心の特殊的なあり方や内面の変化を文章によって表しています。そしてそうして綴られた言葉のひとつひとつが、理解され難い人々の気持ちを理解する、大きな手立てとなってゆかねばなりません。
 ですからスバーの存在を物語によって描くということは、そうした知られなかった彼女の悲しみを人々に知らしめる事でもあり、そしてそれは作家にとっての大きな使命でもあるのです。

山男の四月ー宮沢賢治(修正版3)

 ある時、山男は山鳥を捕らえた事に気を良くして、ぐったり首を垂れた獲物をぶらぶら振り回して森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝まで出てくると、獲物を投げ出してごろりと寝っ転がり、雲を眺めはじめます。すると、なんだか彼の足と頭は急に軽くなり、いつの間にか木こりの姿に化けて、町へ出かけていました。
 町へと来た彼は、そこで「陳」という薬売りに出会い、「六神丸」と呼ばれる薬を売りつけられます。山男も彼を怪しいとは思い、「よろしい」と大きな声でいいました。ところがその声があまりにも大きかったので人々の衆目を浴びてしまいます。慌てて山男は六神丸を買うことにしました。ですが、陳は買わずともただ呑んでくれさえすれば良いというのです。そこで山男は薬を呑んでしまうのですが、それを呑んだ途端、彼の身体はみるみる小さくなっていきました。そうして小さくなった彼は、陳に捕まり、薬箱の中へ入れられてしまったのです。
 「やられた畜生」と思うも後の祭り。彼は誰かに売られて誰かの口に入るのを待つばかりなのですから。ですから山男はどうにかして、その信じられない事実を受け止めようとします。そんな事を彼が考えていると、何者かが、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてきました。山男は「俺は魚屋の前から来た。」と応えます。
 すると陳は「声あまり高い。」と言って注意しました。しかしこれに気を悪くした山男は、再び大きな声で陳を怒鳴ります。すると陳は暫く黙った後に、そんなに騒がれると商売が成り立たず、生活できなくなってしまうと嘆きました。この姿に山男は同情し、彼にもう騒がない事を約束します。
 そして陳が歩き出したらしい事を確認すると、彼は再び声の主を探しはじめます。声の主は矢張り六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人は薬箱にある黒い丸薬を呑めば、元の姿に戻れる事を山男に教えました。支那人達は既に身体まで六神丸になっているので呑むことは出来ませんが、山男はまだ時間が経っていないために、元に戻れるというのです。
 そこで彼は、タイミングを見計らって黒い丸薬を呑んで元の姿に戻り、陳から逃げようとしました。ところが陳も丸薬を呑んで今までの倍の大きさになって、山男を掴んでしまいます。
 「助けてくれ」と山男は叫びますと、夢はそこで終わりました。夢から覚めた彼は、六神丸や陳のことを考えたり、投げ出してある山鳥の羽を見たりした後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言うのです。

 この作品では、〈獲物の気持ちを理解したが故に、捕食者の都合を優先してそれを忘れなければならなかった、山男の姿〉が描かれています。

 上記の一般性を論証するために、もう一度、物語のはじめに立ち返り、山男の心情に深く分け入って、「獲物」という存在がどのように変化していったのかを見ていきましょう。

 夢を見る以前、山男にとっては「獲物」は獲物で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
 問題は六神丸を陳に呑まされたところからです。山男は自分が「獲物」として他の者に捉えられてしまったという、これまでにない、信じられない事実を理性的に受け止めようと努力します。しかしそれはなかなか受け止められず、捕食者である陳に抵抗しました。
 ところが陳が山男が騒いで、危うく他の人々に正体がばれそうになり泣き言を述べはじめると、山男の態度も変化をみせます。嘗て捕まるまでは自分も捕食者の身であった為に、捕食者たる陳に同情を寄せたのです。そして彼は、捕食者の立場から客観的に獲物の立場をわきまえ、大人しく捉えられている事を約束します。それが捕食者から見た時の、獲物の正しいあり方なのですから。
 ですが六神丸になった支那人の話を聞いて、彼の心は再び大きく揺れていきます。一度は助からない以上、陳の言うことを聞こうと考えた山男ですが、本心は矢張り助かりたいのです。山男はそのタイミングを見計らうために、獲物としての役割を果たす一方で、その時を窺います。そして他の人に自分と同じように、六神丸を呑ませようとした時、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。
 ところが驚いた陳も、何かしらの丸薬を呑んで、倍以上の大きさになって彼を再び捕らえます。そうなると山男にとって、「獲物」の立場など忘れ、兎に角逃げたくて逃げたくて仕方がなくなっていきました。そして遂には理性を捨て去り、「助けてくれ」と叫ぶのです。
 こうして彼は、逃げられるものなら逃げたいが、そうすることも出来ず藻掻く、或いは大人しくしている「獲物」の気持ちを知ったのでした。
 ところが、ここで大きなひとつの問題が残ります。元来彼は捕食者で、それまでの体験は夢だったのでした。そうなると山男にとってはそうした気持ちなど、捕食を行う上では弊害以外の何物でもありません。そうした躊躇が、「獲物」を逃す事にだって繋がってしまうのですから。だからこそ彼は、再び自分の立場を確認した後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言って、夢の体験そのものを忘れることにしたのでした。
 一方の都合を知ることは、もう一方の都合を考えると邪魔になる場合だってあるのです。

2015年2月17日火曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版4)

 この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
 
 1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
 千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
 また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。

 2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
 出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
 更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
 差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。

 3通目では、その翌日の事が綴られています。
 その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
 やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。

 一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。

 この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。

 上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。

 1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
 では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
 つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)

 すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
 彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
 こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
 しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
 つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。

 しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
 例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
 そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
 そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
 まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。

2015年2月14日土曜日

短命長命ー黒島伝治

 著者は自分の故郷たる小豆島にある、「生田春月」の詩碑に、ふと行ってみたくなりました。
 彼は自身の道の先人たる春月や「芥川龍之介」らの存在を大きく思う一方で、現在の自分の年よりよりも低い年齢で、自らこの世を去ったことに対し、奇妙な感覚を覚えます。
 彼の見解では、作家に問わず、あらゆるジャンルにおいて短い期間で完成していく者、また長い期間をかけて熟成し出来上がっていく者がいるのではないかと考えているのです。そして春月らのような、短期間で完成した者達にとって、自ら命を絶つ事には何かしらの意義があるのではないかとも考えています。
 しかしその一方で、著者の知り合いと思われる女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という見解にも共感しているのです。一体彼は、何故相反する2つの意見に耳を傾けているのでしょうか。

 この作品では、〈先人の自殺を作家としては尊敬しながらも、人間としては尊敬できない、著者の素朴な感性〉が描かれています。

 生田春月や芥川龍之介らの事の年齢を通過していながらも、彼らの存在を大きく感じているところから察するに、恐らく著者は、彼らの自殺は、作家として自分が未だ嘗て体験したことのない感覚、境地に至った故のことと考えているのでしょう。ですからその死は、後世の作家にとって、何か意義があることのように捉えるべきだと考えているのでしょう。ですから彼らの死自体においても、作家としては、肯定的です。
 ところが人間としてはどうでしょうか。それは否です。ここで断っておきたいのですが、残念ながら死に関して、このエッセイでは市井を生きるものとして、どのように捉えるかは明言されておらず、またお恥ずかしい話ですが、私自身にもこれを論じられる実力がありません。ただ著者が女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という意見に賛同を覚えたのは確かです。ですから彼は市井を生きる者として、女のこの素朴な感性にこそ共感を覚えたのではないかと考えています。
 どうやら作家という限られた職業の中では、先人の死が尊く思われるからと言って、1個の人間としてそのあり方が正しいのか否かは別の問題のようです。

2015年2月12日木曜日

手品ー佐々木俊郎

 雪深い東北の山襞の中の村落では、正月になりますと、「チャセゴ」という習慣がはじまります。これは子供達が一団をなして家々をまわり、「アキの方からチャセゴに参った。」というのです。すると大人は「何を持って参った?」と聞き、子供達は「銭と金とザクザクと持って参った。」といいます。そうして彼らは家々の大人からお餅を貰うのです。
 また大人も、部落の地主や素封家のところにチャセゴにまわります。ですが、彼らの場合は単に参るのではなく、何か趣向を凝らした出し物を用意して行かねばなりません。

 近郷一の素封家、吉田家では、銀の杯が毎年正月になると出されており、欲深い「万」はどうにかしてそれを手に入れる為にチャセゴへ出かけます。彼はまた、その出し物として、何か歌でもうたって吉田家の人々を喜ばせようとしました。
 そして吉田家に到着し中に入ると、一緒にチャセゴに来た平六が出鱈目な踊りを披露しはじめ、これが大いに受けたのです。一方、人々が平六の踊りに注目している中、七福神の仮装をしている福禄寿が、なんと自分の袖から吉田家の銀の杯を盗もうとしているではありませんか。万はその瞬間を見逃さず、目を見張っていました。
 そして次はいよいよ万の番となります。ところが彼は、先ほどの福禄寿の事が頭から離れず、何をうたっていいのか分からなくなっていきました。それで苦し紛れに、
「私しゃ、芸無し猿でがして、何も出来ねえんでがすが、ただ一つ、手品を知ってますで……」
 と言い、お膳から銀の杯を取り、
「さあさ! こっちを御覧下せえ。ここに三つの杯があります。私しゃ、今これを襤褸着物の懐中へ入れます。」
「そこで、私が号令をかけますと、私の懐中の中の杯は、私の命令したところへ参るのでごぜえます。一! 二! 三!」
 そして銀の杯は福禄寿のところに移動したというのです。当然福禄寿の服の中から、3つの盃が出てきました。万は人々から喝采を受けたのでした。

 この作品では、〈杯がほしいという、自身の欲深さにによって窮地に陥るも、かえってその欲深さによってそれを脱出した、ある男〉

 万は銀の杯が欲しいという欲望があるために、吉田家にチャセゴに参ります。しかしその中では、芸が行なわれている一方で、福禄寿が銀の杯を盗もうとしていたのです。そしてその一部始終を目撃した瞬間、「次に続く太夫の芸は?」と呼ばれてしまいます。
 この時、万の頭には2つの観念が葛藤を起こしていたことでしょう。ひとつはチャセゴに参り、この場で何か出し物を披露しなければならない、ということ。そしてもうひとつは、福禄寿に銀の杯を渡したくない、自分が手に入れたいという思いがあったのです。ですから彼は出し物をする段になっても、何も思い浮かばず、ただこの2つの観念をいかに解消していくかということばかりをジリジリと考えていたのでしょう。
 そうして万は、人々から求められている役割、つまりチャセゴでの役割を利用して、銀の杯を奪い取る事を咄嗟に思いついたのでした。その方法こそが手品だったのです。あとはあらすじに書いている通り、見事福禄寿から銀の杯を奪い、自分がそれを手に入れました。
 まさに自身の欲求の強さを最後の最後まで捨てなかった為に、万はピンチをチャンスに変えたのでした。

豚群ー黒島伝治(未完成)

 健二たちの村では、百姓が相場の高騰を理由に、作物を育てる代わりに豚を育てていました。というのも、豚を1匹売れば、一家1か月食いしのげる程のお金が手に入るのです。しかし村の地主は小作料の代わりに、そうした百姓達の生活を支える豚を差し押さえようという動きをみせます。そこで村の百姓たちは、地主が差し押さえに来た場合、豚達を外に放して誰が誰の豚なのか分からなくして混乱させようと決めていたのです。
 ところがある時、健二の家に百姓仲間の宇一がやってきて、役人が来ても豚を外に放してはならないといいます。この言葉に、健二は咄嗟に彼の裏切りを見抜くのでした。と言いますのも、宇一は立派な麦畑を持っており、他の家の豚が外に出て畑を荒らされる事を恐れていたのです。また、彼はいくらかのお金を誰彼に貸し付けており、小作料を少しとられたところで痛くもありません。そして宇一の裏切りに憤慨しながら、健二は約人が来た時には豚を外に逃す決意を固めていくのでした。ですが、こうした計画は数人が計画したところで意味がなく、一定数の百姓に協力してもらう必要があります。果たして健二は他の百姓たちと協力し、豚という自分の財産を守ることが出来るのでしょうか。

2015年2月7日土曜日

二銭銅貨ー黒島伝治

 健吉の弟である藤二は、子供達の間で流行っていた独楽に熱心でした。ですが彼のものは兄のお古で、とても手入れされてはいましたが、藤二がまわすには重すぎたのです。そこで彼は他の子供達と同じように新しい独楽か、せめてそれを回す為の緒が欲しいと母に催促しました。
 ですが母としては、家の家計が苦しい故、どうにかしてお金のかからないようにしたいところ。そこで彼女は藤二と独楽の緒を買いに行く時、2銭だけ安いが、短い緒を買って彼に与えることにしました。ところが藤二はこの短さが気に入らず、両手で引っ張り長くしようとします。
 そんなある時、村に力士がやってきて、子供達はそれをひと目見ようと遊びに出かけていきます。そして藤二もそれを見たいと思いました。しかし母や父は家の経済が苦しいにも拘わらず、家の手伝いをそっちのけで力士を見に行こうとする彼を叱責します。そこで藤二は、仕方なく、牛が粉挽き臼を回している姿を見張る手伝いをすることにしました。その時、彼は柱に自分の独楽の緒をかけて引っ張りはじめたのです。その後、彼は手を滑らせて地面に転んだところを、牛に頭を踏まれて死んでしまいます。一体彼は何故死ななければならなかったのでしょうか。

 この作品では、〈自分たちの生活を守ろうとして弟の自由を抑制するあまり、かえって弟の命を失ってしまった、ある家族〉が描かれています。

 あらすじの問に答えるために、弟がどのような家庭状況にあり、その他の人々がどういった心持ちで生活していたのかを整理してみましょう。
 健吉よ藤二の家族は経済的に裕福とは言えず、苦しいものでした。その為に母は弟に新しい独楽や緒を買うよりも、物置小屋の中に古いものがないかどうか探しはじめます。また兄の健吉は「阿呆云え、その独楽の方がえいんじゃがイ!」と、家の貴重なお金を弟の独楽に使う事に対して、惜しい気がして、自分のお古を使うことをすすめました。そして、母が藤二に買ってあげた他より二銭安い緒は、こうした少しでも安いものを買って家の経済状況を保たねばならないといった、彼らの気持ちの象徴でもあるのです。
 こうして藤二は他の子供達よりも短い緒を持つことになったのですが、矢張りその短さが気に入りません。
 そんな時、彼らの村に力士がやってきます。藤二も他の子供達と同じように力士を見たいと思いますが、ここでも矢張り父や母は、家の経済状況を無視して、子供ながらの好奇心を満たそうとしている彼を叱責します。家の経済を理由に短い独楽の緒を押し付けられ、また家の経済を理由に遊びに行くことも出来ず、藤二はそうした家族からの抑制をどうにか自分で撥ね退けようと、独楽の緒を牛小屋の柱に押しつけ少しでも長くしようとしました。そうする事で彼は、これまで満たされなかった欲求を少しでも満たそうとしたのです。しかし運の悪いことに、緒から手を離し倒れたところに、牛に踏まれて命を押してしまいます。
 こうした、小さな欲求を満たそうとしただけなのに、身に余る大きな代償を背負わなければならなかった必然がそこにあり、それがこの作品の余韻となり、生活を大切にする私たちに鋭く突きつけられているのです。

2015年2月5日木曜日

自画像ー黒島伝治(未完成)

 この作品ではタイトルの通り、著者が自分自身の事をどのような人間であるのかを評価しています。彼は自分のことを、都会人の真似をして洋服を着たり、野心を燃やしたりしているが、根は無口な百姓であると述べているのです。では農家をした方が性に合っているのかと言えばそうではなく、人間と生活の醜い部分ばかりが見えてしまい、百姓が出来なのだといいます。その代わりただそれを冷静に分析して、怒ったり不平を言ったりしているのだと言うのです。
 一体著者は自分自身をどのように捉えているのでしょうか。

 この作品では、〈人間性と生活への答えを規定出来ないが故に、小説家として、不平を言い続けるしかなかった、ある作家〉が描かれています。

 彼はどうやら人々の生活を見ていく中で、それを守ろうとが故に出てくる人々の醜悪な行動が目につくようです。例えば彼の作品である『電報』では、息子を受験させようとするも、村の有力者達によってそれを阻まれた親子の姿が描かれています。また『窃む女』では妻の窃盗を知りながらも、現場を見ていないが故に、頭の中でもみ消そうとする夫の姿が描かれていました。恐らく彼は、そうした人々の姿を見て、ああでもないこうでもないとは思いながらも、その答えが見つかりません。ですから彼はその答えを見つけるべく、より人々の生活や心理を誰よりも冷静に見つめなければならないのです。

2015年2月4日水曜日

氷点(上)ー三浦綾子p190・1

◯啓造はルリ子の死以来、夏枝を憎みはした。
 啓造の中ではほんらい、夏枝は事件のあった当初、村井と浮気などせず辻口の妻として自分を愛し、ルリ子と共に自分の帰りを待っているはずだという想定が存在していた。と同時に、これは啓造にとって、夏枝にそうあって欲しいという願望でもあったのである。
 ところが実際のところ、夏枝は村井と不貞を働き、その間にルリ子は殺された。
 この啓造が描いた頭の中の理想と、頭の外にある現実が大きく食い違っているからこそ、彼は苦しみ妻を憎まずにはいられなくなっていったのである。
 しかし、だからと言って、どのような理由であれ夏枝に憎まれる覚悟は啓造には全くなかった。前記した通り、啓造の頭の中は、あくまで夏枝に愛されていることが前提になっており、それ以外の彼女の感情や行動はあまり想定されていない。だからこそこの場面において、陽子の戸籍のことで夏枝に恨めしい目で見られて、啓造はつい狼狽してしまったのである。

2015年2月1日日曜日

氷点(上)ー三浦綾子p154-2

◯夏枝のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。
 ここでは、辻口夫婦が高木を通して犯人の子どもと思われる子供、陽子とはじめて対面し貰っていこうとしている場面が描かれている。
 夏江は陽子と対面し、すぐに自分の子供にすることを決めた後、近所の人々に自分の子供ではないことをばれないように、陽子と2ヶ月札幌にいる事を決め、「わたくしはね、この子をもらおうと思った時に、この子を産んだような気がしましたの」と、母親としての愛情を大きく傾けた。
 一方啓造は、そんな夏枝の、「母性愛にも似たやさしさ」を非社会的だと批判したのである。何故なら、夏枝は目の前の陽子に対し、母親としての愛情を一心に傾けるあまり、旭川に置いてきた徹のことや、陽子の出生を必死に隠そうとしているところなど、社会的な繋がりを無視したような行動や態度に出ようとしたからだ。陽子は夏枝がいるから心細くないだろうが、徹も同じく、母親を欲しているはずである。また幾ら夏枝が陽子の事を取り繕おうとしても、年月が過ぎれば近所の人々が噂をしそうなものである。こうした様々な問題が見えなくなる程に、その日出会ったばかりの陽子に母親としての情熱を傾けているからこそ、啓造は驚き批判しているのだ。

氷点(上)ー三浦綾子p101・1

◯人間の身勝手さは、事故本能のようなものかも知れなかった。
そもそも、夏枝が病気に蝕まれていった原因は、彼女が村井と不貞を働き、ルリ子を1人にして殺されてしまったところにある。それは夏枝も充分自覚しているところであり、だからこそ精神を病んでいったのだ。
 ルリ子が死んだ後、次第に夏枝は生気を失い、身体はやせ細り、精神は現実を拒みルリ子の幻影を見るようにすらなっていったのである。ところが彼女が狂う前に、彼女自身が自分を責める事に対して、徐々に耐えられなくなっていった。彼女はまず、夫が自分に優しくないところに、「何故夫は病気のわたくしにこうも冷たいのだろう」と付け入ったのだろう。するとその疑問が次第に、「夫はもっとわたくしに優しくすべきなのに、そうしないのはあんまりではないのかしら」というような非難へと転化していった。そしてその非難こそが、「これだけ苦しんでいるのだから、わたくしだって犯人の被害者なのだ」という、自分を守る大義名分へとなっていったのである。
 そしてこの箇所では、その大義名分から夏枝は、村井の行動がなければルリ子は死ななかっただろうし、自分も病むことはなかったのだから、村井こそが悪いのでありもっと苦しむべきなのだと非難しているのだ。