2014年6月7日土曜日

タナトスの使者 File1−1(修正版)

ただ生きるという以外に
何の目的もなしに
いつまでも生き続け
どこまでも
生を続けていく種族というものは、
客観的には滑稽だし、
主観的には
退屈なものだろうさ

ショウペンハウエル


 他者に死を与える事はいかなる場合であっても、殺人である。それが大量殺人犯であろうが快楽殺人犯であろうが、病気に苦しむ親を酷く思い息の根をとめる親思いであろうが、皆等しく罰せられるのだ。しかしそうした禁忌をあえて犯し、その業苦の人生から人々を救わんとする組織がこの世には存在するのである。彼らはギリシアの「死」の神の名に肖り、「タナロジー学会」と名乗っている。来島明良(くるしま あきら)はそんな死神の使いとなり、人々に死の審判を下していた。彼らとて、誰でも無差別に死を与えているのではない。それは公平なる良心からくるものでなければならないのだ。そして来島はいつ何時もそれを忘れまいと、月に一度の墓参りを習慣としている。手を合わせ目を瞑ると、これまで彼が審判を下してきたものの顔が浮かび上がってくる。皆人生に疲れ果て、生という鎖を断ち切ろうとしたくて堪らないといった表情を浮かべていた。その表情を丁寧に思い出していくうちに、来島は背筋がピンと伸び、全身の筋肉が締まっていくのを感じる。そうした彼の姿はまるで煉獄の亡者達の魂を狩る死神のようにすら見えてしまう。そして目を開けた瞬間には、これから自分が成すべきことが不思議と鮮明に浮かび上がってくるのだ。
 ある時彼がいつものように墓参りを済まし家路につこうとすると、向こうから黒い高級車がゆっくりとこちらに近づいてきた。来島はその車に幾度となく乗ったことがある。やがて車は来島の前でとまりミラーがゆっくり開くと、男の顔が出てきた。この顔とも来島は何度も突き合わせている。
「ここだったか。」
「偶然ですね。」
 来島はわざと白々しくした。この男がなんの用事もなしに彼に会うことなどということはあり得ない。しかしもしかすると、という「淡い期待」も同時に抱かずにはいられなかった。
「毎月来ているんだろう。」
 来島は黙っていた。が、心の中では「やっぱり」という落胆を感じてはいた。
「頼みたい事がある。」
「……仕事ですか。」
 その一言には、彼の精一杯の非難でもあった。「あなたも線香の一本ぐらいあげていってはどうですか」という言葉がそこまで出ていたが、あえて押し黙った。
「それ以外にお前と私とに何がある。すぐに取りかかれ。」
 そう言うと男は彼に一枚の紙切れを渡した。そこには依頼人らしき人物の名前が書かれてある。男は彼が承諾するかしないかを確認もせずに、車を出し去っていった。ひとり取り残された彼は、紙を丁寧に折って財布の中にしまい込み、早速仕事にとりかかることにした。

 安田隆一にとって最早日常というものはただ死を静かに待つだけの、無意味なものとなってしまった。10年以上前に会社を定年し、多くの友人をあらゆる病気で亡くし、そして自らも2年前からガンに全身を蝕まれて生きる気力を殆ど失っていたのだ。もう待つことも疲れ果てた彼は、いつしかいかにはやく死ねるかということばかりが頭を巡るようになっていった。やがてふと、以前に友人から聞いた、違法で他人の死を専門に扱う団体に連絡をしたことを思い出す。なんでもそこに頼めば、自分の一生を簡単に終わらせてくれるらしい。しかし待てど暮らせど今日までなんの音沙汰もない。
「そんなうまい話があるわけないか。」
 彼はそんな独り言を漏らしため息をついた。その時である。窓のあたりから冷たい風が吹いているのを感じた。(可笑しいな、妻が締めていったはずなのだが……。)虚ろな眼差しで庭の窓に目を向ける。すると窓は開け放たれているばかりか、そこには季節外れにもトレンチコートを着た、若く背の高い男が立っていた。安田は何者?と思うと同時にもしや!とも思った。そして安田が自分に気がついた事を知ると、男は静かに口を開いた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。
 安田にはそれだけで一切が分かった。ついに自分を殺してくれる悪魔がこの場に舞い降りてきてくれたのだ。安田はやっとかという疲れきった表情を浮かべた。
「随分遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたよ。」
 この一言に安田は腹を立てた。幾ら向こうにとっては仕事だとはいえ、なんだか自分の生き死にをこの若造が安く見積もっているように思われてならなかったのだ。彼の聞きやすく、透き通った声の調子もかえってそうした感情を助長させた。
「何だと!どういうことだ!!」
「落ち着いて下さい。私は何も貴方を怒らせに来たわけではありません。」
「当たり前だ!」
 来島は落ち着き払って、安田の怒りを鎮めようとした。だがその様子が更に彼を苛立たせるのだ。
「私たちにも事情というものがあるのです。それに貴方だって、誰かに自分が死ぬところを止められるのは困るのでしょう。」
「こんな老いぼれの命を誰が気にするんだ!保険会社か!!」
 こうした安田の態度に来島は呆れながらも、これから自分たちが社会的にどのような事をやろうとしているのかを説明していく。
「……いいですか、私たちがやろうとしていることは立派な犯罪です。それは刑法202条(※1)にも定められています。捕まれば、私は一生檻の中でしょうし、貴方だって死ぬ前に余計な汚名がつくことになるんですよ。」
 これには流石の安田も狼狽した。が、彼にとって法の存在など死の前では取るに足らない事は変わりなかった。
「……では、その調査とやらが終わったらすぐ殺してくれ。その方が君も警察に捕まることもあるまい。」
 何かを圧し殺すかのようにこう述べた。一方、来島の口調は変わらず、ただ業務的に、しかし何処かでは安田を挑発するかのように話を続ける。
「警察の事などではありません。これでも医者ですから、下手は打ちませんよ。問題は私達の活動を面白いように思っていない人々もいるということです。貴方が見つけたくらいだ。もしかすると、もうすぐそこにまで来ているかもしれません。」
 来島は窓の方に目をやった。すると、安田も食い入るように窓の外を見はじめた。
「安心して下さい。今は大丈夫ですよ。」
 安田は今度は顔を赤くして下を向いた。そしてそれを隠すかのように、こう述べた。
「……しかし、お節介な奴らもいるものだ。尊厳死は誰しも認められた、平等な権利とばかり思っていたがな。」
「平等な権利なんかありませんよ。そもそも尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもありませんよ。」
「むう……。」
 安田は誤解していたようだ。彼らが来てくれれば、すぐに、しかも簡単にその一生を閉じれるものと思っていた。しかしどうやら事は彼が考えているほど、単純ではないようである。
「……私はあと、どれほど待てばいいのだ?」
「そうですね、調査の上に、貴方を審査しなければならない。と言っても心配いりません。少しの間だけです。」
「審査だと?」
「私達が扱っているのは“死”です。“死”はだれにでも平等で公平なものでなければなりません。その為に、私達にも会則というものが存在します。まずはその会則に違反しているかいまいか審査し、それが通った時、はじめて死ぬことが出来るのです。」
 安田の中で一旦収まっていた怒りが再び蘇ってきた。彼らはまるで自分の痛みに無頓着な気がしてならなくなっていった。
「おい、神様か何かにでもなったつもりか!!人を何だと……。」
「従って頂けなければ、話はこれまでです。」
 話の途中、来島は力強く割って入った。そして安田はまたしても閉口してしまったのである。彼はまたも俯き、汗をかきながら考えてごとをしているようだった。
来島もその様子を暫く眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……何故貴方はそこまでして私達に拘るのです?ガンだとは聞いていましたが、この様子だとどの道先は長くないでしょうに。」
 そう言って来島は部屋を隅々まで見渡した。安田のベッドの周りには医療機器と思わしき機材が取り囲むようにして置かれていたのである。
「そうだ、もうリンパ節にまで移転していてステージⅢBだ。だが余命半年と医者から宣告されて、2年半にもなる。ここまでくればもう打つ手はないだろう。私も多くの友人をガンで亡くしているが、皆最後は体中に管を散々巻きつけられた挙句、痛み止めで意識が朦朧とした状態で、家族に別れも告げられない儘この世を去っていったよ。そんな死に方は嫌だとは思わんかね?」
「……お気持ちはわかります。しかし……それでは…何故です?」
 来島は慎重に言葉を選ぶかのように答えた。
「君も医者なら分かるだろう。私以外の家族への負担、妻への普段だよ。彼女以外家族はもういない。子供もいないしな。だが、もう限界らしい。ちょうど君たち学会に連絡をする2週間前の話だよ。私は妻の介護で晩飯を食っていたら、ちょっとした不注意で味噌汁を零してね。妻がおわんをとろうとした時だ。妻の横顔が私の知っている女の横顔ではなかったんだよ。私は何かの見間違いかと思ってまじまじと凝らしたよ。するとどうだい。目に力はなくなり皺も余計に増えて、表情には生気が感じられん。妻は私という地獄の鎖に繋がれているのだよ。このままでは、彼女に生き地獄を見せ続けることになる。……思えば妻は明るく社交的な性格でな。私がこうなる前は書道の先生をしていて、それもなかなかの評判だったんだが、病気をしてからはそれもぱったりやめてしまった。だからもう一度、妻には妻の人生を生きて欲しいんだ。その為に私は邪魔なのだよ。」
 見ると安田はシーツをギュッと握りしめ、全身からは汗が噴き出るように出ていた。しかしそんな安田の様子に、来島はあろうことか涼しげな笑みを見せた。
「いや、つい感動してしまいました。その意思は死を処方するに値します。」
 安田はシーツをより強く握りしめた。どうしてもこの男が気に喰わないのだ。
「……では、殺してくれるのだな。」
「いや、審査はまだ続きます。心配いりません。貴方のメフィストフェレスはすぐに参上することになるでしょう。そのときまでしばしの別れです。」
 そう言うと来島はトレンチコートを翻らせながら、相手の返事も聞かない儘に窓から去っていってしまった。


脚注
※1ー人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。

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