2014年10月22日水曜日

鬼ー織田作之助

 著者の知り合いである「辻十吉」という男は、世間から卑しい金好きとして見られており、「あの男は十(じゅう)に辶(しんにゅう)をかけたような男だ」と極言されていました。
 ところがそれは世間の風評だけで、実際のところ、経済観念に非常に疎く年中物語の事を考えている、俗にいう「仕事人間」だったのです。それは、身内が危篤でも親戚だけにお家周りをさせて自分は仕事を優先させたり、小切手の受け取るにいく事を面倒くさがり無効になるまで放置したり、旧円を新円に変える事を億劫に思ったりと、すさまじいのでした。
 しかし、いざ小説の世界の話となると、登場人物の経済状況を事細かに設定する事が出来ます。一体何故辻は現実の世界でそれをやらず、物語の世界ではそれを積極的にやる事が出来るのでしょうか。

 この作品では、〈小説を書いてお金を稼ごうとするが故に、かえって経済観念を失っていった、ある男〉が描かれています。

 この作品の面白さは無論、現実の世界では経済観念を発揮できない辻が、何故創作の世界だと金銭の勘定を細かく設定できるのだ、というところにあります。
 それを探る為に、まずは彼の創作活動が彼の生活とどのように関連しているのかを整理してみましょう。そもそも辻は、自身の生活を支える為、小説を書き、それを新聞社やラジオ局に寄越していました。つまり生活の面から見れば、彼は生計をたてる為に小説をかいているのです。
 ですが彼のいけないところは、その創作活動に熱中するあまりに、目的が消失してしまっているというところにあります。これはギャンブルにのめり込んでいる人達と似通っているところがあるのです。彼らも本来であるならば、少なからず自分の生活を豊かにしようという気持ちから、賭け事に興じている側面があります。ところが賭け事そのものの魅力にどっぷりと嵌り込み、かえって生活そのものが破綻するケースだって少なくはありません。
 そして辻もまた、自身の創作活動が直接的に彼自身の経済を支えているが故に、書かなければならないのは事実としてあります。ですが恐らく、仕事を熱心にすればする程、創作の事以外考えられなくなっていき、結果として、生活に支障が出てきてしまったのです。

※注釈
−――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙 なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。(中略)普通十人家族で千二百円引き出せる勘 定だが、千円と前の三百円、合わせて千三百円、一家自殺を図った家庭が普通一般の家庭と変らぬことになる――」

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