2011年7月31日日曜日

かちかち山ー芥川龍之介

 この作品では、童話『かちかち山』の中の、兎が翁のために敵討ちに向かうワンシーンが描かれています。本作の特徴は著者である芥川龍之介らしい、「老人の妻の屍骸を埋めた土の上」、「老人は、蹲つたまま泣いてゐる。兎は何度も後をふりむきながら、舟の方へ歩いてゆく。」等の〈陰鬱かつリアリティに溢れた表現〉にあります。そして、こうした物語では描かれていない翁の嫗の墓前で悲しんでいる姿、兎が翁を案ずる姿をあえて描くことによって、それまで子供向けに描かれていた童話が一気に現実的な作品へと変化し、登場人物の心情に引きこまれていきます。そして読者は登場人物の悲しさ、恨みなどを知ることにより作品で描かれていなかった場面をも想像することになるでしょう。
著者はこの作品において、原作にあった行間を彼自身が独特の感性によって一部を埋めることに、読者に新たな楽しみを与えているのです。

2011年7月29日金曜日

尼になった老婆ー田中貢太郎

 それは「手前」がまだ独身で、棒手振を渡世にしていた時分のことです。この時、界隈では東本願寺の門跡様が、久し振りに御下向に来れれるという話が広まっており、信仰深い人々は御駕籠の中にいる門跡様をどうにか見れないものかと集まり賑わっておりました。
そこに背の高い老婆が、がむしゃらに人を突き退けるように前へ出てきました。そんな彼女の様子を見て、「手前」は「彼女には何か仏罰が与えられるはずだ」と考え、その老婆の行方を目で追います。そしてこの老婆は「手前」の考えていたとおり、後にとんでもない行動に出てしまった為に仏様から「仏罰」をうけることになってしまうのです。では、彼の感じてる「仏罰」とは果たしてどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈物事の原因をつきとめられなかったために、事実を解釈してしまったある男〉が描かれています。
まず、この老婆は人をかき分け門跡様の御駕籠の前まで行くと、なんと自らその中へ入っていくではありませんか。しかし、門跡様は彼女を煩がり、後ろへ突き飛ばしました。ですが、遠くで見ていた者にはその詳しい様子が分からず、門跡様の手が老婆の頭に触れたことだけを確認し、「ありがたいことだ、ありがたいことだ」と言って老婆の髪を一本一本ちぎっていき、やがてはその頭は尼のような姿になってしまいました。以上がこの物語の全貌です。
ところでこの中で「手前」が使っていた「仏罰」という言葉ですが、彼はこの言葉を私たちが極稀に感じたことのある、「悪い予感」、「殺気」などという言葉と似たような使い方をしています。では、そもそも私たちはどのような時にそれらの言葉を使い、どのようにそれらを感じているのでしょうか。例えば、その晩いつもはぐっすり眠れるはずなのに何故だか今日はそわそわして、何か落ち着かず眠れなかった男がいたとします。後日、母が入院している病院から、死亡したとの知らせがありました。その時彼は昨日なかなか寝付けなったことを思い出し、あれは「悪い予感」だったのだという結論を導き出します。そして彼は更に、では何故自分は何故母の死を感じ取れたのかを考えはじめます。すると、1週間前に病院のご飯を殆ど口にしていなかったことを担当医から聞いていたこと、母の口数はぐっと減り、目も何処か虚ろだったこと、最後に会った時には、母からいつもは臭わない妙な香りがしたこと等、次々と死ぬことを暗示するようなサインがあったことに気がつきます。この男はそういったサインから、感性的に母の死を感じ取っていたのです。
そして話を物語に戻すと、「手前」の場合も「仏罰」に対して上記のそれと同じ使い方をしています。彼は、老婆の並々ならぬ異常な行動、人々の尋常ではない熱気と信仰心。これらのサインを感性的に読みとり、こういう中で老婆が一人勝手なことをすれば、何か良からぬことがおこることをぼんやりと感じ、それを一言で「仏罰」と読んでいるのです。ですが、彼はあくまで自分の感性でこれを読み取っており、何故そう感じているのかを説明することはできません。そこで彼は、老婆の仕打ちを仏のせいにして、「仏罰」などという言葉を採用しなければならなかったのです。結局、彼は感性的には事実を正確に読み取ってはいたものの、その点と点を結べなかったために、事実を解釈してしまったのです。

2011年7月28日木曜日

天才ーアントン・チェーホフ(未完)

キーポイント
◯カーチャの現実逃避
◯彼女のエゴール像と現実のエゴール
◯カーチャの将来像

問題点
キーワードをまとめれば、カーチャのエゴールの思への思いと彼自身の思いの違いと最後の「あなたがどんな偉い人になるだろうと思って、私たのしみでならないのよ。……今のあなた方の話はすっかり聞いちまったの。……私、だから空想してるの、……空想してるの……」という箇所を合わせればこの作品の一般性を導くことができる。
しかし、それではタイトルとの合致がいかないので、また違った一般性があるのではないだろうか。

2011年7月26日火曜日

小説中の女ー豊島与志雄

 それは友人の家から東京に電車で帰っているときのことでした。著者はその時、翌日の朝から書き始める小説のことを考えていました。その小説は大体は頭の中では出来上がっていましたが、ただ小説に登場する「みさ子」の面影がどうにも浮き上がってこない様子。そこで彼は無意識的にではありましたが、同じ電車にのっていた女性を「みさ子」だと思い、彼女をモデルにして「みさ子」の像を深めて行きました。ですが、この行動によって、彼は小説を書くことがかえってできなくなってしまいます。一体何故彼は小説が書けなくなってしまったのでしょうか。
この作品では、〈現実の女性と自分の中の女性の像の区別がつかなくなってしまった、ある作家〉が描かれています。
まず、上記にあるように自身の小説のモデルを見つけた著者は、彼女を観察して徐々に小説の中の人物、「みさ子」をつくりあげていきます。彼は現実の女性の「彼女の鼻は、日本人にしては高すぎるくらいに、急角度で細く聳えていた。(中略)然し或は彼女の鼻も、高いわりに細そりとしてるので、遠く から見たら余り眼につかないかも知れない……。」等の仕草や特徴を採用し、「みさ子」の像を明確にしていきます。そして更に、注目すべきは「彼女は見た所、二十七八歳くらいらしかった。それが一寸困った。みさ子は二十一二歳でなければいけなかった。けれど、年齢の差くらいはどうにでもなる、と私は思い返した。」等の一文からも理解できるように、現実の女性がみさ子に影響を与えているだけではなく、「みさ子」自身も現実の女性に影響を与えているのです。つまり彼は彼女に自身の小説のモデルになってもらうことで、小説の中の女性「みさ子」を彼女を通して映し出していきます。こうなると著者にとって現実の中の彼女は、彼女自身からやがて、「みさ子」そのものになりかわっていってしまい、彼は現実の女性と頭の中のそれとの区別がつかなくなっていきます。こうした悩みから、彼は現実と頭の中を混同し小説を書けなくなっていってしまったのです。

2011年7月25日月曜日

運ー芥川龍之介

人々が観音様のもとに参詣している最中、ある青侍がふと思いついたように、主の陶器師の老人に「不相変、観音様へ参詣する人が多いようだね。」と声をかけてきました。そこから2人の会話ははじまります、やがて、その時観音様がもたらしてくれる運に関して興味をもっていた青侍は、老人から運について聞き出しはじめます。すると老人は神仏の運には良し悪しがあり、それがこの青侍には分からないだろうと言いました。さて、運の良し悪しとはどういうことでしょうか。何故その良し悪しがこの青侍には分からないのでしょうか。
この作品では、〈あれかこれかと考えてしまった為に、ものごとの判断を見誤っているある侍〉が描かれています。
まず老人はその後、ある観音様のお告げを聞いたある女性のエピソードを持ちだして、具体的に運の良し悪しの中身を語りはじめます。その女は34年前(その時女は娘の時分でした)に観音様に安楽に暮らせるよう、お籠りし願かけを行っていました。その時娘は母親を亡くしており、経済的に苦しかったのです。その娘が37日後の夜、神仏から『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』というお告げを授かります。そして娘はその帰路、やはり神仏のお告げ通りの事態が起き、やがてその男から夫婦になってくれと申し込まれます。彼女はこれを観音様の思し召しだと考えたため、首を縦にふりました。こうして二人は夫婦となりました。その時、男は娘に綾を十疋に絹を十疋差し出しました。ですが、この男はそもそも泥棒であり、娘に渡したそれらは盗んだものだったのです。それを知った娘は男と住んでいた塔から、男の炊女をしていたと思われる見張りのお婆さんを殺して逃げ出しました。この時、娘は男からもらっていた綾十疋に絹十疋を持って逃げてきたたので34年たった今でも不自由なく暮らしています。ですが、彼女は男が自身の罪によってお縄になっている姿を見て、男に惚れていたわけではないが急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったというのです。結果的に娘は確かに生活の面では豊かになりました。ですが、その代償として、盗人が夫となり逮捕され、更には自身が殺人者にまでなってしまったのです。これが老人の運の良し悪しの悪しの中身なのです。
しかし、青侍はこの話を聞いてなんと「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」等と考えているのです。なぜ彼はこう考えているのでしょうか。彼は、この話を聞いて「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」という台詞からも理解できるように、生活的に不自由なく暮らせることと、盗人の夫を持つことと人殺しの罪を背負って生きる苦しみを天秤にかけて、前者の利益の方が優っていると考えてこう述べているのです。
ですが、ここで重要なことは天秤に快楽と苦しみを天秤にかけることではありませえん。むしろ両方つきまとってくるものなのですから、この苦しみは自分にこれから先自分をどういう風に変えていくのか、またその苦しみ自体に耐えれるのかということの方が大切なのです。そもそもこの侍の最大の失敗は、生活的には不自由なく暮らしているという結果だけを見ていることにあります。問題はその結果にいった過程こそが結果をつくりあげており、その結果が娘の34年の過程をつくっているというとこに注目しなければならいのです。

2011年7月21日木曜日

渡り鳥ー太宰治

 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ中に、ある無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年の姿があります。彼は「ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。」というよに、今読んだり聞いたりしたもの、会う人によって、自身の趣味をコロコロと変えていきます。果たして彼にとって趣味とはどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈自分自身を他の何かに委ねてしまった、ある青年〉が描かれています。
はじめに、上記の問いに答えるにあって、青年の行動原理にある、「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という言葉の意味について考えていきましょう。まず、青年は数多の知り合いに会えば声をかけ、彼等の趣味趣向に自分を合わせていきます。ですが、一度だけ他人の趣味に自分を合わせなかった場面があります。それはある文学青年が声をかけた時でした。彼は文学青年に対して、「つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。」と、明らかにそれまで出会った人々とは違った印象を持ち、対応をします。ですが、文学青年の「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんですがね、つき合ってくれませんか。どこか、あなたのなじみの飲み屋でもこの辺にあったら、案内して下さい。」という台詞を聞いた途端、彼の態度は一転し、文学青年への印象を「面のぶざいくなのに似合わず、なかなか話せる男」と改めているではありませんか。実は、彼は知り合いを見かければ声をかけていたのは、こうして他人のお金を目当てに食事をするためだったのです。つまり、彼はその利益(お金)を得るための手段として、彼は趣味を使い話を合わせていたのでした。だからこそ、彼にとって趣味そのものはどうでもいいのであり、その中身すらもころころと帰ることが出来たのです。
そして、この彼の趣味を手段として用いていることに、私たちは少なからず不快感を感じることでしょう。そもそも趣味とは言うまでもなく、手段として用いるものではありません。私たちが成長の過程の中で様々な影響を受け、やがてそこから好きなものとそうでないものが派生し、趣味と呼ばれるものになっていくのです。かなり極端な言い方をすれば、幼少期にお母さんと一緒に積み木遊びをした子供がいたとします。その子供は材木を扱うことに興味を示し、やがて自ら木で玩具をつくりだし、それが大人に近づくにつれて日曜大工という立派な趣味になっていくのです。このように趣味とは自分が歩んできた歴史が含まれているものなのです。ですが、そういったものがあるにも拘らず、一切取り払い「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という論法を採用してしまっている青年に対して、私たちは不快感なり不気味さなりを感じずにはいられないのです。それは、それまであった自分の歩んできた歴史を排除し、他の何かに自分を委ねる行為なのですから。

2011年7月19日火曜日

夜だかの星ー宮沢賢治

蛙のように口が大きく、味噌を塗ったような顔をもつ鳥、夜だかは、その風貌から仲間の鳥から蔑まれ忌み嫌われて生きてきました。そんな夜だかはある日、鷹から自分と同じ名前を含んでいることを理由に、名前の改名を迫られました。更に鷹はそれができなければ、彼を噛み殺してしまうと脅してくるではありませんか。そして思い悩んだ挙句、夜だかは遠くの空の向こうへ向かうことを決心するのです。さて、彼は何故このような決心をしたのでしょうか。
この作品では、〈個としての自分の存在を命をかけて証明した、ある鳥〉が描かれています。
まず、物語を追いながら夜だかの立ち位置を整理してみましょう。彼はその他の鳥達から外見が劣っているという理由から、鳥の世界では最下の立場にありました。更に彼は鷹に名前の改名を迫られたことで、「夜だか」という存在すら否定されたのです。そして悩んだ末に彼は、何故か星と同じところまで高く飛ぶことを決心します。そして彼は自分の力ではそこまで行くことができないと考え、星々に自分をそこに連れていってくれと頼んでみました。ですが、そこでも「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。」、「星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ。」等と、今度は鳥という存在そのものを否定されてしまいます。しかしそれでも夜だかは、空高く飛ぶことを諦めず、遂には星となることが出来たのです。
さて、ここまで整理すると大きな問題がひとつ残ります。それは一体彼は何故星になる必要があったのか、ということです。この問題を解決する大きなヒントは「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。」という台詞にあります。彼はどんなに仲間から蔑まされても、馬鹿にされても、「ただ一つ」の自分というものの存在に目を向け、自分だけでもその価値を肯定し続けてきました。その自分が鷹に殺されることによって、大きく否定されることが何よりも辛いと述べているんのです。だからこそ、彼は自分の存在を証明すべく、自分よりも大きいと思われる星々のもとに行こうと考えたのです。
そしてこの夜だかの悩みというものは、現実を生きる私たちにもよくあることのはずです。例え人間全体の中のちっぽけな一人に過ぎずとも、また今自分の存在が大勢の誰かになかなか認められずとも、この夜だかのようにあなたも私も「ただ一つ」の自分でしかないのです。