2013年7月29日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月28日

 前回までの手記まででは、ヘレン・ケラーはサリバンの征服的な教育を受けることによって、それまで動物的であった「認識」から人間的なものの見方へと移行していっている状態にありました。そして今回のそれでは、その発展が順調良く進んでいる事が綴られているようです。
 ヘレンはそれまで、食事中ナプキンを首にナプキンをつけることを頑なに拒んでいました。これはサリバン曰く、身の回りで何が起こっているのか確かめるべく拒んでいたのだというのです。(彼女にとっては触覚だけが唯一、自分と世界とを繋ぐ器官なのですから、このサリバンの鋭い考察には頷けるものがあります。)以来、彼女はナプキンを首にかけない代わりに、顎でナプキンをとめて食事をとるようになりました。ですがヘレンに人間としての土台を与えようとしているサリバンとしては、ナプキンをかけさせる必要があります。そこで彼女は、ある時、ヘレンにナプキンを首にかけさせることを再び試みました。はじめはご褒美のケーキがない事からそれを拒んでいましたが、その欲求を満たしてあげる事でこの試みは成功しました。ヘレンはとうとう、それまで持っていた野性的な習慣を捨て去り、人間的な習慣を採用していく段階にまできたのです。

2013年7月28日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月20日

 前々回の手記では、サリバンはヘレン・ケラーを「ただ快不快があるだけの動物的な」子供であると規定し、人間的な土台の部分から再教育するといった事が書かれていました。またその際、サリバンは教育を「主体」において彼女を導いていくのではなく、あくまで彼女の「知性」を「主体」とし、教育によってそれを導く立場をとることも述べてしました。そして今回はそれに対する、サリバンの実践の成果が書かれています。
 そこには驚くべきことに、それまで野性的で快不快の感情だけしかなかったケレン・ケラーが、なんと人間的な感情を「獲得していっている」といった事が書かれているではありませんか。(※)ここで注意しなければならないのは、彼女の感情というものは「獲得した」のではなく、まだ発展の段階にある、ということです。
 サリバンと2人で暮らしはじめた頃、ヘレンは彼女の征服に対して執拗に拒否し続けていました。ですが徐々に抵抗をやめていき、受け入れていくことになります。やがて服従を受け入れていった彼女は、サリバンの行動を模倣する事でその方法を学び取ろうとしていったのでしょう。そして前回の手記にあった他人の模倣という行動は、そうした服従の延長にあったという事になります。こうした模倣の結果、彼女は人間的な表情や行動をとるようになっていったのでしょう。つまり彼女の進歩というものは、完全に人間的な感情を獲得したと見るべきではなく、模倣が内実を含み、人間的な感情を獲得しかけていると見るべきなのです。とは言え、これは彼女にとって大きな進歩であるとともに、サリバンの立場とその理論が確かであったことの何よりの証拠になっているのは疑いようのない事実なのです。


※私が手紙を書いていると、彼女は私のそばに坐って、はれやかで幸福そうな顔付きをして、赤いスコットランドの毛糸で長い鎖編みをしています。
※今では私にキスもさせまし、ことのほかやさしい気分のときなら、私の膝の上に一、二分のあいだ乗ったりします。でも、私にお返しのキスはしてくれません。
※彼女は犬のそばに腰をおろすと、犬の足をいじりはじめました。最初は私たちは彼女のしていることが分かりませんでした。でも、彼女が自分の指で「d-o-l-l」と綴っているのを見て、私たちは、彼女がベルに綴りを教えようとしているのだとかわりました。

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月13日

 ここではサリバンがヘレン・ケラーとの2人暮らしにおいて、彼女が自分たちの家を訪問する人々の身振りを真似たり、授業が終わると嬉しそうにしている事等が綴られています。

2013年7月24日水曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日

 前回の手記までは、サリバンはヘレン・ケラーを「人間的な感情の機微に欠けている」と規定しながらも、言葉の節々では彼女を普通の少女として教育しようとしていた事が伺えました。


 ところが今回はどうやら事情が違うようなのです。サリバンは彼女と過ごしていく中で、彼女の欲求が成長に連れて大きくなる一方でその癇癪も大きくなっている事、自分の望みが叶えられるまでは決して争うことをやめない事、愛撫する事を拒む事(その他の、彼女のためにする行動は受け入れる)等から、ヘレン・ケラーという少女は子供らしい(人間らしい)感情に訴られるものをひとつも持っていない、ただ快不快があるだけの動物的な人物なのだと規定したのでした。そして彼女は普通の少女と同じく教育するといった方針を改め、ヘレン・ケラーを土台の部分から再教育していくことにしました。ここでいう土台とは、彼女が生まれてから培ってきた、それまでの生き方や教育(?)といったものを指します。つまりサリバンは、ケレン・ケラーを動物的に育ててしまった両親のもとから離し、それまでの土台を捨て去らせ、2人で別の家で生活する事で人間的な土台を形成しようとしたのです。


 そして彼女はまた、こうした手段をとることで、ケレン・ケラーに備わっている「ある能力」を呼び起こそうと考えています。具体的な箇所は下記に記しておきました。

私たちは心のなかにある何か、つまり知識や行動のためにもって生まれた能力を頼りにするほかありません。その能力は、それが大いに必要となるまで、自分たちが持ち合わせていることに気づかなかったものです。

 この箇所は前回私が末尾に書いておいた、「人間にできないことをうまくやってくれる何かの力」と同じ意味を持っています。これらの彼女の言葉から察するに、サリバンはヘレン・ケラーにもともとから備わっている、「知性」を教育によって引き出そうとしているのでしょう。そもそも彼女がこれまでその「知性」を発揮する必要がなかったのは、そうする必要がなかったからに過ぎないのです。彼女の環境というものは、ものを考えたり自分の身体を動かしたりせずとも、召使や両親が大抵の場合、問題を解決してくれていたのでしょうから。そうした意味からも、ヘレン・ケラーはそうした環境から離れ、自身の頭と身体を動かす事によって、「知性」を呼び起こさなければならなかったのです。

2013年7月22日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月、月曜の午後

 前回の手記でサリバンはヘレン・ケラーを「知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」と規定し、今回のそれでは上記の理論に基づいた実践面について書かれています。
 結論から述べると、サリバンの試みは成功とはとても言えないものでした。彼女はこれまで甘やかされて育てられたヘレンを、普通の子どもと同じく、自分の食事に手を入れようとすれば叱り、またナプキンをたたませることを教育しようとしたのです。ですが、ヘレンはそうした彼女の試みに対して、強い拒否の反応を示しました。かと言って、それが完全な失敗とも言い難いものがあります。拒否をしたのものの、結果としてはヘレンは彼女の食事を食べることは出来ず、彼女の強制力によってナプキンをたたまざるを得なかったのですから。
 こうして今回の実践では大きな課題を残す事になったのですが、ここでサリバンは末尾に何か秘策があるとも感じられる、ある奇妙な一文を記してあります。

「あとは人間にできないことをうまくやってくれる何かの力にお委せするだけです。」

 一体、「人間にできないことをうまくやってくれる何かの力」とは何なのでしょうか。実はこの言葉については、次の日記に明確に記されていありますので、その説明も次回とさせて頂きます。

2013年7月21日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日

 この作品ではタイトルにもある通り、アン・サリバンによるヘレン・ケラーへの実践記録を中心にして、ヘレンがどのように教育されていったのかが描かれています。その中でサリバンは、彼女が人間的な感情を一切持ちあわせておらず、ただ快不快だけがある野生の動物のようであると規定しました。そしてこの野生児を制服をすることで教育の土台をつくり、言葉を獲得させることで知性をあたえていったのです。
 そこで、ここでは具体的にサリバンがどのようにして上記のような方針を固め、具体的な実践に至ったのかを彼女の記録のひとつひとつを見ながら確認していきたいと思います。

 サリバンとヘレンが最初に出会った日、サリバンは彼女がどのような人間であるのかをじっくり「観察」していました。ここで注意しなければならないのは、「観察」というとなんだか受動的な意味合いが強いようなイメージがありますが、彼女のそれはあくまで教育という実践を前提とした積極的なものなのです。というのも、彼女はヘレンに指文字を感じさせたり、ビーズを糸に通させたりして、彼女は何が出来るのか、何について興味があるのかを探し当てようとしたのでした。その結果、ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女であるという結論に至ったのです。