山男は、ある時乱暴とも言えるやり方で山鳥を捉え、それをぶんぶんと振り回しながら森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝生の上に獲物を投げ出して仰向けになり、雲を見ながら夢の中へと誘われていきます。
夢の中では彼は木こりに化けて、街へ遊びに遊びに行っていました。山男はそこで陳という支那人と出会い、六神丸という奇妙な薬を貰い、飲むことになるのです。すると、彼はたちまち小さくなっていき、薬箱の中に閉じ込められてしまいます。山男は心底、悔しがりました。そしてその薬箱の中には、他にも彼と同じ境遇の人達が泣いており、皆六神丸を飲んだ為に小さくなってしまい、やがては身体まで六神丸になってしまったようです。その中の1人曰く、山男だけは身体まで六神丸になっていないので、薬箱の黒い丸薬さえ飲んでしまえばもとの姿に戻れるといいます。そこで彼は黒い丸薬を飲んでもとに戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを飲んで、再び山男を捕まえようとしたのです。
しかし夢はそこで終わり山男は目覚め、自分が投げた山鳥や陳や六神丸の事を考えた挙句、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言いあくびをするのでした。
この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったが故に、かえってそれを忘れなければならなかった、ある山男〉が描かれています。
大自然の中で我が力を大きく振り回す山男の姿からこの物語ははじまる訳ですが、その山男が物語の顛末に、自分と山鳥、陳と自分とを対比し、食うもの食われれるものの気持ちを知ることになります。というのも、彼は夢の中で半分薬に変えられてしまい、いかに悔しがろうが他の者達のように泣こうが、いずれは誰かに買われ飲まれる運命にあったのです。
ところが彼は夢の中とは言え、食われる者の気持ちを知ったにも拘わらず、考える事をやめていったのはどういうことでしょうか。答えは単純で、それは例え知ったところで他の動物達を食べなければ生きられない現実を変える事は出来ないからに他なりません。
それは人間たる私達も同じです。豚や牛、海老や烏賊などの動物を私達は当たり前のように食しています。そして例え、同情する機会を得ようとも、食べるときにはそれを忘れてすらいるのです。寧ろ同情する気持ちをいつまでも持ち続けていたらどうでしょうか。恐らく、行き過ぎた同情は人間の基本的な食事をする上で、弊害にすらなることでしょう。
物語の山男も矢張り同じです。彼も幾ら食べられる者の気持ちを知ったところで、否、知っているからこそ、これから先自分とは違った動物を食べる上で忘れなければならなかったのです。
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