ただ生きるという以外に何の目的もなしにいつまでも生き続けどこまでも生を続けていく種属というものは、客観的には滑稽だし、主観的には退屈なものだろうさ
『自殺について 他四篇』 ショウペンハウル著
月に一度の墓参りは最早、来島(くるしま)にとって欠かすことのできない習慣のひとつになっていた。彼はこの「岡崎」の墓前で手を合わせる事で、医者でありながら、否、医者であるが故に人の命を葬る自身の身を戒めているのである。目を瞑ると、これまで自身が生死の審判を下してきた者達の顔が浮かび上がってき出す。そして、それらの表情ひとつひとつが来島の使命感となって彼を突き動かすものへと転化してゆくのだ。また彼のそうした佇まいは、そのすらっとしていて整った容姿と相余って、霊魂を天上に送る天使のようにも見えなくもない。そういう神秘的な要素を意図することなく纏っているのである。そうして神秘の、目に見えない衣装を羽織った彼は、目を静かに、力強く開いて迷うことなくある方向へ向かおうとする。
すると、来島に向かって一台の黒い高級車がやってきた。その車は彼もこれまでに幾度となく乗ったことのあるものである。また、彼は心の何処かでこの車が自分を見つけてくれることを望んでいたようにすら感じていた。そして彼と車がちょうど並んだところで後ろの窓が開き、その奥には藤堂の姿があった。
「ここだったか。」
なんの感情もこもらせず、ただわざとらしそうにそう告げた。
「よして下さい、白々しい。」
この男ははじめから俺がここにいることを知っていたのだ、知っていたからどこかで待ち伏せしていたに違いない。来島の勘、藤堂との長きに渡る付き合いが、彼にそう囁くのだ。それが図星だったのか、藤堂は彼のこの言葉を鼻で笑い飛ばし、まぁ乗って話でもしようと誘ってきた。彼は躊躇することなく藤堂の反対側にまわった。
「話もいいですが、線香の一本ぐらいあげていったらどうです。」
それはかつての旧友の墓を訪れないことに対する、藤堂への避難の言葉であった。しかし、そんな来島の冷たくも温かい避難は、藤堂の冷めきった心に火をつけることはなかったのである。
「使者への手向けなぞ、生者の自己満足に過ぎん。それに、我々の間での話と言えば、これだけで充分だろう。」
そう言って藤堂は、自身のポケットからとあるメモを来島に渡した。そこには、次の仕事のクライアントの簡単な個人情報が走り書きで記されてあった。来島はそれをじっと見つめて、すぐにしまおうとはしなかった。
「仕事、ですか。」
「そうだ、すぐに取りかかってくれ。」
少し彼を突き放すかのように藤堂は言い放った。そしてそうした心持ちが来島にも通じたのか、それに応じるように、車から降り、やがて桜吹雪の中へと姿を消していった。
自身が余命半年と診断されて2度目の春を迎えた頃、安田隆一はこんな事を考えていた。自分はあとどれぐらい生き続けるのだろうと。ガンという病気が肺から全身にかけて蝕まれており、最早生への執着は一欠片も残ってはいなかった。寧ろ、この長きに渡る苦しみから解き放たれたいという、死への憧れの方が日増しに強くなっていくのが自分でもはっきりと感じられた。というよりも、その事以外に考えることすらできなくなっていた。身体の苦しみだけではない。そのうち寝たきりになってチューブで繋がれて生かされるということにもなるかもしれないしそれも恐ろしい。しかし何よりも安田に死を望ませる事は、妻の存在であった。これまで献身的に彼を介護し続けてきた彼女は、恐らく心身共に疲れきっている気がしてならなかった。最近ではその疲れを隠せないのか、お箸がちぐはぐに用意されていたりだとか、同じものを2個買ってきたりだとか、そういった妻らしからぬ間違いも増えてきたようにも思える。このまま自分に縛らせておくことは、この先の彼女の人生を奪っているような気がして安田にはならなかった。
ふと1ヶ月前にある知人に、こんな依頼をしたことを思い出す。なんでも最近では、他人の死を助けてくれるといった団体が存在し、事故や自殺に見せかけて殺してくれるのだという。安田はこの話を聞いた時、藁をも掴む気持ちであった。だが、実際1ヶ月経ってみればどうだ。音沙汰もない。やはりそんなにうまい話はありはしない。そう安田が思って窓の方を振り返った、まさにその時である。妻ではない何者かがうちの中へ入ってきているのだ。背は高く、髪も長い。しかし女ではなく、どうやら若い男のようである。向こうもこちらが気がついているのを察したのか、慌てることなく心地の良い低い声で挨拶をしてきた。
「遅くなって申し訳ありません。」
安田は度肝を抜かれた。まさかという期待と驚きが彼の全身を駆け巡った。男は挨拶を続ける。
「日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
安田にとって、日本タナロジー学会がどういう組織であるのか、来島という男が何者なのかといったことはどうでもよかった。ただあるひとつのことだけははっきりしていたのだから。この来島という男は、自分を殺してくれる為にやってきてくれたのだ。焦る気持ちを抑えながら、安田はしみじみとこう述べた。
「遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたが、こちらにも事情がありますので。」
「事情?」
「ええ、ですからこうして用心して、窓から失礼させて頂いたのです。」
安田にとってこれは奇妙な事に思えた。一体何に用心せねばならぬというのだろうか。保険会社か何かが、わざわざ自分がどうのようにして死ぬのかを見にくるということも考えにくいし、この男が警察に感付かれるような間違いを犯したとでもいうのだろうか。そんな彼らの、自分とは全く関係のない都合だけで死ぬ事を延期させられたかもしれないと思うと、安田は腹立たしくなってきた。
「何が事情だ?誰にも遠慮することはなかっただろう。」
「わかっていらっしゃらない、もっと慎重になってもらわないと。」
来島という男はややわざとらしく肩をすくめて、刑法202条にこんな条文があり、これから自分たちがしようとしている事はれっきとした犯罪だということを安田に教えた。
人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
だが安田には来島が何を言いたいのかよく分からなかった。
「だからなんだ、警察がかぎつけているとでも言うのかね?」
来島はあくまで落ち着き払って質問に答えた。
「そうではありません、私はこれでも医者です。下手をうつような事はしていません。学会の活動を面白くないと思っている者達がいる、という言っておきましょう。あなたが見つけたくらいだ。そろそろ世間が私たちの事に気がついてもおかしくはありません。私たちは死を処方します。人が自分で死期を決める権利を持つことをあまり道徳的ではないと思っている人達がいるんです。」
「そうかね?尊厳死は人に認められて当然の権利だと思うがね。」
「いいえ、ご理解頂けてない。尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもないのです。」
「うむう……。」
安田はここまで聞いて一切が飲み込めた。しかしこれから死ぬ人間が法律を気にしたって仕方がない。寧ろ法律を犯してでも、彼は死を羨望した。
「よかろう、これからは慎重になる。で、具体的には私はどうすればいい?いつ殺してくれる?」
「待って下さい。死は誰にでも処方できるものではありません。まずはあなたを審査させて頂きます。」
人を1か月も待たせておいて、一体何を、何の権利があって審査するというのか。こう思うと安田は自身の内から憤怒が湧き出てくることを抑えきれなかった。それを来島も感づかかない程愚鈍ではなかった。
「私たちのやり方に従って頂けないのなら話はこれで終わりです。」
「い、いや……それは、困る。」
安田は怒りを鎮めることに務めた。しかし、そうまでして他人に殺してもらおうとする彼の姿勢に来島は疑問を感じた。
「何故です。貴方は末期の肺ガンでもう余命幾許もないとお聞きしています。どうしてそこまで私たちに拘るのです。」
「そうだ、だが余命半年と言われ、もう2年と半分になる。私は自分の最後をせめて自分らしく迎える為に、自宅療養を選んだのだ。君も医者なら分かるだろう。ガン患者というものは症状が悪化していけば、そのうち寝たきりなってチューブで全身を繋がれて、そして最後には痛み止めで意識が朦朧としながら、家族に別れを告げられぬうちにあの世行き……。私ももう歳だ。これまでそのような死に方をいくつか見てきたが、それだけは嫌だと思ったものだ。だが、その私の我儘のせいで、妻がもう耐えられなくなってきている。あれはちょうど君たちの学会に依頼する2週間ぐらい前の話だ。私は妻の介護で飯を食っていたが、ちょっとした不注意で味噌汁を手から零してしまってね。妻がそれをとってこちらを振り向いた時に、それまで私をなんの文句も言わず、健気に世話をしてくれる妻はそこにいなかった。『別の何か』がそこにはいたんだよ。まるで煉獄に繋がれている亡者のようだった。妻は私という煉獄に囚われているのだ。だから何処にも行けず、何も出来ず……。元々妻は社交的で活発な性格で、私が病気をするまでは茶道を人に教えていた。しかしそれも私がこうなってしまって以来、ぱったりとやめてしまった。それが私という鎖に繋がれたまま、自分の人生を生きられないのはあまりにも不憫過ぎる。だから、一日でもはやく私を殺して欲しいのだ。」
こう述べる安田の顔は次第に目はカッと開き、口は釣り上がり、まるで鬼のような形相へと変貌していった。しかしこれとは対照的に来島の表情は穏やかで、まるで全てを見透かしたような笑みを浮かべていた。
「いや、感動しました。私も協力のし甲斐があるというものです。」
こうした彼の反応は安田の怒りを再び呼び起こした。が、またもぐっとこらえて、彼の次の句を待った。
「どうか心配なさらないで下さい。その時がくれば再び貴方を訪れます。」
「それはいつなのだ。」
感情を殺すようにして安田は聞いた。
「さぁ、ですがそう遠くはありませんよ。いずれまた来ます。それまではくれぐれも慎重に頼みますよ。」
来島はそう言うと安田の次の言葉も待たず、窓から去っていってしまった。
来島はその後、安田の死の審判のための準備に取りかかった。まずは情報屋でもあり彼の右腕とも言っていい鈴木の力を借りることにした。まずは相手の基本的な個人情報を調べさせる。すると安田は15年前まで大手総合建設業、所謂ゼネコンの役員をやっていた、エリートサラリーマンであることがわかった。だがこれだけで彼にまで死を処方して良いという判断はつかない。死を望んでいるのには、何か裏があるかもしれない。それこそ、自分たちの対抗勢力がなんらかの形で絡んでいる事も否定出来ない。そこで来島は藤堂に頼み、安田宅の近くのマンションの一室を借り、鈴木に彼のデータを集めながら安田の動向を覗うことにした。鈴木はプロだ。仕事に関して一切文句を言わず、昼夜を問わず盗聴器に耳を傾けていた。ただ来島の差し入れだけは容認できないものがあるらしく、一言が二言、二言が三言と小言が増えていった。しかし、その盗聴の成果も虚しく、安田はいつもと変わらない日常を送っているようだ。彼の一日のうちの会話といえば食事や入浴の時に妻の問いかけに「ああ」や「うん」と答えるぐらいで、怪しい言動はひとつもなかった。
ただ収穫がなかったわけではない。退屈で眠くなるような張り込みの傍らで、鈴木は彼の戸籍標本をインターネットからハッキングして手に入れていたのである。そしてこの戸籍のコピーを手にした時、来島の目は鋭く光った。そこには彼ら夫婦には嘗て息子が存在していた事が記載されていたのだ。
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