2014年10月1日水曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合(上)


 肌を突き刺すような風がやわらぎ、桜の葉が優雅に空を舞う季節になった頃の事である。小鳥たちが生命の息吹を祝福し、人々が新しい生活に向けて清々しく太陽の下を歩いているにも拘らず、安田隆一だけはただ1人、薄暗い家の中で悶々としていた。彼は布団に潜り込み、自分はいつ死ねるのかという事ばかりを暗中模索しているのである。医者から癌という告発を受けて2度目の春になるが、彼の心中では既に遥か遠い昔の事のように思えた。それ程までに癌による痛みと苦痛は彼の心身を蝕んでいたのである。最早、生にすがる意欲を失い、死が甘美な囁きとなって彼を誘惑してくるのだ。いっそのこと手元にある薬を飲んで死んでしまおうとさえ考えた事もある。しかし、いざやろうと思っても妻の顔がちらつく。ただでさえ自身の看病で苦労をかけているのに、非常識な死に方をして最後まで困らせるような事は安田には到底出来なかった。
 何かうまい死に方はないものか。そうした事を考えていると、以前に自殺を専門に取り扱ってくれる団体に連絡をとったことをふと思い出した。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。が、そこに連絡すれば、死を望んでいる人間に対して、安らかな眠りをもたらしてくれるというのだ。はじめは安田自身、巷で下らない噂話が横行しているものだなという風にしか思っていなかったのである。しかし彼の死への羨望が徐々に膨らんでいくに連れて、そうした与太話を信じる気になっていった。ところが電話で連絡がとれ、死にたい旨を伝えたかと思えば、相手はそのまま受話器を切ってしまい、其の侭音沙汰はない。それから暫くの間、彼は自分の愚かさに羞恥した。が、電話が繋がった事は紛れもない事実として安田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。もしかすると、という淡い思いは今でも彼の胸の内で燻っているのである。


 徒労とも思える思案に飽きてきた彼は、ふと虚ろな眼で窓をみた。辺りはすっかり暗くなり、月がぼんやりとした光を放っている。ここで彼はある異変に気がついた。窓からひんやりとした風が入ってきているのだ。普段であれば、妻が夕食を終えた後で閉めてくれるのだが、今日は忘れてしまったのかと安田は思った。しかし彼女が窓の傍に寄って閉めているところをしっかりとその目で見ていたことを思い出した。窓をじっと見ていると、更なる異変を感じる。開け放たれた窓の傍に、何者かが立っているのである。しかしこうした非常識な状況においても、生きることに興味を失った安田が冷静さを失うことはなかった。淡い月の光で何者なのかはよくわからない。が、どうやら長身の、恐らくその逞しい肩幅から察するに男である事はよく分かった。彼はゆっくりと無気力に尋ねる。
「誰だ、そこにいるは。」
 そう言うと男は一歩前へ出た。するとうまい具合に月の光が男を照らしだした。彼は女とも思える端正な顔立ちとツンと長い鼻をした青年である。
「申し遅れました、日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 彼は事務的な口調と表情で話した。安田にはなんのことだかさっぱり分からない。そしてこうした怪訝そうな彼の表情を見て、来島と名乗る青年は続けた。
「以前に私たちの団体に電話をかけて下さいましたよね?」
 その刹那、安田の表情がはっとなった。薄暗く先の見えなかった心中に、一点の力強い光が差し込んでくれたような思いがした。彼は目に涙を溜めながら、眼前に現れた神からの使者を見つめた。
「やっと来てくれたか……。」
「ええ、お待たせして申し訳ありません。」
「構わん。で、いつ俺を殺してくれるのだ。」
 逸る気持ちを安田は抑えられなかった。しかしそうした彼とは対照的に、来島は落ち着き払っていた。
「そう慌てないで。まずは貴方を審査しないといけません。」
「何?審査だと!!」
 その言葉を聞いた瞬間、安田の表情は一気に曇った。何か人を小馬鹿にされたような心持ちになったのである。
「ええ、死は誰にでも与えられるものではありません。死を与えるに値する方と判断した場合のみ、処方して差し上げる事が出来るのです。」
 安田の表情はみるみる険しくなっていった。この若造はただ上からの使いでここにきたに過ぎず、自分の事などちっとも理解してくれていない。そう察したのである。
「お前には分からんかもしれんがなぁ、俺は待たされている間の数ヶ月、死にたくて死にたくて仕方がなったんだ!その上に審査だと!!」
 安田の剣幕には、今にも来島の胸ぐらを掴まんばかりのものがあった。しかしそうした勢いに対しても、彼は全く動じなかった。
「ええそうです。理解して頂けない場合、話はここで終わりです。」
「……むぅ。」
 こう言われてしまうと流石の安田も閉口せざるを得なかった。彼は口惜しげに唇を歪めていた。そうした安田を見かねて、来島は安田に問いはじめた。
「一体何故です。貴方は数年前から癌を患っているようですが、もう余命幾ばくとない命じゃないですか。何故私たちに拘るのですか。」
 すると安田の表情はみるみる苦しい者へと変わっていった。元来嘘がつけない安田としては、幾ら嫌悪を抱いている相手であっても表情を偽る事が出来ないのである。彼は俯き、頼りない声でボソッと呟いた。
「………妻だ。あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ。」
 その言葉には、安田とその妻奈保子との十数年の気まずい距離感がにじみ出ていた。


 もともと彼らは仲睦まじい夫婦であり、子宝にも恵まれた。名を隆之と言い、彼らは一人息子に溢れんばかりの愛情を注いだ。だが、隆之が小学校に入るか入らないかの年齢に達した頃、その日は強い雨風が吹いていた。妻が目を離した隙に外へ出ていき、川へと落ちてしまったのである。彼がいないことに気がついた妻は、すぐに出張中の夫に電話をした。ところが当時働き盛りであった安田は、出張を優先した。我が子を心配しない親などいるはずがない。しかし仕事に対する責任感が、彼を家には帰らせてはくれなかったのだ。その数日後、隆之は変わり果てた姿になって自分の家に帰ってきた。
 それ以来、夫婦の間には深い溝が出来てしまった。夫は滅多なことでは家によりつかなくなり、妻は妻でお茶の稽古や習字など習い事に専念するようになっていった。しかし、それでも妻は毎朝夫のポットに熱い緑茶を入れることを1日たりとも怠らなかった。家に帰ればいつでも手の込んだご飯が彼を待っていた。こうした彼女の気遣いは、かえって安田の心を痛めた。こうした気配りが、2人の間の歪を浮き彫りにされているような気がしてならなかったのである。
 ところが自分がいざ病気をすると、不思議と今度は妻との関係を何処かで取り戻せる気になってきた。安田は医者の引き止めるのを無視し、通院と入院を拒み、自宅療養を決めた。はじめはぎこちないながらも、妻に話しかけてみたり、彼女の体調を労ったりした。彼女のそれに応じて、慣れないような受け答えをしてみせた。
 だが、数十ヶ月前の事である。安田は自分の不注意で味噌汁のおわんを零してしまった。すかさず妻がそれを片付けている時、彼は見てはならぬものを見てしまったのである。妻の横顔を見た時、全身から冷や汗をかいた。まるで天国にも行けず地獄にも行けず、煉獄にずっと繋がれている亡者のような形相を浮かべていたのである。その顔を見た瞬間、今までの妻の笑みが偽りであったかのように思えた。今では自分が家にいることは妻をいたずらに疲れさせているだけのような気さえするのである。
 隆之が死んだあの日以来、安田は妻にとって邪魔なだけな存在になったことを確信したのである。


 安田は下を向いた儘、一向に来島の方を見ない。ただぼんやりと何処を見ているわけでもなく、空虚な考えに耽っているようにさえ見えた。そんな安田を見ていた来島は、一瞬冷たい視線で彼を見下し、唇に笑みを浮かべた。が、安田に悟られる前にすぐにもとに戻し、無表情の儘、矢張り事務的に話した。
「成る程、奥さんの負担を考えての上での判断という訳ですか。ですが審査はさせてもらいます。安心して下さい。近いうちに必ずきますよ、奥さんの為にも。」
 最後の言葉を聞いた瞬間、安田は漸く来島の方を哀願の表情で向き直した。来島は穏やかな笑みでそれに応じた。
「本当なのか、嘘じゃないだろうな?」
「ええ、近いうちにお会いしましょう。審査はすぐに終わりますよ。」
 そう述べると、来島は一歩下がり、出てきた窓を跨いで闇の中へと消えていった。残された安田は、まるで夢の中にでもいるような顔で、暫くその窓を眺めていた。

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