2012年8月30日木曜日

心中ー森鴎外(未完成)

 これは著者がお金(きん)という女性から聞いた実話を、そのまま作品として描いています。
 それは彼女が川桝(かわます)という料理屋で働いていた頃の話です。ある冬の夜、彼女の同僚であったお松は用をたしに便所へ向かおうとしていました。すると新参のお花という娘が、彼女と共に便所へ向かいたいと申し出てきました。実は、彼女はその時女中の間で噂になっていた、便所の近くの茶室まがいの四畳半の部屋に白い着物を着た人がいるという話を気にして、我慢していたのです。
 こうして2人は真夜中に便所へ向かう事になったのですが、その途中、彼女たちは噂になっている部屋のあたりから、「ひゅうひゅう」という音を聞いてしまいます。さて、一体それはなんの音だったのでしょうか。

2012年8月26日日曜日

サフランー森鴎外

 子供の頃、本好きだった著者は自身の父からオランダ語を習っていた時のこと、彼はオランダ語の辞書からサフランという言葉に興味を抱いたことがありました。しかし、その興味というものはそれ以上強くなることはありませんでした。
 やがて月日は経ち半老人となった彼は、ある日花屋でサフランを買って帰りました。ですが、花は2日でしおれてしまいました。ところが、その翌月になるとしおれたはずのサフランが青々とした葉を出しているではありませんか。これを見た著者は、サフランに対してある感情を抱いていくようになります。

 この作品では、〈自分の所有物に対する、ある著者の冷たさ〉が描かれています。

 サフランが再び葉を茂らせているところを目撃して以来、著者は折々水をやるようになっていきました。ですが、これはサフランに対する愛情からではありません。では何故彼はサフランに水をやろうと思ったのか。というのも、一般的に見れば、著者の行動というものは、ある見方をすればそれは野次馬と見られても仕方のない事のようにも思います。そうかと言って、やらなければやらないで独善や冷酷といった見方をする人々もいることでしょう。ですが、そういった事が頭をよぎりながらも、その動機というものは彼自身にも明確には分からなかったようです。ただ彼はサフランと自分の関係について、下記のように考えて自身の行動を納得させています。

◯しかしどれ程疎遠な物にもたまたま行摩の袖が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。

◯宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。

 つまり彼は、確かに自分はサフランと接点はあるが、それは非常に弱いものである。そして私が水をやろうとやるまいと、私が私なりに生きていくようにサフランもサフランなりにいきていくだろう、と考えています。ですから彼は、自身の花に水をやりたいという衝動を抑えることなく、それを実行することが出来たのです。

2012年8月24日金曜日

蟹のしょうばいー新美南吉

 ある時、蟹はいろいろ考えた挙句、とこやをはじめる決心をしました。ところが、自分より大きな生き物である狸から仕事を引き受けたところ、3日かかってしまいました。ですが、今度はその狸から自分よりはるかに大きいお父さんの毛も刈って欲しいと言われてしまいます。そこで、自分一人ではそれは大変なことだと考えた蟹は、自分の子供達みんなをとこやにしたのでした。こうして蟹という生き物は、手にハサミを持つようになったのです。

 この作品の特徴は、〈大人が自分たちが理解出来ていない、或いは出来ていても説明できない物事を子供たちの理解できる範囲で説明している〉というところにあります。

 私達が子供から質問を受けた時、しばしば困らされた、或いは自分が子供の頃に大人達を困らせてしまったことはないでしょうか。地球は何故存在するのか。どうして朝と夜があるのか。私達は何故5本の指を持っているのか……。これらの質問を子供たちは多くの場合、決して大人達をからかって聞いているのではなく、純粋な好奇心から聞いている事でしょう。ですから、子供の教育する立場である私達としては、そうした質問に誠実に答えてあげたいものです。しかし、子供達はしばしな私達ですら理解できていない事、説明出来ない事を聞いてくることがあります。
 そこで、私達にはどうしてもこの作品のような、現実とは違った世界観をもつことが必要となってきます。そして、こうした世界観は子供達への説明に一定の説得力を持たせる手助けとなるはずです。やがてこうした説明は子供達が自分自身で物事を考えられるようになるまで、考える土台として機能する事でしょう。

2012年8月21日火曜日

食堂ー森鴎外

 ある時、木村は役所の食堂に入り食事をとっているいると、上官と口ぶりが似ている男、犬塚に何らかの悪意があるかのように話しかけらます。犬塚は最近世間を騒がせている、無政府主義に興味を持っている様子。やがて彼らは、その後二人の話に間に入ってきた、山田という男と3人で無政府主義について話しはじめるのでした。

 この作品では、〈無政府主義に対するある知識〉が描かれています。

 この作品では、著者が登場人物である木村の口を借り、先生役として無政府主義の由来、及び歴史を紹介しています。そして、生徒として犬塚と山田が彼に話を促す役割を担っています。
 そして、こうした先生役と生徒役に分かれて、ある種の知識を登場人物たちが調べ読者に発表するという手法は、現在の漫画等の書物にも用いられています。ですが、一般的にそうした書物では先生役と生徒役はそれ以上の役割を持っておらず、人間模様も平面的なものになりがちではないでしょうか。
 ですが、この作品の場合はどうでしょうか。例えば、生徒役の犬塚は単純に木村に話を促すだけではなく、「君馬鹿に詳しいね」と何度か冷やかしています。そもそも犬塚という人物は、他の人々よりも立場が上らしく、食堂から特別に専用の弁当をつくってもらっているくらいです。そんな彼からしてみれば、自分より下の立場である木村が自分以上の知識を持っている事が面白くなかったのかもしれません。ですから、彼はあえて木村に無政府主義に関する知識を披露させる事で彼を冷やかしたとも考えられます。
 また木村は木村で犬塚との話に興が乗らないのか、話が終えると弁当箱を風呂敷に包んでさっさと出ていこうとしています。こうした行動は、あえて登場人物を退場させようとすることで、彼らが無政府主義に対する知識を語らせるという著者の意図とは別に、あくまで彼らの自由意志で話をしているように読者の私達は感じることでしょう。
 こうして著者は登場人物たちの人間模様に深みを持たせることで、無政府主義に対する知識を発表するという本来の目的とは別に、小説としての世界観をこの作品に持たせているのです。