2015年8月8日土曜日

おぎんー芥川龍之介

 元和か寛永かの物語です。裏山の山里村に、「おぎん」と云う童女が住んでいました。彼女の父母は仏教を信仰しており、大阪から流浪した後、すぐに死んでしまいます。そして孤児となったおぎんは、「じょあん孫七」(まごしち)からキリスト教の洗礼を受けて、彼と「じょあんなおすみ」の養女となりました。
 ですが、当時は世間のキリスト教への信仰が許されていなかった時代。あるクリスマスの夜、役人たる悪魔は彼らの信仰の現場を発見し、民衆の前で火炙りにかけようとしたのです。唯一助かる方法は、神の教えを捨てることでした。そうすれば、役人は彼らを許してくれると云います。しかし強い信仰心を持った孫七とおすみは、決して悪魔の誘惑には負けません。彼らは、教えを守った先には、はらいそ(天国)へ行き、イエスとマリアの傍にいけると固く信じているのです。
 ところが、おぎんだけは違いました。
「わたしはおん教を捨てる事にしました。」
 この一言は、群衆や役人だけではなく、孫七やおすみも驚かせました。彼らはおぎんが悪魔にすっかり魅入られてしまったと思っていたのです。やがて諦めの念が二人の心に宿ろうした時、おぎんは口を開きます。

「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」

 このおぎんの決意を受け止めたおすみは、涙を見せはじめます。一方の孫七は、一体何が正しいことであるのか分からなくなっていきました。そして孫七はおぎんの顔を見ました。すると、彼女の眼には無邪気な童女のそれだけではなく、「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」」の光が宿っていたのです。このおぎんの眼に説得された孫七はとうとう堕落し、いんへるの(地獄)へ落ちることを決意します。

 後世、この物語は、キリスト教の人々があった受難のうちでも、最も恥ずべき躓きとして残りました。そして悪魔はその夜、それを嬉々として大きな書物に化けて夜中刑場を飛んだといいます。ですが、それほど喜ぶほどのものであったのか、著者は懐疑的だというのです。

 この作品では、〈キリスト教としての教えに背いたが故に、かえって自分の中に信仰の光を宿した、ある少女〉が描かれています。

 この作品が動きはじめるのは、言うまでもなくおぎんの下記の一言からです。

「わたしはおん教を捨てる事にしました。」

 この一言を聞いた時、人々は大きく動揺しました。キリスト教を信仰する人々にとって、信仰を守る為に死んでいくことは、生きていくこと以上に誉れであり、死後の幸福が約束されているのです。そしてそれはいかなる理由があっても背くことがあってはならず、信仰を捨てればいんへるの、つまり地獄へ行くことになっています。ですから孫七たちはおぎんのこの一言を聞いた時、真っ先に悪魔からの誘惑を疑い、必死で彼女を説得しようとしたのでした。
 ですが、おぎんのこの意思決定は、生みの親を思ってのことだったのです。と言いますのも、彼女の生みの両親は仏教を信仰していました。無論、これはおぎんたちにとって、間違った信仰の対象であり、死後彼らはいんへるのへ堕ちたと考えられています。ですからおぎんは、いんへるのに堕ちた父母の事を想うと、どうしても一人だけはらいそへ行く気にはなれなかったのです。しかしその一方で、育ての親である孫七やおすみが死ぬ運命にあるにも拘わらず、自分だけ生きていても、二人に申し訳がたちません。そこで彼女は一度信仰捨てた後、自分も死ぬ事を決意したのです。
 このおぎんの双方の親を想う気持ちに心打たれたのは、じょあんなおすみでした。彼女はおぎんの決意を聞くと、涙を流しはじめます。無論、これらかはらいそへ行こうという者にとっては、あってはならぬ事です。そんな妻を見て、孫七の心も揺らぎはじめます。命を賭して自分の信仰の正しさを知らしめていこうとしている一方で、養女が生みの親と育ての親、両方の事を想った上で信仰を捨てると言っているのです。恐らく孫七にとって、どちらが正しいものであるか、判断がつかなかった事でしょう。そして彼はふと、おぎんの方を見ました。その様子が下記にあたります。

いや、もうおぎんは顔を挙げた。しかも涙に溢れた眼には、不思議な光を宿しながら、じっと彼を見守っている。この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」である。
「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」

 孫七はおぎんのこの眼を見て堕落を決意したことが推察されます。一体その眼には、おぎんのどういった信仰、態度が示されていたのでしょうか。それはおぎんとそれまでの孫七やおすみの信仰のあり方と比較することで読み解けれるはずです。
 二人の信仰というものは、ただ経典に書かれたキリスト教としての教えを守るという、その一点に過ぎません。それだけを長い間続けてきた彼らはただ教えに従っていれば、自分たちの信仰を貫いたということになります。言わば彼らの信仰は、経典という、彼らの外側にあったことになります。
 一方、おぎんの信仰というものはどういったものだったのでしょうか。「生みの親と育ての親を命をかけて大切にしなさい」などということは、恐らくどの経典にも載ってはいません。
 ここからは私の憶測になるのですが、育ての親と死別したおぎんは、孫七たちからキリスト教の洗礼を受けて以来、間違った信仰をしていた生みの親に対し、憐れみが何処かしらにあったのでしょう。そして信仰を学んでいく中でその想いは大きくなっていき、いよいよ自分の死が目前となった時、おん教を捨てるという表現として表れてきたのです。これは言わば外側から与えられた解答などではなく、自分の内側から出てきた小さな問題意識が童女の中で時間をかけて育まれ、新たな、別の信仰めいたものとして出てきたのでしょう。著者がおぎんの眼を、「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」と表現したのもその為です。
 そして孫七もおぎんの眼を見た時、自然と自分の信仰とおぎんの信仰を比較し、おぎんの信仰の強さを眼から感じ取り、いんへるのへ向かう決意を固めていったのでした。

 信仰とは、ただ教えを守ることだけではなく、自分がそれまで向き合ってきた問題に対し答えを出し、それに忠実に従う事も指すのです。

2015年3月1日日曜日

橇ー黒島伝治(未完成)

 日露戦争時、日本軍は雪が降るシベリアの地を攻略するため、地元の馭者達を利用しました。日本人は彼らに、少し荷物を運ぶだけだからと嘘をついて、自分たちと共に戦地へと赴かせたのです。こうした依頼には、馭者の1人である「イワン」も警戒はしたものの、結局はお金と彼らの話術によって騙されてしまいました。

 一方日本軍側では、兵卒である「吉原」は、大隊長や戦争について、いくらか疑問を感じていました。彼は大隊長のお世話をする、従卒をした経験から、将校が食べる食事と兵卒のそれとには大きな違いがあることを知っていたのです。また吉原は自分の容姿が大隊長の眼鏡に適ったことから、従卒に抜擢されたことも知っており、将校達にこれほどの権限が本当にあるのかと考えるようになっていったのでした。
 また、家畜を徴発されたシベリアの農家の人々や戦争に巻き込まれて死ななければならなかったシベリアの人々に同情し、一体何の為の戦争なのかを考えずにはいられなくなっていきます。

 そしてそんな馭者と日本軍は、いよいよロシア軍と交戦します。激しい戦闘が一時間ほど続いた後、日本軍は勝利しました。
 しかし、吉原は戦争に巻き込まれて無残にも自軍によって殺されてしまった子父を見て、
「戦争をやっとるのは俺等だよ。」
 と言って、他の兵卒と共に戦争を放棄しようとします。
 しかしそれを知った大隊長は、吉原が拍車を錆びさせたこと、自身が大佐の娘に熱中していることを言いふらしたこと等の私怨から、「不軍記な!何て不軍記な!」と言って、彼を痛めつけます。

 一方それを見ていたイワンは、戦慄し、日本軍に騙され憤慨している他の馭者たちと共にその場を去ってしまいます。取り残された大隊長はそれを部下の不注意のせいにしました。ところが、兵卒は兵卒で、捨て駒として彼らをシベリアに寄越した者の手先となって、彼らを酷使した大隊長に自然と銃剣を誰もが突きつけたのです。

2015年2月26日木曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)

 ある時、山男は獲物である山鳥を捕らえたことに気を良くして、それを振り回しながら森を出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝に獲物を投げ出して、寝っ転がります。すると彼は自分でも気づかぬうちに夢の中へと旅立ってしまいました。
 夢の中で彼は木樵に化けて、町へと下りていたのです。そしてそこで山男は「陳」という、薬売りと出会います。彼は陳を警戒して、「薬はよろしい。」というのですが、その声があまりにも大きかった為に、周りからの注目を集めてしまいました。それに気づいた山男は、慌てて「六神丸」と呼ばれる奇妙な薬を呑むことになったのです。
 すると薬を呑んだ彼は、みるみる身体が小さくなり、陳の薬箱に閉じ込められてしまいます。「しまった」と思うも後の祭り。山男はどうにかして、その理解し難い状況を飲み込もうとします。その時、なんと薬箱の中の何者かが山男に、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてくるではありませんか。彼は「おれは魚屋の前から来た。」と腹に力を入れていいました。
 しかしその声があまりにも大きかった為に、陳に怒鳴られてしまいます。しかしこれに気を悪くした山男は、もう一度大きな声で怒鳴り返しました。すると陳は、彼が叫ぶと町の者に彼の正体がばれてしまい、生活ができなくなってしまうと嘆き始めます。これに同情した山男は、陳にもう叫ばないことを約束します。
 そうしてその場が落ち着くと、山男は再び、自分に声をかけた人物を探し始めます。それは矢張り、山男と同じように、陳に騙されて六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人曰く、山男は六神丸を呑んでまだ時間が経っていないので、薬箱の中にある黒い丸薬を呑めば元の姿に戻るというのです。そして自分たちも、水に浸かった後に丸薬を呑めばもとに戻るといいます。
 そこで山男は、タイミングを見計らい、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。ところが、黒い丸薬を呑んでもとの姿に戻ったはいいものの、陳も丸薬を呑んで大きくなり、山男を捕らえようとします。
 やがて山男が捕まり、「助けて」と叫んでいるところで夢から覚めます。現実に戻ってきた彼は、投げ出された山鳥や陳や六神丸の事を考えるものの、ただ
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 と言うばかりだったのです。

 この作品では、〈獲物の気持ちを理解したにも拘らず、捕食者としての生活を優先せざるを得なかった、山男の姿〉が描かれています。

 上記の「一般性」を考えるにあたり、もう一度物語を、山男の「獲物」に対する捉え方の変化を見ていきながら整理してみましょう。

 夢の中で陳に捕まるまでは、山男にとって「獲物」はただの食べ物に過ぎません。また枯れ芝に山鳥を投げ出す描写から察するに、彼は山鳥に自分と同じ精神が宿っている、という事すら認めてはいなかったでしょう。
 ところが陳に捕まり閉じ込められてしまったことによって、彼の内面に変化が生じます。それまで捕食者であった山男は、陳に捕まったことで獲物となり、どうにかその信じ得ない状況を理性的に理解しようとします。ですがなかなかそれを受け止められない彼は、陳に怒鳴られると怒りのあまり、怒鳴り返してしまう始末。そして陳もこうした山男の態度に困り果ててしまい、つい泣き言を漏らしてしまいます。
 ここでも再び山男の内面に変化が生じます。それまで獲物として捕まってしまった事に腹を立てていた彼が、なんと陳に同情しはじめたのです。恐らく、嘗ては陳と同じく捕食者の身であった山男は、捕食者の立場から陳を理解したのでしょう。そして捕食者の立場から獲物の役割を理解し、静かにすることを約束したのです。
 ですが、いざ黒い丸薬を呑んで元の姿に戻れることを知った山男は、一体どうしたでしょうか。迷うことなく黒い丸薬を呑んで、陳のもとから逃げようとしました。幾ら陳の気持ちが理解し、獲物の立場を分かろうとも、矢張り食べられたくないものは食べられたくありません。そしてその挙句、陳に捕まり生命の危機を極限のところで感じた刹那、夢から醒めてしまいます。
 こうして山男は、生きたくても生きられず、ただ大人しくしておくか、最後まで藻掻くかしか出来ない獲物の気持ちを知っていったのです。
 ところがここで大きな問題が残ります。それは獲物の気持ちを垣間見た儘に、現実の捕食者としての立場に戻ってきたことに他なりません。捕食者として生き抜く上で、それを知ることは弊害以外の何物でもないのです。たった一瞬の躊躇が獲物を逃し、狩りに支障をきたすとも限らないのですから。よって彼は、
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 などと言って、自身の生活のために、獲物の気持ちをなかったことにするしかありませんでした。
 一方の都合を知ることは、もう一方の都合を果たす上では、障害にしかならないことだってあり得るのです。

2015年2月23日月曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)(修正版)

 「スバー」はバニカンタの、3人娘の末の子としてこの世に生を受けましたが、生まれながらに唖でした。その為に、人々からはまるで感情がないように扱われ、母からは自身の不具のように忌み嫌われて育ってきたのです。その変わりにスバーは美しい容姿と感情豊かな心を持ち合わせていました。が、感情が豊かな故に、そうした人々や母の仕打ちに日々深く傷つけられていきます。
 そんな彼女にも幾らかの友人がいました。2頭の牝牛とプラタプという青年です。彼は怠け者(と言っても、インドの怠け者は日本のそれとは違い、仕事が休みの家に行き、客として相手を楽しませるという、職業的な側面も持ち合わせています。)で魚を捕る事が好きで、スバーはそれをいつも見守っていました。またプラタプにとっても、彼女の存在はそこにいるだけで彼の大きな手助けとなっていたのです。
 しかしそんなスバーも、時が経ちお嫁に行かなければいけない歳になってしまいます。両親は世間体から、この不具の娘をどうにかして嫁がせようと躍起になりました。そうして彼女はカルカッタの家へ嫁ぐこととなったのです。ですがスバーはお嫁に行きたいとはちっとも思っておらず、ただ嘆くばかりでした。そしてあれ程仲のよかったプラタプすらも、「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」と、スバーの心を分からず別れを告げてしまいます。
 ところが、そうして嫁いだ先にも、結局は彼女が唖だと分かると追いだして、花婿は再び、今度は口の利ける花嫁を貰うことにしたのでした。

 この作品では、〈言葉にならない言葉、声にならない声が、この世には「確か」に存在する〉ということが描かれています。

 私たちはどうして人の気持ちを読み違えたり、それを疑ったりするのでしょうか。それは「気持ち」というものが、物理的な形で存在しないからに他なりません。そしてそれだけに、言葉を話せない人々の「気持ち」というものはますます希薄になってしまいます。
 この作品に登場するスバーも、唖故に、「気持ち」という目には見えないものの存在を周りから認められなかった者の1人です。ですが彼女は本当に言葉を持ちあわせていなかったのではなく、寧ろあり余るほどの感性を持った少女だったのでした。
 ですが、この物語の悲劇というものは、それなのにスバーの気持ちを理解した者が1人もいなかったというところにあります。母も父も花婿も、一緒に釣りをした仲であったプラタプですらも、彼女の気持ちに気付かず、快く彼女を見送ってしまいます。
 しかしそれを知り得る唯一の人物が世界の何処かにいるとすれば、それはこの作品を読んだ私たちに他なりません。無論、だからと言って、物語のスバーに直接何かしてあげる事は出来ないのです。ですが、こうした「言葉にならない言葉、声にならない声」の存在に耳を傾ける事が出来ます。ましてや日本人たる私たちは、他の国々の人々よりもそうした事にただでさえ敏感でなければなりません。夫が妻に「愛してる」と生涯言わなかったからと言って、妻の事を果たして想ってはいなかったのでしょうか。息子が親に「有難う」と言わなかったからと言って、年老いていく親の身を案じていないことになるのでしょうか。
 文学というものは、人々の心の特殊的なあり方や内面の変化を文章によって表しています。そしてそうして綴られた言葉のひとつひとつが、理解され難い人々の気持ちを理解する、大きな手立てとなってゆかねばなりません。
 ですからスバーの存在を物語によって描くということは、そうした知られなかった彼女の悲しみを人々に知らしめる事でもあり、そしてそれは作家にとっての大きな使命でもあるのです。

山男の四月ー宮沢賢治(修正版3)

 ある時、山男は山鳥を捕らえた事に気を良くして、ぐったり首を垂れた獲物をぶらぶら振り回して森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝まで出てくると、獲物を投げ出してごろりと寝っ転がり、雲を眺めはじめます。すると、なんだか彼の足と頭は急に軽くなり、いつの間にか木こりの姿に化けて、町へ出かけていました。
 町へと来た彼は、そこで「陳」という薬売りに出会い、「六神丸」と呼ばれる薬を売りつけられます。山男も彼を怪しいとは思い、「よろしい」と大きな声でいいました。ところがその声があまりにも大きかったので人々の衆目を浴びてしまいます。慌てて山男は六神丸を買うことにしました。ですが、陳は買わずともただ呑んでくれさえすれば良いというのです。そこで山男は薬を呑んでしまうのですが、それを呑んだ途端、彼の身体はみるみる小さくなっていきました。そうして小さくなった彼は、陳に捕まり、薬箱の中へ入れられてしまったのです。
 「やられた畜生」と思うも後の祭り。彼は誰かに売られて誰かの口に入るのを待つばかりなのですから。ですから山男はどうにかして、その信じられない事実を受け止めようとします。そんな事を彼が考えていると、何者かが、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてきました。山男は「俺は魚屋の前から来た。」と応えます。
 すると陳は「声あまり高い。」と言って注意しました。しかしこれに気を悪くした山男は、再び大きな声で陳を怒鳴ります。すると陳は暫く黙った後に、そんなに騒がれると商売が成り立たず、生活できなくなってしまうと嘆きました。この姿に山男は同情し、彼にもう騒がない事を約束します。
 そして陳が歩き出したらしい事を確認すると、彼は再び声の主を探しはじめます。声の主は矢張り六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人は薬箱にある黒い丸薬を呑めば、元の姿に戻れる事を山男に教えました。支那人達は既に身体まで六神丸になっているので呑むことは出来ませんが、山男はまだ時間が経っていないために、元に戻れるというのです。
 そこで彼は、タイミングを見計らって黒い丸薬を呑んで元の姿に戻り、陳から逃げようとしました。ところが陳も丸薬を呑んで今までの倍の大きさになって、山男を掴んでしまいます。
 「助けてくれ」と山男は叫びますと、夢はそこで終わりました。夢から覚めた彼は、六神丸や陳のことを考えたり、投げ出してある山鳥の羽を見たりした後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言うのです。

 この作品では、〈獲物の気持ちを理解したが故に、捕食者の都合を優先してそれを忘れなければならなかった、山男の姿〉が描かれています。

 上記の一般性を論証するために、もう一度、物語のはじめに立ち返り、山男の心情に深く分け入って、「獲物」という存在がどのように変化していったのかを見ていきましょう。

 夢を見る以前、山男にとっては「獲物」は獲物で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
 問題は六神丸を陳に呑まされたところからです。山男は自分が「獲物」として他の者に捉えられてしまったという、これまでにない、信じられない事実を理性的に受け止めようと努力します。しかしそれはなかなか受け止められず、捕食者である陳に抵抗しました。
 ところが陳が山男が騒いで、危うく他の人々に正体がばれそうになり泣き言を述べはじめると、山男の態度も変化をみせます。嘗て捕まるまでは自分も捕食者の身であった為に、捕食者たる陳に同情を寄せたのです。そして彼は、捕食者の立場から客観的に獲物の立場をわきまえ、大人しく捉えられている事を約束します。それが捕食者から見た時の、獲物の正しいあり方なのですから。
 ですが六神丸になった支那人の話を聞いて、彼の心は再び大きく揺れていきます。一度は助からない以上、陳の言うことを聞こうと考えた山男ですが、本心は矢張り助かりたいのです。山男はそのタイミングを見計らうために、獲物としての役割を果たす一方で、その時を窺います。そして他の人に自分と同じように、六神丸を呑ませようとした時、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。
 ところが驚いた陳も、何かしらの丸薬を呑んで、倍以上の大きさになって彼を再び捕らえます。そうなると山男にとって、「獲物」の立場など忘れ、兎に角逃げたくて逃げたくて仕方がなくなっていきました。そして遂には理性を捨て去り、「助けてくれ」と叫ぶのです。
 こうして彼は、逃げられるものなら逃げたいが、そうすることも出来ず藻掻く、或いは大人しくしている「獲物」の気持ちを知ったのでした。
 ところが、ここで大きなひとつの問題が残ります。元来彼は捕食者で、それまでの体験は夢だったのでした。そうなると山男にとってはそうした気持ちなど、捕食を行う上では弊害以外の何物でもありません。そうした躊躇が、「獲物」を逃す事にだって繋がってしまうのですから。だからこそ彼は、再び自分の立場を確認した後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言って、夢の体験そのものを忘れることにしたのでした。
 一方の都合を知ることは、もう一方の都合を考えると邪魔になる場合だってあるのです。

2015年2月17日火曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版4)

 この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
 
 1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
 千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
 また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。

 2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
 出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
 更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
 差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。

 3通目では、その翌日の事が綴られています。
 その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
 やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。

 一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。

 この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。

 上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。

 1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
 では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
 つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)

 すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
 彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
 こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
 しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
 つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。

 しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
 例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
 そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
 そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
 まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。

2015年2月14日土曜日

短命長命ー黒島伝治

 著者は自分の故郷たる小豆島にある、「生田春月」の詩碑に、ふと行ってみたくなりました。
 彼は自身の道の先人たる春月や「芥川龍之介」らの存在を大きく思う一方で、現在の自分の年よりよりも低い年齢で、自らこの世を去ったことに対し、奇妙な感覚を覚えます。
 彼の見解では、作家に問わず、あらゆるジャンルにおいて短い期間で完成していく者、また長い期間をかけて熟成し出来上がっていく者がいるのではないかと考えているのです。そして春月らのような、短期間で完成した者達にとって、自ら命を絶つ事には何かしらの意義があるのではないかとも考えています。
 しかしその一方で、著者の知り合いと思われる女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という見解にも共感しているのです。一体彼は、何故相反する2つの意見に耳を傾けているのでしょうか。

 この作品では、〈先人の自殺を作家としては尊敬しながらも、人間としては尊敬できない、著者の素朴な感性〉が描かれています。

 生田春月や芥川龍之介らの事の年齢を通過していながらも、彼らの存在を大きく感じているところから察するに、恐らく著者は、彼らの自殺は、作家として自分が未だ嘗て体験したことのない感覚、境地に至った故のことと考えているのでしょう。ですからその死は、後世の作家にとって、何か意義があることのように捉えるべきだと考えているのでしょう。ですから彼らの死自体においても、作家としては、肯定的です。
 ところが人間としてはどうでしょうか。それは否です。ここで断っておきたいのですが、残念ながら死に関して、このエッセイでは市井を生きるものとして、どのように捉えるかは明言されておらず、またお恥ずかしい話ですが、私自身にもこれを論じられる実力がありません。ただ著者が女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という意見に賛同を覚えたのは確かです。ですから彼は市井を生きる者として、女のこの素朴な感性にこそ共感を覚えたのではないかと考えています。
 どうやら作家という限られた職業の中では、先人の死が尊く思われるからと言って、1個の人間としてそのあり方が正しいのか否かは別の問題のようです。

2015年2月12日木曜日

手品ー佐々木俊郎

 雪深い東北の山襞の中の村落では、正月になりますと、「チャセゴ」という習慣がはじまります。これは子供達が一団をなして家々をまわり、「アキの方からチャセゴに参った。」というのです。すると大人は「何を持って参った?」と聞き、子供達は「銭と金とザクザクと持って参った。」といいます。そうして彼らは家々の大人からお餅を貰うのです。
 また大人も、部落の地主や素封家のところにチャセゴにまわります。ですが、彼らの場合は単に参るのではなく、何か趣向を凝らした出し物を用意して行かねばなりません。

 近郷一の素封家、吉田家では、銀の杯が毎年正月になると出されており、欲深い「万」はどうにかしてそれを手に入れる為にチャセゴへ出かけます。彼はまた、その出し物として、何か歌でもうたって吉田家の人々を喜ばせようとしました。
 そして吉田家に到着し中に入ると、一緒にチャセゴに来た平六が出鱈目な踊りを披露しはじめ、これが大いに受けたのです。一方、人々が平六の踊りに注目している中、七福神の仮装をしている福禄寿が、なんと自分の袖から吉田家の銀の杯を盗もうとしているではありませんか。万はその瞬間を見逃さず、目を見張っていました。
 そして次はいよいよ万の番となります。ところが彼は、先ほどの福禄寿の事が頭から離れず、何をうたっていいのか分からなくなっていきました。それで苦し紛れに、
「私しゃ、芸無し猿でがして、何も出来ねえんでがすが、ただ一つ、手品を知ってますで……」
 と言い、お膳から銀の杯を取り、
「さあさ! こっちを御覧下せえ。ここに三つの杯があります。私しゃ、今これを襤褸着物の懐中へ入れます。」
「そこで、私が号令をかけますと、私の懐中の中の杯は、私の命令したところへ参るのでごぜえます。一! 二! 三!」
 そして銀の杯は福禄寿のところに移動したというのです。当然福禄寿の服の中から、3つの盃が出てきました。万は人々から喝采を受けたのでした。

 この作品では、〈杯がほしいという、自身の欲深さにによって窮地に陥るも、かえってその欲深さによってそれを脱出した、ある男〉

 万は銀の杯が欲しいという欲望があるために、吉田家にチャセゴに参ります。しかしその中では、芸が行なわれている一方で、福禄寿が銀の杯を盗もうとしていたのです。そしてその一部始終を目撃した瞬間、「次に続く太夫の芸は?」と呼ばれてしまいます。
 この時、万の頭には2つの観念が葛藤を起こしていたことでしょう。ひとつはチャセゴに参り、この場で何か出し物を披露しなければならない、ということ。そしてもうひとつは、福禄寿に銀の杯を渡したくない、自分が手に入れたいという思いがあったのです。ですから彼は出し物をする段になっても、何も思い浮かばず、ただこの2つの観念をいかに解消していくかということばかりをジリジリと考えていたのでしょう。
 そうして万は、人々から求められている役割、つまりチャセゴでの役割を利用して、銀の杯を奪い取る事を咄嗟に思いついたのでした。その方法こそが手品だったのです。あとはあらすじに書いている通り、見事福禄寿から銀の杯を奪い、自分がそれを手に入れました。
 まさに自身の欲求の強さを最後の最後まで捨てなかった為に、万はピンチをチャンスに変えたのでした。

豚群ー黒島伝治(未完成)

 健二たちの村では、百姓が相場の高騰を理由に、作物を育てる代わりに豚を育てていました。というのも、豚を1匹売れば、一家1か月食いしのげる程のお金が手に入るのです。しかし村の地主は小作料の代わりに、そうした百姓達の生活を支える豚を差し押さえようという動きをみせます。そこで村の百姓たちは、地主が差し押さえに来た場合、豚達を外に放して誰が誰の豚なのか分からなくして混乱させようと決めていたのです。
 ところがある時、健二の家に百姓仲間の宇一がやってきて、役人が来ても豚を外に放してはならないといいます。この言葉に、健二は咄嗟に彼の裏切りを見抜くのでした。と言いますのも、宇一は立派な麦畑を持っており、他の家の豚が外に出て畑を荒らされる事を恐れていたのです。また、彼はいくらかのお金を誰彼に貸し付けており、小作料を少しとられたところで痛くもありません。そして宇一の裏切りに憤慨しながら、健二は約人が来た時には豚を外に逃す決意を固めていくのでした。ですが、こうした計画は数人が計画したところで意味がなく、一定数の百姓に協力してもらう必要があります。果たして健二は他の百姓たちと協力し、豚という自分の財産を守ることが出来るのでしょうか。

2015年2月7日土曜日

二銭銅貨ー黒島伝治

 健吉の弟である藤二は、子供達の間で流行っていた独楽に熱心でした。ですが彼のものは兄のお古で、とても手入れされてはいましたが、藤二がまわすには重すぎたのです。そこで彼は他の子供達と同じように新しい独楽か、せめてそれを回す為の緒が欲しいと母に催促しました。
 ですが母としては、家の家計が苦しい故、どうにかしてお金のかからないようにしたいところ。そこで彼女は藤二と独楽の緒を買いに行く時、2銭だけ安いが、短い緒を買って彼に与えることにしました。ところが藤二はこの短さが気に入らず、両手で引っ張り長くしようとします。
 そんなある時、村に力士がやってきて、子供達はそれをひと目見ようと遊びに出かけていきます。そして藤二もそれを見たいと思いました。しかし母や父は家の経済が苦しいにも拘わらず、家の手伝いをそっちのけで力士を見に行こうとする彼を叱責します。そこで藤二は、仕方なく、牛が粉挽き臼を回している姿を見張る手伝いをすることにしました。その時、彼は柱に自分の独楽の緒をかけて引っ張りはじめたのです。その後、彼は手を滑らせて地面に転んだところを、牛に頭を踏まれて死んでしまいます。一体彼は何故死ななければならなかったのでしょうか。

 この作品では、〈自分たちの生活を守ろうとして弟の自由を抑制するあまり、かえって弟の命を失ってしまった、ある家族〉が描かれています。

 あらすじの問に答えるために、弟がどのような家庭状況にあり、その他の人々がどういった心持ちで生活していたのかを整理してみましょう。
 健吉よ藤二の家族は経済的に裕福とは言えず、苦しいものでした。その為に母は弟に新しい独楽や緒を買うよりも、物置小屋の中に古いものがないかどうか探しはじめます。また兄の健吉は「阿呆云え、その独楽の方がえいんじゃがイ!」と、家の貴重なお金を弟の独楽に使う事に対して、惜しい気がして、自分のお古を使うことをすすめました。そして、母が藤二に買ってあげた他より二銭安い緒は、こうした少しでも安いものを買って家の経済状況を保たねばならないといった、彼らの気持ちの象徴でもあるのです。
 こうして藤二は他の子供達よりも短い緒を持つことになったのですが、矢張りその短さが気に入りません。
 そんな時、彼らの村に力士がやってきます。藤二も他の子供達と同じように力士を見たいと思いますが、ここでも矢張り父や母は、家の経済状況を無視して、子供ながらの好奇心を満たそうとしている彼を叱責します。家の経済を理由に短い独楽の緒を押し付けられ、また家の経済を理由に遊びに行くことも出来ず、藤二はそうした家族からの抑制をどうにか自分で撥ね退けようと、独楽の緒を牛小屋の柱に押しつけ少しでも長くしようとしました。そうする事で彼は、これまで満たされなかった欲求を少しでも満たそうとしたのです。しかし運の悪いことに、緒から手を離し倒れたところに、牛に踏まれて命を押してしまいます。
 こうした、小さな欲求を満たそうとしただけなのに、身に余る大きな代償を背負わなければならなかった必然がそこにあり、それがこの作品の余韻となり、生活を大切にする私たちに鋭く突きつけられているのです。

2015年2月5日木曜日

自画像ー黒島伝治(未完成)

 この作品ではタイトルの通り、著者が自分自身の事をどのような人間であるのかを評価しています。彼は自分のことを、都会人の真似をして洋服を着たり、野心を燃やしたりしているが、根は無口な百姓であると述べているのです。では農家をした方が性に合っているのかと言えばそうではなく、人間と生活の醜い部分ばかりが見えてしまい、百姓が出来なのだといいます。その代わりただそれを冷静に分析して、怒ったり不平を言ったりしているのだと言うのです。
 一体著者は自分自身をどのように捉えているのでしょうか。

 この作品では、〈人間性と生活への答えを規定出来ないが故に、小説家として、不平を言い続けるしかなかった、ある作家〉が描かれています。

 彼はどうやら人々の生活を見ていく中で、それを守ろうとが故に出てくる人々の醜悪な行動が目につくようです。例えば彼の作品である『電報』では、息子を受験させようとするも、村の有力者達によってそれを阻まれた親子の姿が描かれています。また『窃む女』では妻の窃盗を知りながらも、現場を見ていないが故に、頭の中でもみ消そうとする夫の姿が描かれていました。恐らく彼は、そうした人々の姿を見て、ああでもないこうでもないとは思いながらも、その答えが見つかりません。ですから彼はその答えを見つけるべく、より人々の生活や心理を誰よりも冷静に見つめなければならないのです。

2015年2月4日水曜日

氷点(上)ー三浦綾子p190・1

◯啓造はルリ子の死以来、夏枝を憎みはした。
 啓造の中ではほんらい、夏枝は事件のあった当初、村井と浮気などせず辻口の妻として自分を愛し、ルリ子と共に自分の帰りを待っているはずだという想定が存在していた。と同時に、これは啓造にとって、夏枝にそうあって欲しいという願望でもあったのである。
 ところが実際のところ、夏枝は村井と不貞を働き、その間にルリ子は殺された。
 この啓造が描いた頭の中の理想と、頭の外にある現実が大きく食い違っているからこそ、彼は苦しみ妻を憎まずにはいられなくなっていったのである。
 しかし、だからと言って、どのような理由であれ夏枝に憎まれる覚悟は啓造には全くなかった。前記した通り、啓造の頭の中は、あくまで夏枝に愛されていることが前提になっており、それ以外の彼女の感情や行動はあまり想定されていない。だからこそこの場面において、陽子の戸籍のことで夏枝に恨めしい目で見られて、啓造はつい狼狽してしまったのである。

2015年2月1日日曜日

氷点(上)ー三浦綾子p154-2

◯夏枝のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。
 ここでは、辻口夫婦が高木を通して犯人の子どもと思われる子供、陽子とはじめて対面し貰っていこうとしている場面が描かれている。
 夏江は陽子と対面し、すぐに自分の子供にすることを決めた後、近所の人々に自分の子供ではないことをばれないように、陽子と2ヶ月札幌にいる事を決め、「わたくしはね、この子をもらおうと思った時に、この子を産んだような気がしましたの」と、母親としての愛情を大きく傾けた。
 一方啓造は、そんな夏枝の、「母性愛にも似たやさしさ」を非社会的だと批判したのである。何故なら、夏枝は目の前の陽子に対し、母親としての愛情を一心に傾けるあまり、旭川に置いてきた徹のことや、陽子の出生を必死に隠そうとしているところなど、社会的な繋がりを無視したような行動や態度に出ようとしたからだ。陽子は夏枝がいるから心細くないだろうが、徹も同じく、母親を欲しているはずである。また幾ら夏枝が陽子の事を取り繕おうとしても、年月が過ぎれば近所の人々が噂をしそうなものである。こうした様々な問題が見えなくなる程に、その日出会ったばかりの陽子に母親としての情熱を傾けているからこそ、啓造は驚き批判しているのだ。

氷点(上)ー三浦綾子p101・1

◯人間の身勝手さは、事故本能のようなものかも知れなかった。
そもそも、夏枝が病気に蝕まれていった原因は、彼女が村井と不貞を働き、ルリ子を1人にして殺されてしまったところにある。それは夏枝も充分自覚しているところであり、だからこそ精神を病んでいったのだ。
 ルリ子が死んだ後、次第に夏枝は生気を失い、身体はやせ細り、精神は現実を拒みルリ子の幻影を見るようにすらなっていったのである。ところが彼女が狂う前に、彼女自身が自分を責める事に対して、徐々に耐えられなくなっていった。彼女はまず、夫が自分に優しくないところに、「何故夫は病気のわたくしにこうも冷たいのだろう」と付け入ったのだろう。するとその疑問が次第に、「夫はもっとわたくしに優しくすべきなのに、そうしないのはあんまりではないのかしら」というような非難へと転化していった。そしてその非難こそが、「これだけ苦しんでいるのだから、わたくしだって犯人の被害者なのだ」という、自分を守る大義名分へとなっていったのである。
 そしてこの箇所では、その大義名分から夏枝は、村井の行動がなければルリ子は死ななかっただろうし、自分も病むことはなかったのだから、村井こそが悪いのでありもっと苦しむべきなのだと非難しているのだ。

2015年1月30日金曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)

 スバーという娘は3人娘の末娘で、言葉が話せません。ですから人々は彼女に感情がないかのように考えており、平気で彼女の前で平気で先の行く末の話や彼女自身の論評をします。そして、彼女の母親もその例外ではなく、自分の身体についた汚点(しみ)のようにすら思っていました。
 しかし彼女は口が聞けない代わりに、整えられた容姿が与えられ、そしてその目にはあらゆる人の気持と、スバー自身の存在を語るかのような説得力を持っていました。それ故、他の子供達は誰も彼女と遊びはしません。
 またスバーの父は彼女を大切に思っているものの、親としての責任を果たすという理由から、彼女を他所の家に嫁がせようとしました。
 そして友人のプラクタは彼女がそれを嫌がっていたにも拘わらず、良きことだと考え祝福したのです。
 更に、彼女の婿はスバーが不具の者である事を知ると、次はものの云える妻と結婚したのでした。

 この作品では、〈唖故に、誰からもその気持を蔑ろにされ続けてきた、ある娘が描〉かれています。

 結局スバーの事を悪く思う人、スバーの事を良く思う人の両方共から、彼女は彼女自身の気持ちを理解される事はありませんでした。
 ですが、そのどちらからも理解されなかったからと言って、彼女自身の気持ちがなくなる訳ではありません。それは普段、自分をも含めて、自分が寝ている間に鼾を聞かれていない人がいるからと云って、鼾が存在しなかったことにならない事と同じです。彼女自身が傷ついた事実は確かに彼女の中に残ります。また、こうした文字に起こすことによって、そうした今にも消えかかりそうな人の気ち持があった事実は、私たちの胸を深く貫く事でしょう。やがて物語のように、声にならない声、あるかないか分からないような人の気持ちの存在が、自分たちの身の回りにも溢れているのではないか、という思いに駆られてくる人は少なからずいるのではないでしょうか。
 そして、そうした人々に知られていない感情の存在を描くことも、物語や小説のひとつの重大なテーマなのです。

2015年1月28日水曜日

カイロ団長ー宮沢賢治

 30疋の「あまがえる」達は他の虫達から仕事を頼まれ楽しくこなしていました。
 ある時、ウイスキイを飲ませてくれる「とのさまがえる」のお店に立ち寄ったところ、ガブガブと呑んでしまい、高額な料金を請求される羽目になってしまいます。そして「とのさまがえる」から、警察に突出されたくなければ家来になれ、と言われたのでしぶしぶ言うことを聞くことにしました。
 こうして彼らは「とのさまがえる」の「カイロ団長」率いるカイロ団に加わったのです。その後の「あまがえる」達の労働は過酷なもので、「とのさまがえる」から無理難題を押し付けられていきます。ですが「あまがえる」達は警察に突出されたくない一心で、懸命に云うことを聞こうとしました。
 ところがある時、石を1人900貫ずつ運んでこいと言われたのですが、人間でも持てない石の重さに、彼らは困り果ててしまったのです。
 ちょうどその時、かたつむりのメガホーンが周りに響き、王様の伝令が言い渡されました。要約すると、人に仕事を依頼する時にはその人の気持ちにならなければならず、依頼する前には実際に自分でもそれをやってみなければならない、というようなものだったのです。これを聞いた「あまがえる」達は早速、「とのさまがえる」に自分たちの仕事をさせてみました。「とのさまがえる」は石を動かそうとはしますがビクともせず、しまいには足がキクっと曲がってしまいます。その姿に「あまがえる」達は思わずどっと笑いましたが、後でなんとも云えない寂しい気持ちになっていきました。そんな時、再び王様の伝令が彼らの耳に聞こえます。
「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」
 そこで「あまがえる」達は「とのさまがえる」を助けて、「とのさまがえる」はホロホロ涙を流し反省しはじめました。彼はこれまでの事を詫びて仕立屋をやることを公言し、次の日から「あまがえる」達は再び楽しく仕事をはじめたのです。

 この作品では、〈支配者と非支配者の形勢が逆転した時にこそ、その人の人格が問われる〉ということが描かれています。

 支配者たる「とのさまがえる」が「あまがえる」達を支配し、云うことを聞かせていたにも拘わらず、王様の伝令が下ると、これが「あまがえる」達にとって有利に働き、多くの読者は痛快な気分になることでしょう。まさに「とのさまがえる」は自業自得な目に遭い、「あまがえる」達もどっと笑うのですが、彼らはここで寂しい気持ちになっていきます。と云いますのも、彼らは自分たちの立場を一歩引いたところから考えたのです。そしてその前後はどうであれ、大勢で立場が弱くなった「とのさまがえる」を働かせて笑いものにしているとはどういうことか、という生き物(人間)としての倫理観が働いていったのでした。
 その彼らの姿に、多くの読者は少なからず、「しまった」と思うことでしょう。「カチカチ山」や「桃太郎」のような昔話を呼んだ時、私達は鬼や猿が復讐される様を見て痛快に思った方も少なくはないはずです。またもっと身近な例で言えば、子供の頃、いじめっ子が別の、上級生のいじめっ子に苛められている様などは、自分が苛められておらずとも胸がスッとなるような思いがしたという方もいるかもしれません。
 そしてそういう方たちにこそ、こうした「あまがえる」の感情は胸を打つ事でしょう。酷いことをやっていた人が酷い目に合う姿や、誰かの復讐にあう様は面白いかも知れませんが、それはただ自分の感情が満たされているに過ぎないのです。そしてこうした観点から見た時には、両者は同じレベルでしかなく、尚更寂しい思いがする事でしょう。
 だからそこ物語の「あまがえる」達は、王様の最後のひと押しもあって、自分の感情を満たす為ではなく、生き物としてより良い解決の方法を模索しようとしたからこそ、「とのさまがえる」を助けたのです。

2015年1月25日日曜日

怒りの虫ー豊島与志雄

 「木山宇平」という男は、元来温厚な性格をしていましたが、それが自分の身体の不調を感じはじめた頃から一変し、癇癪持ちになってしまいました。やれ服にハンカチが入っていないだとか、やれ擦り切れた袖を気にするような男は気に食わないだとか、些細な事で怒りを露わにしていきます。
 この木山の変貌ぶりを見て、人々は「怒りの虫」に蝕まれているのだと云うのです。そしてそんな彼はと云いますと、自分の肉体の変化については原因も特定せぬ儘に、「肝臓がわるいのだ」と決め打ちをして一向に医者にかかろうとはしません。それどころか、肝臓が悪いと云っているにも拘わらず、なんとぐいぐいと酒を呑んでいるではありませんか。一体木山は身体の不調を感じているにも拘わらず、何故酒を呑むのでしょうか。何故こうも怒りっぽくなっていったのでしょうか。

 この作品では、〈原因不明の不調からくる不安を肝臓のせいにすることで、かえってより不安になっていった、ある男〉が描かれています。

 どうやら木山は自分の正体不明の不調について、肝臓のせいにする事で自分の不安を和らげようという腹があるようです。それは下記の箇所を見ても明らかです。

近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。(中略)肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたく さんだ。

 ところがそうは思っているものの、彼は一向にお酒をやめようとはしません。それどころか、その勢いは衰えるところを知らないようです。
 と云いますのも、木山は幾ら肝臓のせいだと決め打ちしたところで、それらしい証拠や確証はありません。それどころか、「しかしもし自分の思い違いだったら……」と、かえって自分自身が不安になる材料を余計につくっているのです。ですから彼はお酒をぐいぐいと呑む事で、「ほらやっぱりな」という、彼なりの落とし所をつくろうとしているのでしょう。
 具体的に礼を持ち出すとするならば、下記のようなことになります。私達が試験勉強で勤しんでおり、幾ら勉強しても到底合格出来そうにない時、人によっては「どうせ勉強したところで不合格だろう」と、はじめから勉強しない者もいることでしょう。彼らはそうして、受からない要因を自らつくることで試験に落ちた時、「やっぱりな」という安心感を得るためにそうしているのです。
 そしてこの木山にも同じことが云えます。彼は肝臓を自ら刺激することで、身体の不調の要因を自らつくっているのです。
 しかし幾ら呑んでも呑んでも、彼の後ろ向きな努力とは裏腹に、その成果が出ることはなく、病気は悪化するばかり。だからこそ彼は気持ちが落ち着かず、焦り、やがて苛立ちとなっていき八つ当たりをする羽目になっていったのです。
 ですが、物語の終盤ではいよいよ痛みが深刻になったと見え、自分の身体と向き合う決意をしていきます。そしてその決意をした直後、彼はこの世を去っていったのです。

2015年1月23日金曜日

四季とその折々ー黒島伝治

 著者はここ2、3年のうちに、小豆島の四季の行事を徐々に楽しめるようになってきたのだといいます。と言いますのも、著者はそれまで山の小さい桐の木を誰かが一本伐ったぐらいで大問題にしたり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣る様子を冷ややかな目で観察していたのです。しかしそれらは自身が年を重ねていくうちに、その楽しさ、重要性が分かってきたと言います。一体それはどのようなものなのでしょうか。

 この作品では、〈人は生活経験を重ねていくにつれて、自然の変化を大切にするようになっていくものである〉ということが描かれています。

 著者は若かりし頃、村の老人たちが桐の木を伐られて目くじらを立てたり、初詣に毎年熱心に通ったりする様を見て、「まるで子供のように」と非難していました。これにはあたかも子どもがおもちゃを取り上げられて憤慨したり、遊園地に連れて行かれ喜ぶ様に似ていた為に、こうした表現を用いたのでしょう。
 ですが彼らが村の木や行事にここまで自身の感情を揺さぶられるのは、そうした事とは似て非なるものでした。それは下記の箇所を見れば理解できることでしょう。

彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。

 若いうちは受験や仕事、結婚や出産といったように、毎年毎年目まぐるしい変化や刺激が待ち構えており、とてもではありませんが、自然の変化に目を向ける暇もありません。それに何より、それらを捉える経験も視点も持ちあわせていないのです。
 しかし、その後は生活も落ち着き、毎日の変化は徐々に減っていき暮らしが平坦なものになっていくにつれて、人々は何処か生活における「張り」のようなものを年を重ねる事に失っていくことでしょう。
 ところがある時ふと自分の周りと見てみると、「自分たちが子どもの頃には、あれ程小さかった松の木が今では自分の身長を超える程立派に育っていった」、「昨年はこの川にはホタルが少なかったが、今年はやや増えている」などというように、長年のなんとなくの定点観測の末に、自然に興味を持ち、小さな変化にも気づけるようになっていくのです。
 ですから、村の老人たちが自然や行事に目くじらを立てるのは、自分たちが大切にしている事以上に、それらが自分たちと共に生きてきた歴史を指し示すものであり、人生の変化を指し示す指標だからに他ならないのです。彼らは毎年の季節や自然に触れることで、現在の自分の位置を確認し、その変化の足あとを楽しんでいたのでした。

2015年1月22日木曜日

襟ーオシップ・ディモフ(森鴎外訳)

※今回はあらすじのみの公開とさせて頂きます。

 ロシア人である「おれ」は自国を離れベルリンに来ており、新しい襟を買ったことをきっかけに、古い襟をホテルの窓から捨ててしまいます。ですが街の掃除人の妻に拾われて、それをホテルの門番に届けられてしまいます。また門番は彼を公爵だと勘違いしているようでもありました。
 しかし襟を捨てたい「おれ」としては、忘れ物として、わざと電車の中に置き忘れていきます。ですが、これも肥満の男が襟を持って走ってきて、丁寧に渡してくれたのです。また男は名刺を出して、彼に握手を求めていました。
 こうして、「おれ」は幾度か襟を捨てることに挑戦しますが、何度もベルリンの人々に拾われる羽目になるのです。またその度に人々は彼の事を公爵だと勘違いしているようなのでした。そして襟を捨てられず気が動転した「おれ」は、電車から襟を持ってきてくれた肥満の男とばったり会った事をきっかけに彼をナイフで刺してしまいます。
 こうして「おれ」は裁判にかけられたわけなのですが、彼が正直に自分の心情を話しても裁判官には伝わらず、「誰でも貴方の襟が落ちていたのであれば、拾うはずだ」と言われ、理解されるどころか裁判を嘲弄しているとみなされてしまいました。
 そして「おれ」の死刑は確定したのです。死刑が決まった彼は、「おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。」と言って、自らの死を受け入れていくのでした。

あいびきーイワン・ツルゲーネフ

 夏の気配を残しながらも、秋が今にも深まっていこうとしている頃、「自分」は白樺林の自然を堪能しているとウトウトと眠りはじめてしまいます。
 やがて目が覚めると、近くに農夫の娘らしき人物が近くに座っていました。ですが、向こうは「自分」には気がついておらず、何やら不安な面持ちで誰かを待っている様子。すると茂みの方から、「ヴィクトル」と呼ばれる男がやってきます。どうやら話を聞く限り良い家柄の出身で、彼から「アクーリナ」と呼ばれている農家の娘は、彼を待っていたようなのです。ところが彼らは恋仲のようなのですが、「ヴィクトル」は明日この地を離れるのだと言います。そしてそれを聞いた「アクーリナ」は目に涙を溜めていきます。しかしそうした彼女とは対照的に、「ヴィクトル」は冷たく、彼女の行動に明らかな嫌悪感を感じていました。やがて「アクーリナ」に見かねた彼は、彼女の制止もきかず、その場を立ち去ってしまいます。
 その様子を文字通り、草葉の陰から見ていた「自分」は、見るに見かねて「アクーリナ」近づこうしました。ですが彼の存在に気がついた彼女は、慌ててその場を立ち去り、後には彼女が持っていた草花の束ねだけが残ったのです。そこで「自分」はそれを持ち帰り、現在でもからびたまま秘蔵してあるのだといいます。

 この作品では、〈決して接点を持つことのなかった2人のうち片方が、鑑賞者としての視点を持ったが故に、その存在を認めていった〉ことが描かれています。

 この作品の面白みは、何も知らない「自分」が、農家の娘と上品な生まれの青年との「あいびき」の一場面を、まるでスクリーンのない映画でも鑑賞するかのように見守っているというところにあります。そして彼と2人の間には、接点が全くなく、「自分」から見れば2人は物語の登場人物なのであり、「自分」はただの鑑賞者にしか過ぎません。
 ですがこの場合と映画との違いは、幾ら鑑賞者とは言えでも、その気になれば舞台に上がれるということなのです。そして「自分」はそれをやってのけます。と言いますのも、「ヴィクトル」にあまりにも邪険にされ過ぎていた為、「アクーリナ」が不憫になり、何かしたい思いに駆られていったのです。
 しかし当の本人たちからすれば、当然「自分」という存在は全くなんの関係も縁のない存在であり、ただの他人と対面した「アクーリナ」は慌ててその場を去ってしまいます。
 ですがそこに残された草花の束ねは、確かに「アクーリナ」という娘が確かにそこにいた事を示す何よりの証拠であると同時に、「自分」と彼女とが、これからの人生で交わる事がないであろう2人が僅かながらの接点を持ち得た唯一のものでもあるのです。ですから彼は、花束をその場から持ち帰る気になったのでした。
 よって自分は鑑賞者としての視点を持っていた為に、本や映画の登場人物を見るかのように、一方的に「アクーリナ」へ感情移入しその思いをいつまでも大切にしていったのです。

2015年1月21日水曜日

砂糖泥棒ー黒島伝治

 与助は自分の子どもや妻を喜ばせたいという思いから、醤油屋の主人の砂糖倉からザラメ砂糖を盗んでしまいます。そしてその姿は主人の目にしっかりと見られており、早速主人は杜氏(職工長のような役職)に彼を暇に出すようにと命じました。
 その際主人は、与助に貯金させておいた、40円について考えを廻らていきます。と言いますのも、主人の家では労働者には毎月5円ずつ貯金をさせて預かっていたのです。そして主人は、与助が不義を働いた事をきっかけに、そのお金を自分のものにしようと企てていきます。
 その後杜氏は言われた通り、与助を呼び出し暇を出す旨を彼に告げました。しかし与助も与助で、貯金の40円の事が気になる様子で、杜氏から主人にお金はどうなるのか聞いて欲しいと言ってきました。ところが不正、不穏の行為を行った者に貯金はやれぬという理由から、没収される事になったのです。杜氏はこうして、些細な出来事から貯金を没収される様子を5,6度見てきました。そしてふとある不安を覚えます。彼もいつかは与助のような立場になるのではないのか、と考えたのです。ですがすぐに馬鹿馬鹿しいと忘れていきました。
 結局、与助は貯金を貰えない儘解雇され、2、3日後、若い労働者達が小麦俵を積み換えていると、俵の間から帆前垂にくるんだザラメが出てきました。与作の隠したザラメです。彼らは笑いながらその砂糖を分けてなめました。そして杜氏もその相伴にあずかり、汚れた前掛けは洗濯し、自ら身に付けることにしたのでした。

 この作品では、〈砂糖泥棒に暇を出す立場にありながらも、自身にもその兆しを見せる、ある杜氏の姿〉が描かれています。

 自分の家族のためとは言え泥棒を働いた与作は其の侭解雇され職を失い、お金にがめつい主人は彼に暇を与え、狡猾な杜氏は漁夫の利を得るという、一見するとなんとも平坦な作品に見えるかもしれません。ですが下記の箇所に注目して読むと、こうした事が与助を直接裁いた杜氏自身にも振りかかる予兆があることに気が付きます。

 杜氏は、こういう風にして、一寸した疵を 突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって 来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。

 彼は自分が与助に暇を与えようという話をしている中で、ちらりとそうして誰かに解雇される自分の姿を彼を通して見てしまったのです。しかしすぐにもみ消して自分の役目に集中していくわけなのですが、物語の終盤で、杜氏にもそうした出来事が未来に十分起こり得る事が見て取れるでしょう。
 そもそも与助は主人の倉から勝手に砂糖を持ちだしたところを抜け目ない主人に見られたからこそ解雇されました。そして、杜氏は与助が解雇された後、たまたま若い労働者が見つけたザラメを分けてもらい、前掛けを自分のものにしていますが、その経緯は兎も角、与助と同じ行為をしています。
 これら2点から、杜氏の未来にも近い将来において暇を出される事が示唆されているのです。本人は上手く2人を出し抜いたつもりでしょうが、条件が整っているだけに、読者としては彼の未来を暗い気持ちで冷静に見つめずにはいられない事でしょう。

2015年1月17日土曜日

罪と覚悟ーオー・ヘンリー

 金庫破りである「ジミィ・ヴァレンタイン」は、4年の刑期を終えて再び娑婆に出てきたのですが、再び同じ過ちを犯してしまいます。
 しかし銀行のオーナーの娘である「アナベル・アダムス」嬢との出会いをきっかけに、彼は金庫破りとしての人生を捨てて、靴屋として真面目に働き、商売は繁盛、友人も多くつくり、やがては彼女との婚約まで果たしました。
 ところが事件はそんな幸せの最中に起こってしまいます。ある時、アダムス氏自慢の金庫室で遊んでいた2人の子供が遊んでいると、悪戯心でそのうちの1人である「アガサ」がその中に閉じ込められてしまったのです。金庫を開けるには特殊な技術者の手が必要で、呼びに行っている間に、アガサは金庫室の酸素が足りなくなり窒息することは目に見えていました。
 ですが1人だけ群衆の中にこの金庫を開けられる者がいたのです。ジミィでした。ところがジミィが金庫を開けることは、自分が金庫破りであった事を何も知らない街の人々に知られる危険性も伴っています。ですがそんなことには構いもせず、すぐさま金庫破りの時に使う、愛用のドリルで穴を開け、アサガを救ってみせました。
 そこに運の悪いことに、彼を長年追いかけていた刑事である「ベン」がやってきて彼に声をかけました。ジミィはたじろぐこともなく、「やぁ、ベン。ついにやってきたか。それじゃあ、行こう。何を今さら、って感じになるのは否めないけど。」と、自ら潔く連行されようとします。ところがベンは、
「何か誤解していらっしゃいませんか、スペンサーさん。わたしには、あなたが誰だったか、さっぱり。そうそう、馬車がずっとあなたのことをお待ちですよ。」
と言って、ゆっくりと通りの無効へ歩いていったのでした。

 この作品では、〈金庫破りだったという過去を大衆の前で認めたが故に、かえって自分をこれまで追っていた刑事を説得させた、ある男〉が描かれています。

 ベンはこれまでジミィ絡みと思われる事件を数多く調査しており、刑期を終えて行った犯行もすぐに見破ってしまいました。そんな彼は、一体何故これまで血眼になって追ってきた金庫破りをみすみす逃す気になったのでしょうか。
 それはジミィが自らの過去から逃れず、寧ろしっかりと対面して子どもを助けようとしたからに他なりません。ここでもしジミィが自身の保身に固執し、アガサを助けようとしなければ、彼は獄中に逆戻り、婚約も間違いなく破棄されていた事でしょう。そうではなく、自らの未来をも考えず、アサガを助けたからこそ、ベンは長年追いかけてきた金庫破りを逃し、馬車で送ることで彼の未来を祝福したのです。

氷点(上)ー三浦綾子p85・5

◯啓造は、人の心がいつも論理に従って動くもののように考えているらしかった。
ルリ子が死ぬ直接死の原因をつくったのは、夏枝と村井が不貞をはたらこうとしたからである。そしてこの場面では、それを知っている啓造が村井が病気になり洞爺で療養している事を、何も知らない自分の妻に告げてその反応を見ようとしているのだ。ところが夏枝は村井の話題には全く触れず、突然、
「あの、わたくし、女の子が欲しいと思っていましたの」
と突拍子もない事を言い出したのである。これが啓造には理解できなかった。彼は自分が現在村井の事を話しているのであり、村井と女の子が欲しいという妻の願いをどうにか結びつけようとしている。よって彼は、まさかとは思いつつも、夏枝は村井のいない寂しさを女の子を授かる事で紛らわそうしているのではないか、と疑ってしまったのだ。
ところが夏枝にとって、村井の事と女の子の事は全く別の話題なのである。彼女はルリ子のいない寂しさから純粋に自分の子どもを望んでいるのであり、その思いが募っていき、夫の話題を差し置いて自分の気持ちを話しただけなのだ。
結果として啓造は、その時たまたま妻が募りに募らせて言った一言に対して、勝手な「夏枝像」をつくり、自ら振り回されていったのである。

2015年1月16日金曜日

「紋」ー黒島伝治

 「おりくばあさん」の家で生まれて育った猫、「紋」は、近頃他家の台所で魚を盗んだり、お櫃(ひつ)を床に落として米を食べたりする事を覚えてしまった様子。おかげでおりくと「じいさん」は村中の人々から白い目で見られるようになっていきました。そこでおりくは泣く泣く幾度か猫を捨てようと試みたのです。
 ところが猫は何度おりくが捨てても、いつの間にか戻ってきてしまいます。そしておりくもおりくで、猫が戻ってくるとあたたかくご飯を出してあげるのでした。しかし、根本的な問題は解決せず、猫は魚や雛鳥を盗んで食べますし、その度に村の人々はこの老夫婦と猫にきつくあたっていきます。それがエスカレートしていき、やがて老夫婦の家には風呂がないことをいいことに、村の人々は誰も2人を風呂に入れようとはせず、猫は棒を持った人々に追いかけられていくようになっていきました。
 そして遂におりくは港から出る発動機船に猫を乗せて、本土へ送ることにしたのです。ですが猫は本土に降りると再び船に乗り込もうとするところを船方に発見され、水荷い棒で殴られ、海に沈んでしまいます。それを船方から聞いたおりくは、沈み込んでしまうのでした。


 この作品では、〈村という閉鎖的な結びつきが他人を攻撃する事もあれば、それがより強い結びつきをつくることもある〉という事が描かれています。

 この作品を読んでいく中で、読者は村人から見える猫と老夫婦、おりくから見える猫とを対比せずにはいられないのではないのでしょうか。何故ならそれらはどちらも閉鎖的な社会に属していながらも、対象の扱いに大きな開きがあるからに他なりません。と言いますのも、おりくは幾度も猫がしでかした盗みによって、村の人々から白い目で見られ、挙句の果ては風呂まで入らせてくれないようになっていきます。ですが、人々からどんな嫌がらせを受けようととも、おりくは捨てようとはするものの、決して邪険に扱ったり罵ったり、暴力を振るったりすることはなく、猫が帰ってくるといつもあたたかく迎えるのでした。
 一方、村の人々は猫が盗みを働くと、猫だけではなく、老夫婦をも攻撃します。そしてその人々というのは、何も実害を被った人々に限らず、地主の下男や子供達など、直接関係のない者達からも危害を加えられるのでした。
 この両者には一体どのような違いがあるのでしょうか。それは下記の一文に大きなヒントが隠されています。これはじいさんが村の人々からの冷たい視線に耐えかねて、「もうあんな奴は放ってしまえ。」と言った一言に対しておりくが反論したものです。

「捨てる云うたって、家に生まれて育った猫じゃのに可愛そうじゃの」

 おりくの言い分では、どのように悪事を働こうとも盗もうとも、同じ家で生まれ育ったからには、それなりの運命共同体としての蓄積があり、村の人々からちょっと冷たくされただけでは切り離すわけにはいかない、という「閉鎖的な社会でお互いに育ったからこそ」の、感情的な言い分が潜んでいます。
 対する村の人々の言い分も考えてみましょう。直接被害を被っていない、下男や子供達が猫や老夫婦を攻撃するあたりを察するに、こちらも「閉鎖的な社会でお互いに生きているからこそ」、いつまでも盗みを働く猫を飼われていては困る、という言い分が潜んでいるのです。田舎という資金がなく物資の限られている社会では、物資や資金を蝕む者の存在はその家の者だけの問題ではなく、時には村全体に関わる問題にだって発展しかねない事でしょう。ですからこちらは現実的な言い分を述べている事になります。
 そしておりくの側では、感情的な意見を述べる一方で村の人々の現実的な意見にも、一定の理解を示しています。ですから彼女は、猫を船に乗せて本土に送らねばならなかった自分の運命、そして村に帰ってきては困ると考えている船方に殺されどうすることも出来なかった猫に対し、ただただ気持ちを沈めていくしかなかったのです。

2015年1月15日木曜日

人を殺す犬ー小林多喜二

 太陽がギラギラと照る真夏の昼間の北海道十勝岳の高地で、土方である源吉は親方やその子分である棒頭からの支配と厳しい労働からの逃走を試みました。23歳にして身体を悪くしていた彼は、青森に残してきた母親を思い、もう一度会いたい一心で逃げたことでしょう。
 しかしそんな彼の思いは天には通じず、土方仲間の晒し者として、親方の指示で土佐犬に噛み殺されることとなりました。そんな彼の姿を仲間たちは哀れに思いながらも、ただその様子を見守るしかありませんでした。
 そしてその晩、棒頭と2人の土方とが彼の遺体を埋めに行った時、土方の1人が棒頭のいない間にもう方片へ「だが、俺ァなあキットいつかあの犬を殺してやるよ……。」とボソリと言ったのです。一体何故、親分や棒頭などではなく、犬を殺すと言ったのでしょうか。

 この作品は、〈強力な支配を受けているが故に、仲間が殺された時に直接支配層にその怒りの矛先を向けることが出来なかった、土方たちの定め〉が描かれています。

 あらすじの問題を解くために、一度登場人物たちの立場関係をまとめておきましょう。源吉達土方は、親方や棒頭の支配階級の人々に厳しい労働を強いられており、反抗したり逃亡するような者がいれば、捕まえて土佐犬に噛まれる運命にあります。ですから、源吉を殺そうとした意思というものは、当然犬にはなく、親方や棒頭の側にあるのです。
 ところが物語の最後で、土方の1人がその怒りを向けたのは彼らではなく、直接源吉に手を下した犬でした。一体どういう事でしょうか。結論から申しますと、土方たちは支配層からあまりにも強力な支配を受けている為に、その怒りの矛先を向ける気には慣れなかったのです。何故なら、舞台は土方たち以外誰もいなさそうな高地。そんな高地で支配層に歯向えばどのようになるのでしょうか。助けてくれるものは外部から来そうもなく、為す術もなく源吉のように処刑されます。ですから幾ら仲間を殺す場面を見たくなくても、幾ら仲間の躯を捨てることに抵抗しようとも、こうした閉鎖された特殊な社会で生きる限り、彼らは棒頭たちの支配を受けなければなりません。
 だからこそせめてもの反抗として、仲間を殺した支配層の道具である犬に対して怒りの矛先を向けてるしか出来なかったのです。

2015年1月14日水曜日

電報ー黒島伝治(修正版2)

 16歳で父親に死なれ、真面目に働いているにも拘わらず村の有力者よりも格段に低い賃金で生活している百姓、「源作」は息子に自分と同じ思いをさせまいと、市(まち)の中学校への受験を決意していきます。と言いますのも、村の有力者達は総じてそれなりの学校を出ているので、彼も息子を市の学校へやればそれなりの職業に就いてくれるはずであると考えたのです。
 しかし村の人々の反応は冷ややかで、「……まあ、お前んとこの子供はえらいせに、旦那さんにでもなるわいの、ひひひ……。」と嫌味を言うばかりでした。そしてその度に妻である「おきの」は動揺します。それに対し源作は強気に、「庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」と妻に反論し、自分たちがしている事への正当性を主張します。そしてこうした彼の言い分は、幾分か彼女を安心させる材料にもなったのでした。
 ところがそんな源作にも、自分の意見を変えなければならない事態が起きてしまいます。それは息子の受験が終わり、村の税金をたった一日滞納した時のことでした。そのことで彼は村の村会議員である「小川」に目をつけられ、「税金を期日までに納めんような者が、お前、息子を中学校へやるとは以ての外じゃ。子供を中学やかいへやるのは国の務めも、村の務めもちゃんと、一人前にすましてからやるもんじゃ。」と非難されたのです。その一言で源作は今一度考えなおし、受験の結果を聞かずして息子を家に返すことを決意していきます。
 一体彼は何故村会議員のたった一言で、息子の受験をやめてしまったのでしょうか。

 この作品では、〈息子を貧乏から救うべく教育を受けさせようとしたにも拘わらず、貧乏人故に、虐げられる道へと引き戻さなければならなかった村百姓の事情〉が描かれています。

 あらすじにある問題を解くにあたって、改めて彼がどういった経緯で息子の受験を決意したのか、というところから考えていきましょう。
 そもそも彼の人生というものは、自分がこれまで貧乏であった為に村の有力者に搾取され、言うことを聞かなればならないというようなものでした。その中で源作は、自分が貧乏であるからこのような目に合っている事を自覚すると同時に、もし自分が貧乏でなければこのように苦労することはなかったであろうという思いを育んでいったのでしょう。そして後者の思いは子どもが生まれ成長していく中でも消えることなく募っていきました。それが息子の市の学校への受験という形で表れているのです。
 ここで重要なのは、源作がこうした思いを育んでいった背景には、同時に貧乏人として虐げられ続けてきた、という背景があったことも忘れてはなりません。つまり、彼は誰よりも自分が貧乏人である事を自覚し、自分の気持ちを殺して聞きたくもない有力者の言うことを聞く習慣が身についてしまっているのです。言わば、息子を受験させる数十年の間に、彼は例え自分が嫌なことでも、有力者の言ううことを必ず聞くという心と身体を自らでつくりあげていってしまったのでした。ですから彼は、自分と同じ村の人間の言うことであれば兎も角、村会議員たる小川に指摘された際に、自分は何か悪いことをしているからこそこうも非難されているのではないか、という錯覚に陥っていったのでしょう。
 こうして彼の抱いていた夢は、彼の貧乏人としての気質によって自ら砕いていってしまったのです。また、この作品の最後の2行には、息子は中学の受験に通っていたにも拘わらず、現在醤油屋の小僧にやられている事が書かれてあり、そんな息子の悲劇が貧乏人としての変えられない悲しい運命としてあったことを私達読者は痛感せずにはいられません。

2015年1月12日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版2)

 山男は、ある時山鳥を捕らえ、その嬉しさのあまり獲物を振り回して森から出ていきました。そして日当たりの良い枯れ芝に出た彼は横になり、いつの間にか夢の世界へと旅立っていきます。
 夢の中では、山男は木こりに化けて町を歩いていました。そして、彼はそこで「陳」と呼ばれる薬売りに出くわし、六神丸という奇妙な薬を飲まされてしまうのです。すると山男はたちまち小さくなり、薬箱の中へ閉じ込められてしまいました。これには山男も憤慨し、薬箱の中から大きな声を出していました。しかし陳の、「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」という言葉を聞くと、急に不憫に思い、彼にもう騒がないと約束をしたのです。
 ところが、山男と同じように騙され薬を飲んでしまった者達が薬箱の中にたくさんいて、そのうちの1人から、薬箱に入っている黒い丸薬を飲めばもとの姿に戻れるという事を聞くと、彼はすぐにそれを試して陳のもとから逃げようとします。しかし陳も黒い丸薬を飲んで大きくなり、山男を逃しまいと襲ってきました。
 ですが夢はそこで終わり、目が覚めた彼は、山鳥の羽を見たり六神丸の事を考えているうちに、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言ってあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられる者の気持ちを垣間見たにも拘わらず、それまでの生活を行う為に、それをかき消していった、山男〉が描かれています。

 この作品では、もともと生き物の世界において食べる側である山男が、薬になることで食べられる側の気持ちを知ったにも拘わらず、何故か再び食べる側の気持ちに立とうとしています。では、彼が薬となって夢から覚めるまで、彼の心情にどのような変化があったのかを見ていきましょう。
 山男が陳に騙されて薬になったことを知ると、彼は怒り出し、大きな声で外の人々に自分の存在を知らしめて陳を懲らしめてやろうと考えました。しかしあらすじにもある通り、陳の哀願を聞くと、彼はどういうわけか陳を哀れに思い、もう騒がない事を約束したのです。と言いますのも、彼の中にはこの時、2つの立場が存在していました。ひとつは勿論食べられる者の気持ちであり、もうひとつが食べる者の気持ちです。そしてその2間において、食べる側の気持ちから陳に同情し、食べられる者の立場を潔く受け入れていくことを決意していったのでした。つまりこの時の主体は、食べる側にあったのです。
 ところが黒い丸薬を飲んで元の姿に戻った時はどうだったでしょうか。この時山男は食べる側の気持ちから食べられる側の気持ちを見てはいません。自身の生命の危機に直面し、彼は身も心も完全に食べられる側のものになっていました。
 そして目が覚めた時には、彼は既に食べられる側の気持ちをある程度は理解しているはずなのです。しかしそうであるにも拘わらず、彼はええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と、これからも動物を食べる事を選んでいったのです。これはどういうことでしょうか。
 結論から申しますと、これは山男がはじめ食べる者の側の都合から食べられる者の気持ちを考えていたこととも関連していますが、彼は言わばそれまでの生活のあり方からそうした意思決定をしていったのです。
 例えば、私達はスーパーで売られている豚や牛の肉塊を見ても哀れには思いません。お皿に盛られた焼き魚を見ても同情するどころか、美味しそうという、食べる側の視点からそれを見ることでしょう。そう、私達はそれまでの生活のあり方から、動物がどんな残酷な形で調理されても、それまで食事として食べてきた積み重ねから、中々可哀想という感情がわきにくくなっています。言わば、食べ物の気持ちにはなりにくいのです。そしてもし、それらの気持ちに近づきすぎると、それまで積み重ねてきた生活を続けることが困難になっていきます。
 話を物語に戻すと、この山男も矢張りそうです。彼はそれまでの自分の生活を守るために、またそれまで積み重ねてきた自分と食べ物の関係に引きずられる形で、食べられる動物の側の気持ちを考える事をやめていってしまったのでした。山男にとって、食べられる者の気持ちを考えることは、自分の生活を変えることと同じ意味を持っていたのです。

2015年1月8日木曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版3)

 この作品は、生前は有力な政治家の妻であった「守山未亡人千賀子」宛の、差出人不明の3通の手紙から成り立っています。その3通はどれも未亡人たる千賀子の一挙一動を非難するものばかり。と言いますのも、未亡人となった彼女は、その性質を活用し、人々の同情の眼差しを集め政治家になろうとしたり、男を知った女特有の艶かしさで、年下の男の気持ちを弄んだりしていたのです。
 またその手紙には少し奇妙なところがあり、
 ーーいいえ、それはきまっていました。
 ーーわたしは人間ですもの。
 といったように、あたかも彼女の答えを想定しているかのように、彼女と会話しているかのように、千賀子の台詞らしきものが書かれています。
 そんな手紙の差出人ですが、唯一、彼女が選挙の出馬を決めた後に夫の墓参りをしている場面において、彼女自身が「白痴」のように何も考える事を持っていなかったところについては一定の評価をしているのです。
 一体差出人は、何を評価したのでしょうか。何故彼女の挙動のひとつひとつがそうも気に入らないのでしょうか。

 この作品では、〈ある政治家の妻が「未亡人」になってしまったが故に、世間に対して画策するつもりが寧ろその言葉に振り回されていく様〉が描かれています。

 上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。
 差出人たる千賀子はあらすじにもある通り、どうやら自分が夫に先立たれ、哀れで妖艶な「未亡人」としての社会的な付加価値のようなものを利用し、選挙に出馬しようとしたり、年下の男で遊んだりしているところを不純なものとして強く非難しています。
 では、何故そんな彼女は、墓参りに行った時自分を評価したのでしょうか。それは、まるで「白痴」のように、そうした不純な考えを少しも持っていなかったというところにあります。恐らく、夫が行きている頃の千賀子は、現在のように身の回りにあるものを使って世間の人々に対して画策を企てるような人物ではなかったのでしょう。ところが「未亡人」なってしまってからは、彼女を見る世間の人々の目が急に変わったことを面白がり、自身の性質でいろいろと小賢しい事を考えるようになっていってしまったのです。
 以来、彼女の中には、「未亡人」としての魅力で世間を惹きつけたいという欲求と、「未亡人」などといういやらしいものに負けてそれまでの自分を見失いたくないという、2つの相反した感情が葛藤するようになっていったのでしょう。ですから墓参りを終えた後の彼女は、政治家としての華々しい人生を期待しながらも、心の内では「これで自分はいいのだろうか」という不安を抱いており、瞳を濁らせていたのです。