ワシントンにある、芸術家たちのマンションに住んでいたジョンジーは、その年に流行した肺炎にかかってしまい、ベッドに横向けの儘、動けなくなっていきました。彼女と同じアトリエに住んでいるスーは、医者から、助かる見込みは本人の意思で大きく変わることを告げられます。そこで彼女はどうにか元気づける手はないかと思い悩みますが、一方のジョンジーは彼女の部屋の窓から見える木の葉っぱの数ばかりを気にしていました。
「最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ。」
この言葉は聞いたスーはすっかり落ち込んでしまい、彼女たちと仲のいい、ベアーマン老人に相談する気になったのです。この老人はいつか必ず傑作を描くのだと言いつつも、なかなか筆をとろうとしない、芸術家として破綻した人なのでした。彼はこの話を聞いた途端、憤慨するばかりでした。
そして次の日の夜、彼女たちの街に激しい豪雨が振り、葉っぱもいよいよ1つとなってしまいます。ところがその1枚というのが、なかなか落ちないのです。それを期にジョンジーの体調も徐々に回復の兆しを見せていきます。
ですがあろうことかベアーマン老人は、肺炎の餌食となってしまい、遂にはこの世を去ってしまいました。管理人から話を聞くと、彼はあの豪雨の夜、どこかに出かけていたようだったのです。そしてあの最後の一枚の葉をよく見ると、それは壁に描かれた絵だったのでした。
この作品では、〈大切な人の願いを叶えようとしたが故に、かえって自らの夢を成就させた、ある老人画家〉が描かれています。
ジョンジーの病気を治したい。これが言うまでもなく、スーの無垢なる願いでした。さてこれを聞いた時のベアーマンはどのように感じたことでしょうか。残念ながら彼の心情を直接表現されている箇所はなく、僅かな括弧書き(※)と豪雨の中、壁に最後の一葉を書き上げたという事実から読み取るしかありません。しかしそこをあえて描かず読者に委ねた事が、この作品を非凡なものにさせているのです。何故なら、ベアーマン老人の生前における自身の芸術に対する重みを、読者は行間を読むことで深く知る事ができるからに他なりません。
ベアーマン老人は恐らくスーの言葉を聞いた時、嘆く一方である使命感に燃えていた事でしょう。そう、画家としての使命感です。彼は以前から、傑作を描くのだ描くのだと言いつつも、筆をとろうとはしませんでした。ですがジョンジーの一大事が、同時にベアーマンにとって、傑作を描くきっかけになったのです。そして文字通り、彼は命を賭して作品を描き上げ、ジョンジーの命を救ってみせました。
ここからベアーマンにとって、ジョンジーを救ったという行為と命をかけて芸術作品を完成されたという事が同じ意味を持っていたという事が理解できます。それだけ、彼の芸術の対象とするものは重くなければならなかったのです。また私が一般性において、スーを「大切な人」と規定したのもそこから由来します。
彼にとって芸術とは、大切な人達を守り救う力を持つ、そういった偉大なものでなければならなかったのです。
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