2014年12月1日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版)

 ある時、山鳥を捕まえた山男は、嬉しさのあまりそれをぶらぶら振り回しながら森から出ていきました。やがて日当たりの良い枯れ芝に辿り着いた彼は、仰向けになって、あまりの気持ちよさにいつしか夢の中へと旅立っていった様子。
 夢の中でどうやら彼は、木こりに化けて町へと来ていました。するとそこには、赤い、とかげのような目つきをした支那人の薬売りの陳がいて、「あなた、この薬のむよろしい。」と、六神丸なる薬を山男にすすめてきます。彼もこれには警戒していましたが、ついつい断れず飲み込んでしまいした。すると、なんと彼の身体はみるみる小さくなり、陳の薬箱の中へ閉じ込められてしまったではありませんか。
 そこには山男と同じく、陳によって六神丸を飲まされた者達がいて、皆六神丸となって泣いていました。その中の一人が彼に話しかけてきて、どうやら黒い丸薬を飲めば、もとに戻るらしいのです。
 そこで山男は陳の隙をねらい、その丸薬を飲んでもとの姿に戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを呑んでしまったので、山男よりも大きくなり、彼を捕まえてしまいます。
 しかし夢はそこで終わってしまい、目が覚めた山男は野に投げ出された山鳥を見たり六神丸の事を考えたりして、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
 と言ってあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったにも拘わらず、あえて食べる側の気持ちを優先しなければならなかった、ある山男〉が描かれています。

 この作品の面白みは、自分と山鳥、陳と自分といった、食うもの食われるものの関係を客観的に考え、夢の中での自分の気持ちを整理したにも拘わらず、「ええ、畜生、夢のなかのこった。」と言ってあくびをしながら考える事をやめてしまったところにあります。では、何故彼はそれ以上、食べられる側の気持ちについて考えなかったのでしょうか。
 答えは単純で、例え食べられるものの気持ちを考えたところで、結局食べなければいけない事実は変えられないからに他ならないのです。私達でも「この牛や鳥達は、こうして調理されて出てくる前は、自分たちと同じように生きていたんだな」と考え同情する事は十分あるかとは思います。しかし、それ以上食べられるものの気持ちを考えたらどうなることでしょうか。
 私は小さい頃、親戚の漁師が釣ってきた生きた蟹を、母が熱い鍋の中に突っ込んでいるのを目の当たりした時は衝撃を覚えました。蟹は苦しそうに鍋の中から出ようとしますが、母の右手に握られた菜箸がそれを許してはくれません。私は子供心ながらに蟹が可哀想で、食べることにやや抵抗があった事は今でも覚えています。
 以来、そうした経験が幸いにもなかったのか、その時の思いが薄れてしまったのか、そうした事はありませんでしたが、そうした出来事を何度も経験していたなら、今の私はきっと蟹を食べることはできなくなっていたでしょう。
 物語の山男も矢張り同じです。陳の夢の事を狩りの度に、或いは食べる度に思い出していると、徐々に躊躇しはじめ、いずれかは自身の食に支障をきたしていく事でしょう。
 ですから、一度自分の気持ちを整理した上で、食べるものの都合を優先しなければならなかったのです。

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