安田家を後にした来島は、次に自分が何をすべきかをよく理解していた。彼はポケットから携帯電話を取り出しどこか繋げた。が、彼はコールボタンを押したかと思うとすぐに赤いボタンを押してさっさとポケットに再びしまった。そして、暫く彼が歩いていると、ポケットの中から、何かが震えるのを感じた。ところが来島はその振動があった事を心のうちで認めると、歩幅を大きくして先を急ぐばかりであった。
彼が向かった先はオフィス街の中心であった。暗闇が支配するこの時刻、昼間の慌ただしさとは打って変わって人気はない。静寂のみがあたりを蠢いている。そして巨大なビルとビルの間に申し訳なさそうに間に挟まれている建物に、来島は吸い込まれるように入っていった。そこが死神の住処であった。そしてその死神が自分の家を開けて最初に目にした人物こそ、彼の数少ない協力者であり、パートナーである鈴木である。
「よう、先に上がってるぜ。」
彼は何やら鍋で何かを煮込んでいるようである。来島はこうした彼の挙動に、呆気に取られながらも平生を保った。
「……ああ、呼んだのは俺だ。」
が、そんな死神に心中を察したのか、鈴木は笑みを浮かべながら付け足した。
「そうカッカするなよ。腹が減っただろう。メシにしようぜ。」
死神はため息をついた後、靴を脱いで奥に入っていった。
彼が着替えを済ませる頃には夕食の準備は済んでいたようである。部屋中にバターと醤油の香ばしい匂いが広がっていた。リビングの中央にはある机には、2つの皿があり、どちらにもよく炒められたシメジとパスタ麺が盛られていた。和風パスタである。
来島はあぐらをかいて座り、目の前の皿を睨んで合掌した。そしてフォークを片手に器用に面をからめ口に運んでいった。が、作法は重んじているものの、何処か食に対する卑しさを感じずにはいられなかった。空腹だったのである。そしてそうした来島の姿を鈴木は楽しむように、自分自身はのんびりと味わっていた。
「旨いか?」
そう聞かれた来島は彼と目と合わせると再び目線をパスタに注ぎ麺を口に詰めた。そして、皿から麺が全て消えていくかいくまいのところで、漸く口を開いた。
「頼みたいことがある。」
思わず鈴木は再び彼の方を見た。彼もこちらを見ている。
「あの男づての仕事か?」
「……。」
「気が進まないね。」
「他に頼むアテもないんだ。」
そう述べる来島は、鈴木から一切目を離さなかった。彼のその事には気づいてはいたが、あえて目を合わせなかった。ただ黙々と食事をとった。
「……やらないとは言ってない。ただ、俺はあの男が好きじゃないだけさ。仕事は仕事、それがプロだ。」
「……。」
来島は何かを噛みしめるように、最後のパスタを口に運びじっくり味を楽しんだ。
「それで来島、俺は何をするんだ?」
「こいつを調べてくれ。」
「安田隆一……癌患者か。」
「ああ、今は奥さんが安田氏の看病しているんだが、その奥さんにそれ以上迷惑をかけたくなくって死にたいらしい。」
「成程。」
鈴木は冷笑まじりにそう答えた。その男から何か、目出度さのようなものを感じずにはいられなかったのである。
「出来るか?」
「任せろ、すぐに基本的な事は分かる。で、殺してやるんだろ?」
「彼が死を処方するに値するならな。」
「はいはい、勝手に言っといてくれ。」
呆れたような口ぶりであった。しかしそのような鈴木の表情を見ても、来島は眉ひとつ動かさなかった。
「……っま、どうせわかっちゃいるんだ。とっととはじめよう。」
そういうと彼は持ってきた茶色いリュックサックから自作のノートパソコンを取り出した。来島にはインターネットにおける情報の知識や電子機器の事は専門外である。しかし鈴木のことはすっかり信頼していたので安心して任せられた。彼は鈴木が着々と準備している間、食器を片付けて珈琲をいれることにした。
「でたぞ。」
そう鈴木が呟いたのは、来島が彼の前に珈琲を出したすぐの事であった。来島はすかさずパソコンのディスプレイに目を近づけた。
「……この会社名、聞いたことあるなぁ。」
「そりゃそうだろう。」
嘲笑気味に鈴木は答えた。一方来島は平生を装おうとしたが、眉が一瞬釣り上がったのは隠しきれなかった。
「大手の建設業会社の名前だぜ。おい、しかも役員やってたのかよ。おっさんやるじゃん。」
「……。」
「一応裏はなさそうだぞ。」
「……。」
鈴木の言葉に来島はなんの反応も示さなかった。鈴木はそんな彼の様子に深くため息をついた。
「まだ調べてみるか?」
「そのつもりだ。今日はもういいから、早速明日から取り掛かろう。」
「来島ぁ。」
急に鈴木の声色が変わった。勿論、それに気づかない来島でもない。
「お前、長生きできねぇぞ。」
来島はパソコンから目を離し、鈴木の方を向いた。彼は未だにパソコンの方向を向いてはいるものの、遠くの別のことろを見ているようでもある。やがて来島はパソコンの方を向き直し、ただ一言言うばかりであった。
「参考にするよ。」
※※※
その日、洋子の機嫌はここ数週間のうちで最も良いものとなった。はじめは夫の気まぐれで害虫駆除業者にお金を払うことに憤慨していたが、業者の青年の礼儀正しさ、真面目さ、そして何より若さと筋の通った鼻、形の良い顔の骨格などの容姿などが、自然と彼女を浮かれさせたのだ。それに、青年の笑顔やいちいちの仕草が洋子を夢中にさせた。結婚して以来、夫以外の男と20年以上接触のなかった彼女にとって、それだけ彼のような男の存在は貴重なのである。
「終わりましたよ、奥さん。」
快活な声で青年は言い放った。すかさず洋子はそれに反応した。
「お疲れ様、冷たいものでもいかが?」
「ありがたいです、床下は埃っぽいから。」
「じゃあすぐ持ってくるから。」
そう言うと洋子はすぐに冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったコップに注いだ。パチパチと氷の溶ける音は洋子すらも飲みたくなる程である。気がつけば彼女の喉も枯れていたのだ。
「どうぞ、かけて頂戴。」
洋子はコップをリビングの机の上に置いた。そして青年は「すみません」と言い、置かれたコップの手前の椅子に座りゴクゴクと飲んでいく。口から麦茶が零れたが、それがかえって青年の首筋の血管を際立たせ色気を増すのである。洋子は頬を赤らめた。
「っぁあ!美味しい!!!」
そう言うと青年は唇についたお茶を手で拭った。
「あら、何杯でもおかわりしてね。」
「いやぁもう結構、十分です。ところでこの家はいつ建てられたんですか。シロアリやゴキブリは小さいけれど行動範囲が広いから、ご近所にも同じぐらいの部屋があったらちょっと心配なんです。
「うーん、そうねぇ。あるにはあるけど……。」
洋子は歯切れが悪そうに言った。青年は辛抱強く2の句を待った。
「この近所だと、安田さんの家だけど、多分あそこはシロアリどころじゃないと思うの。」
「どういうことですか?」
青年は前のめりに話を聞いていた。その姿に洋子は口を開かずにはいられなかった。
「い、いやね、旦那さんが癌になって以来、そこのお嫁さん、奈保子さんって言うんだけど、奈保子さんがずっと面倒を見てるって。ああいうの、確か老々介護って言うのよね。」
「そうですか、でも夫婦仲がいいんですね。」
「それがねぇ、そうでもないみたい。」
洋子の目は水を得た魚のようにキラキラと輝きだした。青年はその変化を逃さなかった。
「そうなんですか、でもご主人さんを介護しているんでしょう?」
「だって、他に頼るところがないから、仕方なくじゃない。詳しくはあたしもよくしらないけど、あの夫婦、何年か前に子供を亡くしているみたいよ。」
一瞬、青年の目が大きく見開いた。
「何故、亡くなったんですか?」
「事故なんだって。何十年か前に洪水で流されたんだって言うの。夫婦もそれまでは仲睦まじいい間柄だったらしいけど、それからは他人も同然。旦那は仕事仕事で家には一切寄り付かないし、奈保子さんは奈保子さんで趣味の茶道教室や習い事で忙しくしてたみたいよ。」
「そうですか、なんだか想像も出来ませんね。」
「そう?まぁあたしはそこの茶道教室に通っていたんだけど、奈保子さんは楽しそうにやってるみたいだったけど。内心ご主人の事はどうでも良かったのかもね。」
「……。」
「そうだ、お兄さんもいることだし、久しぶりにあたしもお手前を披露しちゃおうかしら。」
洋子は興奮のあまり、自分でも思わぬことを口走り、いよいよ顔を真赤にしていた。しかしそれとは裏腹に、青年は下を向いたままでボソボソと呟いた。
「結構です、もうお暇しないと。」
「……そう、残念。」
洋子は肩をすくめた。しかし今日だけではないだろうという、無根拠な自信が同時に彼女の内から沸き上がってきた。
「でもでも、今日だけじゃないでしょう。また点検とかなんかでまたくるでしょう。」
「ええ」と青年は、再び屈託のない笑顔を彼女に向けた。それを見るだけで、洋子は自分の思いが通じた気さえした。
「また寄らせていただきますよ。その時もご贔屓に。」
そう言うと青年は持ってきた荷物をさっさと片付け簡単な挨拶をして出ていった。その右手には洋子の電話番号の書いている紙がしっかりと握らされていた。
※※※
来島が外で安田氏の情報を集めている間、鈴木は安田家の近くで双眼鏡と集音マイクを使って、所謂、「張り込み」をしていた。が、彼らに夫婦らしい会話は一切なく、「お茶はいらないか。」「背中を拭くか。」など、事務的な内容のものばかり。流石に鈴木もこれには眠気を覚えずにはいられなかったが、別の事を考えたり、安田氏の挙動の細かい部分に興味を持ったりなど、彼なりの工夫をしてそれを凌いでいた。そんな時である、突然彼の肩をトントンと叩いてくるものがいる。思わず肩に力が入った。振り返ってみるとそこには来島の姿があった。鈴木はイヤホンを外しながら抗議した。
「脅かすなよ。」
「すまん、ところで差し入れだ。」
見ると彼の右手にはコンビニのレジ袋が握られていた。中には弁当が入っているらしい。
「おう、サンキュー。助かったわ。」
「どうだ、調子は?」
「ああ、夫婦の会話ってこんなにもないのかっていうぐらいなんも話さないな。あと戸籍標本持ってきた。」
「持ってきたって、夫婦の本籍地は岐阜だろう。どうやって……。」
「住基ネットをハックしてプリントした。役所印がどこにもないだろう。」
そう言って鈴木は来島に戸籍標本を手渡した。彼はすっかり感心してしまった。いつもはおどけたようなことばかり言っていても、こういうところは自分よりも先輩だとも思った。
「続柄のところを見てみろよ。昔子供がいたんだ。隆行(たかゆき)って言うらしいな。」
「知ってる、近所に聞き込みをした時に分かったんだ。交通事故で亡くなっているらしい。こっちも当時の新聞のコピーを持ってきた。」
そう言うと、彼はコンビニ袋を机に置いて、反対にもっていたビジネスバッグから資料を取り出そうとした。
「なんだ、知ってたのか。」
鈴木はつまらなさそうに言った。それに構わず、来島は続ける。
「しかし、問題が夫婦間となると直接接触した方がいいかもな。」
「安田のおっさんにか?」
「奈保子夫人にだ。俺に考えがある。」
「ほう……。ところで来島ぁ、ここの部屋の奴はお前んところの会長とどういう繋がりだ?明らかに誰か住んでいるぞ。数日のうちにこんな部屋を貸してくれるなんて、妙だとは思わなかったのか。」
確かに鈴木の言い分も苦しまには理解でした。部屋を見渡すと冷蔵庫や箪笥などの家具はひと通り揃っており、観葉植物などの住居人の趣味も思われるものまである。しかし、何事も私情を挟まないほうが良い事も来島は同時に理解していた。
「金持ちの道楽者の家。それ以外はしらない方がいい。」
「……ふうん。」
そう言って鈴木は納得した風を装い、弁当の蓋を開けはじめた。
※※※
安田奈保子(なおこ)はいつものように行きつけのスーパーで買い物をして帰ろうとしていたところ、荒々しい男たちの声を耳にした。それらはどれも若そうである。が、同時に物騒だとも彼女は思った。奈保子は警戒しその声を注意深く聞いた。どうやら路地の隙間から聞こえてきているらしい。しかもこちらに近づいでくるではないか。「待たないか」、「許されると思ってんの」という叫び声が辛うじて聞きとれる。誰かが追われているようであった。やがて路地の隙間から1人の男が現れた。背は高く、スーツを着ていた。どうやら社会人になって間もないような青年である。そしてそれに続いて2、3人の若い衆が路地の影から出てきた。彼らは青年とは対照的に、パンツを腰で履いたり髪を伸ばし放題伸ばしたりと品がなく、どれもが兎を狩る狼のような形相をしていたのだ。奈保子には、彼らはこの青年を追いかけて楽しんでいるように見えた。やがて青年は奈保子の少し先のところでつまずいてしまった。柄の悪い不良共は彼を嘲り笑う。
「だっせぇぇ!!つまずいたぜこいつ!!!!!」
「人にちょっかい出すからだよぉ、おっさぁん。」
やがて不良共は笑うことに飽きると、なんと今度は青年を蹴手繰り遊びはじめたではないか。ここまでくるとじっとその様子を見守っていた奈保子も黙ってはおけなかった。彼女は鞄に持っていた携帯電話を握りしめて、一歩一歩彼らに近づいた。すると、不良共の1人が彼女の存在に気がついた。
「おい、ばばぁ!!なんか文句あるの?」
奈保子はそれに負けじと虚勢を張った。
「通報しましたよ!!」
彼らに一瞬、動揺が走った。が、なめられてもいけないという気持ちも同じぐらい強かった。男3人が鋭い目つきで老婆を見てきたのである。が、奈保子はここで視線を反らすと不味いと思い、それらから決して目を離すことはなかった。やがて、1人のリーダーらしき男が遂に自身の不安に負けたらしく、
「もういい、行こうぜ。」
と言い、仲間を引き連れて去ろうとした。仲間も流石に警察沙汰は嫌だと思ったのか大人しくその言葉に従いその場を去っていった。ここで漸く、奈保子も大きく息をつくことができた。そして、青年に優しく声をかけてやった。
「大丈夫なの?」
「……え、ええ。なんとか。」
見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったと思われるスーツは埃と不良共の足あとだらけである。
「あらあら、ひどくやられちゃったね。どう、うちにきてゆっくりしていったら?」
青年は少し困ったような表情を見せた。
「いや、お気持ちは有難いですが、流石に迷惑ですので……。」
しかしそんな青年の姿は、奈保子には少し滑稽に見えた。
「なに言ってるの。そんな格好でどこ行くかは分からないけど、うちでゆっくりしていった方がいいわよ。」
この言葉に青年は観念したらしく、微笑を見せながら漸く地面から起き上がった。
「すみません、ご厄介になります。あ、申し遅れました。来島明良と言います。」
※※※
来島は不良たちを使い奈保子と無事接触に成功した後、安田家のシャワーを借り汚れを落とさせて貰った。そして今は茶の間、嘗て茶道教室として使われていたであろう草庵に部屋へと招かれていた。壁には「一華開五葉」の掛け軸が掛けられてある。彼女は彼を怪しんでいる様子は一切ないらしかった。
「すみません、何から何まで。」
そう来島が言うと、奈保子は微笑んでそれに応えた。
「いいのいいの。うちにはどうせ、私と主人だけしかいないんですから。」
「ご主人さんもいるんでしたら是非挨拶しておかなければ。見ず知らずの男がいきなりいたら驚いちゃいますよ。」
「いいえ、主人はちょっと病気してて家をウロウロすることなんてないの。」
「病気、ですか。」
「そう、癌なんです。」
来島はわざと驚いたような表情を見せた。
「そうだったんですか……。いえ、うちも祖母が癌でしてね。実家の兄夫婦が介護してるんです。」
「そう、お兄さんも大変ね。」
「ええ、いつも苦労話ばかり聞かさていますよ。」
「そうねぇ、結局、負担は全部家族にいっちゃうのよね。」
来島は内心ぎょっとした。奈保子の言い方はそれ程までに空虚でひやりとする冷たさを帯びていたのである。
「でも、頼りは兄だけなんです。それはご主人さも同じじゃないですか。」
「そうね……。なんせ主人は医者の言うことを押し切って、我儘で自宅療養になちゃったもんだから。それで2言目には、俺は病気だからっていうの。ホント嫌になるわ。」
「……。」
「……。」
「それにしても本格的な草庵だなぁ。」
「あら、分かるの?」
急にそれまでの冷ややかな空気は去り、奈保子の表情もぱっと明るさを取り戻した。
「ええ、古い建物を見るのが好きでして。お茶をされているんでしょう。」
「昔はこれでもお茶の先生をやっててね。仕事仕事の主人が建ててくれたの。家にいれないせめてもの罪滅ぼしにね。」
「いいご主人さんじゃないですか。」
「そう?何事にも細かくれて五月蝿いよ、食べのもだって好き嫌い激しいし。レバーはダメ、きのこ類はダメ、トマトはダメ。献立を考えるのにも一苦労よ。」
「……。」
「貴方には嫌いなものはないの?」
「ええ、昔から母には食べ物に関して五月蝿く言われてきたので。」
「なんだか私と話していると、それこそお母さんといるみたいじゃない。」
「そんな。」
「いいの。それぐらい歳は離れているんだし。そう言えば、貴方仕事は?」
「実は先日まで勤めていた会社が潰れてしまって……あ!!」
急に来島は何か思い出したように言った。
「すみません、僕面接に行くところだったんです。」
その言葉を聞いて、奈保子もついつい慌てだした。
「あら大変!」
「すみません、折角お邪魔させていただいたのに。今度改めてお礼に伺います。」
「そんな、いいの。忘れ物だけないようにね。」
そう言うと奈保子は来島を玄関まで送って行くことにした。来島は手早く準備を済ませ、早々に立ち去っていった。
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