2011年11月29日火曜日

再度生老人ー佐々木雄俊郎

「私」が十一の頃、「私」の家の近所の寺に、焼和尚という渾名のお坊さんが住んでおり、彼は女と絵画や彫刻や陶器類が好きで、彫り物師とか画家とかいえば、どんな身窄らしい姿をした、乞食のような漂泊の者でも、幾日でも泊めてやりました。その代償として、焼和尚は彼らに自分の為に作品をつくらせていました。
そんな彼のもとに、ある時一人の見窄らしい老人がやってきます。そしてやはり、焼和尚はこれまでの人々と同じように、この老人にも寺に泊める代わりに、何か作品をつくらせようとします。ところがこの老人は絵が描かけるのにも拘らず、それを拒んでしまいます。そこで、和尚は彼に煙草や卵を与えず、一人だけ楽しみます。ですが、それでも老人は彼の為に絵を描くことはありません。一体彼は何故絵を描かなかったのでしょうか。
この作品では、〈義理と人情を重視した、ある老人と違いの利害を重視したある和尚の対立〉が描かれています。
まず、老人は何も一切絵を描かなかった訳ではありません。事実彼は幼かった頃の「私」が天神様の絵を欲しがると、「気が向いたら描いてやる。」と一応の約束をしています。では、この「気が向いたら」という言葉には、一体どのような意味が含まれているのでしょうか。その後、「私」は老人に絵を描いて貰いたい一心で、彼が欲しがっていた煙草や卵を次々と持って来ました。そして、ある日老人は「私」に対しての感謝を表すかのように、彼が欲しがっていた天神様の絵を送ったのでした。そう、まさに老人の「気が向いたら」という言葉の中には、こうした彼への恩や感謝を感じることができたらなら、等の意味が含まれていたのです。
そしてこの物語では、こうした老人の義理や人情によって、他人に何かを与えるやり方に対して、対照的に何かを他人に与えている人物が存在します。それこそが焼和尚その人です。和尚が感謝や恩の為に何かを与えているのであれば、彼は互いの利害関係を追求したやり方を採用し、はじめから相手に何かしてもらうことを期待していました。だからこそ、和尚は互いの利害を確認しあい尚且つ、相手が自分に何かを与えない限り、相手の望むものを出さなかったのです。
また、この和尚と老人は火と油の関係にあり、彼らは作品の中で幾度となく衝突を繰り返します。そしてこうした彼らの対比こそが、作品を滑稽に見せ、それ自体に面白みを持たせているのです。

2011年11月27日日曜日

身投げ救助業ー菊池寛

武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋のところに疎水があり、そこは自殺の名所として、多くの人々が身を投げていました。そして、この橋から4、5間ぐらいの下流に、疏水に沿うて1軒の小屋があり、そこには背の低い老婆が住んでいました。彼女は人々が橋から身投げするとすぐに飛んでいき、竿を突き出し、多くの人々を救ってきました。そして彼らを救った報酬として、政府から1円50銭をもらい、郵便局へ預けに行きます。ですが、これはもともとはお金の為ではなく、あくまで死んでゆく人々を哀れんではじめたことなのです。それが長い歳月が過ぎる中で、人々を救う技術をあげると共に、老婆の動機もまた、お金や自己の満足の為へと変わっていってしまいます。
そんなある時、老婆の娘は、彼女が店を大きくするために貯めていたお金を持ち出し、ある旅役者と共に逃げ出してしまいます。これには流石の老婆も驚愕、そして絶望し、やがては自殺することを考えはじめてしまうのです。果たして彼女は、これまで自分が行なってきた行動と反することをして、この儘死んでいってしまうのでしょうか。
この作品では、〈相手の立場がわかるあまり、自身に対してしてくれた事に対して憎しみを抱かずにはいられなかった、ある老婆〉が描かれています。
まず、老婆は結果的に色の黒い40代の男性に助けられます。ですが、彼女はあろうことか、自分がその男に助けられたことに気がつくと、掴みたいほど彼を恨んでいるというではありませんか。一体何故、彼女はこう感じてしまったのでしょうか。
恐らく彼女は、男の彼女の気持ちに全く気がついていない無神経さ、そして自分が誰かを救ったという自慢、こうしたものに怒りをかんじているのでしょう。というのも、これらのことは、老婆がこれまで人々を助ける中で感じてきたことでした。また、老婆はこれまで自殺者が竿を掴むということは、彼らは心の何処かで生きたいと感じており、またそうした望みを自身が叶えているのだから、これはいいことをしているに違いないと考えてきました。ところが、今度は老婆が救われる立場に立った中で、彼女は自身の命が救われたことに対して、不愉快に思っているではありませんか。すると、彼女は、これまで自分が救ってきた人々に対して、ある種の偏見を持っていたということになります。更に自身がそうであったように、自分を救った男もまた、彼女と同様に自身がそんな偏見を持っていると気づきもせずいいことをしたと思っており、それが輪をかけて彼女の怒り、恨みを助長させているのでしょう。言い方を変えれば、老婆はその男を通して、それまでの自分、またそれまで自分が感じてきたことに対して、憎しみを抱いているのです。

お住の霊ー岡本綺堂

残念ながら、今回は作品の一般性を見つけることができませんでしたので、あらすじのみをアップしておきます。

麹町霞ヶ関に江原桂助という旗下が住んでおり、その妹は5年前、飯田町に邸
を構えている同じ旗下で何某隼人のところへ嫁入りし、子供まで出来て仲睦まじく暮らしていました。ですが、ある時突然そんな妹が夫と離縁してうちへ帰りたいと言ってきました。これには兄も納得がいかず、彼女を問い詰めました。すると、今から10日前の晩、何者かが「もしもし」と細い声で彼女を起こす声を耳にしました。そこで妹は枕をあげてみると、そこにはなんと、18程の歳の散し髪の顔色の悪い、頭から着物までびしょ濡れの娘が悲しそうにしょんぼりと座っているではありませんか。そして娘は枕元まで這ってきて、「どうぞお助け下さい、ご免なすッて下さい」と、泣きながら妹に訴えてきます。これには彼女も恐怖を覚え、思わず目を閉じますが、再び開くと娘はもうそこにはいません。また、それと同時に彼女の子供も、「アレ住が来た、怖いよゥ」と泣き出します。その日から、妹とその子供は、毎晩こうして、幽霊の住という娘に苦しめられることとなるのです。さて、一体この住という娘は何者で、何故毎晩彼女らの前に現れるのでしょうか。

2011年11月25日金曜日

唇草ー岡本かの子

「私」の従弟でる千代重はある初夏の頃、突然それまで住んでいた寄宿舎を出て、農芸大学の先輩にあたる園芸家の家へ引っ越すと言い出しました。そこで「私」がその事情を聞くと、その園芸家は仕事に熱中するあまり、家庭のことを見ず、そこの妻、栖子が可哀想なので、それを放おってはおけないというのです。これに対して、「私」はあまり同感できませんでしたが、取り敢えず彼の様子を見ることにしました。ですが、彼はそこまで栖子の事を気にかけ、また愛情を感じているにも拘らず、肉体的な関係をもつ事を拒んでいる節があります。一体何故彼は、自分が愛する女性と肉体関係を持ちたがらないのでしょうか。
この作品では、〈結果よりも過程的なものを楽しもうとする、ある男〉が描かれています。
まず、千代重に関するあらすじの問いの答えは、下記のような考えからきています。「肉体的情感でも、全然肉体に移して表現して仕舞うときには、遅かれ早かれその情感は実になることを急ぐか、咲き凋んで仕舞うかするに決ってることだけは知っています。つまり、結婚へ急ぐか、飽満して飽きて仕舞うか、どっちかですね。そこで恋愛の熱情は肉体に移さずなるだけ長く持ちこたえ、いよいよ熱情なんかどうでも人間愛の方へ移ったころに結婚なり肉体に移せば好い。」つまり彼はここで、どうせ行く先は決まっているのだから、それまでの過程を伸ばし恋愛をより楽しむべきだ、と述べているのです。言わば彼にとって、恋愛をして何かを成し遂げる事が目的なのではなく、恋愛をすることこそが目的となっているのです。

2011年11月23日水曜日

駆落ーライネル・マリア・リルケ

高等学校生徒のフリツツと、バラの花のついた帽子と茶色のジヤケツを着た娘、アンナは互いに愛しあってはいるものの、家の事情により、公には会えない関係にありました。
ある晩、フリツツは自身の家に帰ってみると、彼の机の上には一通の小さい手紙がありました。その差出人はアンナで、内容は彼女の父になにもかも知られてしまった為、彼女は一人で外に出歩けなくなった。そこで、これを機に彼女は二人で駆落しよう。朝6時に、ステーションで待っているというものでした。これを読んだ彼は、彼女が自分の女になるということ、一人前の男になったことを感じ非常に喜びます。ですが、彼は次第に別の気持ちを感じはじめ、やがては駆落を躊躇していくようになっていきます。さて、その気持とは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈理想だけを見ている彼女を保護しなければならなくなった為に、現実的に物事を考えた挙句、彼女を保護できなくなっていったある少年〉が描かれています。
まず、フリツツは上記にあるように、はじめは駆落ちに対して非常に前向きに考えています。ところが、彼が考えている駆落には、ある大きな問題がありました。それは、「アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する地位に立つのだ。」とあるように、彼はアンナと駆落するということは、彼女を保護、つまり彼女の生活をも支えなければならなくなるということなのです。ですから、彼は駆落に関して、何処へいくのか等の具体的な問題まで考える必要があったのです。ですが、彼にとって、これらはいくら考えても答えの出る問題ではありませんでした。そして、いつしか彼は駆落とは夢のようなもので、現実的なものではないと考えるようになっていったのでしょう。だからこそ、彼は手紙を出したアンナに対して、「どうもアンナだつて真面目に考へて、あんな手紙を書いたのではあるまい」と、正気でこのような事を言い出したのではないと考え、ステーションには彼女は来ないだろうと思うようになっていったのです。そしてその確認為、彼はステーションへ彼女が来ないないかを確かめに行きます。
ところが、肝心のアンナの方はどうでしょうか。フリツツの考えに則るのであれば、彼女は言わば彼に保護される側の人間ということになりますが、これに対しては彼女も自身の手紙に「アメリカへでも好いし、その外どこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。」とあるように、その立場に甘んじている節が見受けられます。そうすることによって、彼女は少なくとも彼よりは現実的に駆落を考える必要はなく、理想的に甘い駆落を描いていればよかったのです。ですから、彼女はあのような手紙を書き、待ち合わせのステーションにやって来れたのです。
しかし、彼女の姿をステーションで見たフリツツは彼女に対して恐怖を感じました。それは無理もありません。アンナと駆落をするということは、これまで考えていた不安が、現実のものとなってしまうということなのですから。だからこそ彼は、彼女に対して「この人生をおもちやにしようとしてゐる」という印象を抱き、その場を去らなければならなかったのです。

2011年11月20日日曜日

牛をつないだ椿の木ー新美南吉

人力曳きの海蔵はある時、牛曳きの利助と共に水を飲む為、山の中へと入っていきました。その際、利助は牛を逃がさないよう、道の傍らにあった椿の若葉にくくりつけていました。ですが、その椿はやがて繋がれた牛によって、その葉っぱを全て食べられてしまいます。更に、それはこの付近に土地を持っている、年取った地主のものでした。そして、これを知った地主は当然カンカンに怒り、海蔵は利助をまるで子供のように叱りとばしました。そこで地主の怒りをおさめる為、「まあまあ、こんどだけはかにしてやっとくんやす。利助さも、まさか牛が椿を喰ってしまうとは知らずにつないだことだで。」と、彼をなだめはじめます。そして、この海蔵の言葉に、地主もその怒りをしずめ、その場を去っていきました。
その晩、海蔵は母にその事を話し、その中であそこに井戸があればいいのにと、思いはじめます。そして彼はやがて井戸をあそこにつくろうと心に決めていきます。ですが、その為にはお金を30円貯めなければならないこと、そこの地主を説得しなければならないという、2つの大きな問題があります。果たして彼はこの2つの問題を解決し、無事井戸を掘ることができるのでしょうか。
この作品では、〈目的として良いことをしようと思ったにも拘らず、手段が目的となってしまったために、かえって悪いことをしかけてしまった、ある男〉が描かれています。
まず、海蔵は1つ目の問題であった30円の設備費は、2年間好きだった駄菓子を買うことを我慢に我慢を重ね、やっとの思いで貯めることができました。ですが、肝心の地主の承諾をなかなか得ることができません。しかし、幾度が交渉を続けていく中で、地主の息子は彼に「そのうち、私の代になりますから、そしたら私があなたの井戸を掘ることを承知してあげましょう。」と、告げるのです。この言葉を聞いた海蔵は喜び、そしていつしか「あのがんこ者の親父が死ねば、息子が井戸を掘らせてくれるそうだがのオ。」と思ってしまうのです。この心こそ、彼の最大の間違いなのです。
そもそも彼は椿の道のあたりで、喉が渇く者が多いことを理由に、つまり皆の為を思い井戸を掘る事を心に決めていました。ですが、そんな彼が一人の人間の不幸を願ってしまっては、彼の目的そのものが矛盾してしまいます。ですが、彼はこうした道の踏み外し方をしたのには、実は彼のその思いの強さにあると言えます。例えば、私たちの日常でも、パチンコやギャンブルに興じる人々は、大抵、お金を少しでも多く増やすために、それらのゲームを行います。ところが、その思いが強すぎるために、それに熱中し、やがてはギャンブルそのものが目的となっていることさえあるのです。まさに、彼はこうした思いが強かったために、かえって目的を見失い、手段に固執してしまったのです。

2011年11月17日木曜日

お月様の唄ー豊島与志雄

むかしむかし、まだ森の中には小さな、可愛い森の精達が大勢いました頃のこと、ある国に一人の王子がいられました。彼は自分が8歳になった頃、お城の庭で頭に矢車草の花をつけた一尺ばかりの人間と出会います。その者の正体は、森の精であり、千草姫の使いで王子を迎えに来たのだと言うのです。その申し出に対し、王子は非常に喜び、彼の後について白樫の森に入っていきます。こうして王子は千草姫と対面し、彼女はそのもてなしとして森の精の唄と踊りを彼に見せました。王子はそれを見て夢のような心地になりましたが、やがて御殿の閉まる時間となり、王子は仕方なくお城へ帰っていきました。
それからというもの、王子は月のある晩は白樫の森に入り、森も精と遊ぶようになりました。その上千草姫からいろんなことを教えられました。そして、この千草姫の教えを、また皆に教え人々を災害から救っていきました。そうするうちに、人々は彼を「神様の生まれ変わり」だと考えるようになり、次第に王子自身も自分は神の生まれ変わりではないのか、と思うようになっていきました。
ですが、そんな頃ある不幸が彼を襲います。ある晩、彼は突然千草姫から「もうお目にかかれないかも知れません」と理由もなく告げられてしまうのです。以来、王子は千草姫と全く会えなくなってしまいます。さて、彼は何故千草姫と出会えなくなってしまったのでしょうか。
この作品では、〈周りの性質に助けられているにも拘らず、全て自分の力でやっているつもりになってしまった人間の姿〉が描かれています。
まず、この後王子はある出来事から、千草姫と再会を果たします。彼女は応じと別れなければならない理由について、いつかは私達の住む場所がなくなってしまうような時が来ているから別れなくてはならない、と述べています。というのも、この頃の白樫の森は木では次々と伐採され、その跡に畑が作られている最中だったのです。そして彼女は、その理由の後に、こう述べています。「私達は別にそれを怨
めしくは思いませんが、このままで行きますと、かわいそうに、あなた方人間は一人ぽっちになってしまいますでしょう」この台詞こそ、この作品の核心を解く重大なキーワードになっています。
私達が自分たちの文明をここまで発展させてこれたのは、木材や石油等の資源があったからこそのことです。そしてこれは当然ながら、無限にあるものではなく限りがあるものです。ですが、私達はそんな事をつい忘れ、次々と資源を使いたいだけ使ってしまっています。またそこには、丁度千草姫の予言を頼っていた物語の中の王子の「神様の生まれ変わり」の心持ちと似たような感覚があるのでしょう。彼の予言は彼の力ではなく、姫あっての予言あり、また私達の発展も資源あってのものなのです。そして、それを忘れたまま文明を発展させると、人々は次々に資源を食い潰していき、やがて資源はなくなり、人間だけになってしまうことでしょう。まさに彼女のこの一言には、これだけの忠告の言葉が詰まっているのです。

2011年11月14日月曜日

令嬢アユー太宰治

東京の或る大学の文科に籍を置いている小説家志望の「私」の友人、佐野は、ある時、旅行から帰ってくると、結婚したい相手がいることを彼女に告白します。そしてその事情を聞くと、彼は趣味の釣りを楽しんでいたところ、偶然にも綺麗な令嬢に出会い、親しくなっていきます。
それから4日後、佐野は再びその令嬢との再開を果たします。その時、彼女の傍らには甥っ子が出征した、田舎者の老人の姿がありました。彼女は、この老人が甥っ子がいなくなったことで淋しくしていたので、力になろうと親身になってお花を買ってあげたり、旗を持って送ってあげたりしているところだったのです。このような令嬢の優しく、美しい姿に佐野は惹かれ、やがて結婚したいと思うよになっていったのでした。
ですが、これを聞いていた「私」は閉口し、佐野が思ってもいなかった彼女の正体を口にします。一体、彼女は何者だったのでしょうか。
この作品では、〈一方ではその行為からある人物を認めながらも、もう一方ではその職業からその人物を認めることができない、ある友人〉が描かれています。
まず、令嬢の正体とは、なんと娼婦であり、老人は彼女のお客でした。そして彼女が老人にしてあげた事は、恐らくその仕事以上のものであり、本当に老人を思っての行動だったのでしょう。そうでなければ、彼のために花を買い、旗を振るなどという行動をおこすわけがありません。この令嬢の行動そのものは、「私」も認めており、「よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ」とさえ感じいます。ですが、その一方で、「嗚呼、やはり私は俗人なのかも知れぬ」と、彼女が娼婦であることに拘り、素直に友人に彼女との結婚を薦めれない、否、それどころか断固反対する姿勢まで見せています。
では、一体「私」はどうして令嬢の職業にそこまで拘らなくてはならなかったのでしょうか。例えば、ある介護士は一人の利用者の居室を週に一回、掃除することになっており、次第に自分の部屋も週に一度掃除するようになりました。また、ある営業マンは、月云百万の契約を取り扱うようになったところ、次第に云万円を扱う賭け麻雀にはまっていきました。これらの現象はある職業の性質に引っ張られた結果、よくも悪くも起こっているのです。人はその職業に就き仕事をしていくに連れて、本人が望む望まざるに限らず、少なからずその性質に引っ張られる傾向があります。介護士ならば、他人の便や尿を扱うことによって、次第に普通の人々より汚物を扱うことに慣れていき、営業で大きな契約を次々とこなす営業マンであれば、大金を動かすことに慣れていってしまうのです。また事実、こういった現象は、私達は意識的にしろ、無意識的にしろ認めている節があります。よく、男性が自分の理想の女性の職業を挙げている時、看護師や介護士を挙げる人々がいますが、あれも多少の誤解はあるにせよ、その職業の特性を認めるからこそ、そうした職業の名前が出てくるのではないでしょうか。何故なら、そう答える人々はよくそうした職業を挙げる理由について「優しそうだから」といいますが、これは自分よりも立場の弱い老人や患者に対して献身的に世話をしなければならないという性質を見て、そう答えているのですから。
そして物語の「私」が、令嬢の職業に拘る理由も、こういったところにあるのではないでしょう。「私」は、令嬢の職業である娼婦というものの性質が、彼女に何か良からぬ影響を与えているはずだと考えているからこそ、結婚に反対しなければならなかったのです。

2011年11月13日日曜日

悪妻論ー坂口安吾

著者は彼の友人である、平野謙氏が彼の妻に肉をえぐられる程の深傷を負わせられたことをきっかけに、良き妻というものを考えはじめます。というのも、この平野氏は自身の妻に傷つけられたにも拘らず、なんと包帯を巻いて満足しているというのです。そして、著者はそんな友人の姿をみて「偉大!かくあるべし」と評しています。さて、一体著者は一体、包帯を巻いて満足しているような友人のどういうところを褒めているのでしょうか。
この作品では、〈日本の女性が良き妻となった為に、かえって女性としての魅力を感じなくなっていった日本の男性〉が描かれています。
まず、著者の平野氏に対する評価の所以は、極端ながらも夫に逆らって自分の個性を見せた彼の妻に満足している、というところにあります。そして、著者はまた、そういった女性は夫に対して良き妻である、とも述べています。ですが、そもそも彼らが生きた時代の一般的な良き妻とは、「姑に仕へ、子を育て、主として、男の親に孝に、わが子に忠に、亭主そのものへの愛情に就てはハレモノにさはるやう」な女性を指していました。しかし、そういった、所謂自分にとって都合のいい女性はかえって魅力を失っていると彼は指摘をしているのです。一体これはどういうことでしょうか。
例えば、考えてみてください。私達はよく日常的にコンビニやレストランで買い物をしたり、食事を楽しんだりしますが、その中で度々そこの店員さんと話す機会がありますね。その中で私たちは一体どういった店員さんに好感をもつでしょうか。多くの場合、ただ、店員として機械的に働き仕事を完璧にこなし、しかしながら流れ作業の様に私たち客をさばく店員よりも、仕事を自分のペースでしっかりとこなし、私達一人一人に笑顔を向け、時には話しかけ世間話をしてくれる、そのような店員の方に魅力を感じるはずです。ここから、私達はただ、仕事や立場などその人としての役割を果たしている人物よりも、そこに個性をも兼ね備えている人物の方に魅力を感じるということが理解できます。
そして、妻の場合もこれと同様の事が言えます。つまり、単に妻として完璧にその立場を演じている人物よりも、自分というものをしっかりともった、個性のある女性の方が魅力的なのです。

2011年11月11日金曜日

無題

風邪を引いてしまい、少し大事を取る為、2、3日更新を控えるかもしれません。

2011年11月9日水曜日

イワンとイワンの兄ー渡辺温

 イワンとイワンの兄の父は病気になり、自身の死期を悟った彼は、息子たちにそれぞれ遺言を残しました。まず、イワンの兄には、
『お前は賢い息子だから、私はちっとも心配にならない。この家も畑もお金も、財産はすべてお前に譲ります。その代り、お前は、イワンがお前と一緒にいる限り、私に代って必ず親切に面倒をみてやって貰い度い。』
と言い、またイワンには
『イワン。お前は兄さんと引きかえて、まことに我が子ながら呆れ返る程の馬鹿で困る。お前には、畑やお金なぞをいくら分けてやったところで、どうせ直ぐに 他人の手に渡してしまうに違いない。そこで私は、お前にこの銀の小箱をたった一つ遺してゆこうと考えた。この小箱の中に、私はお前の行末を蔵って置いた。 お前が、万一兄さんと別れたりしてどうにもならない難儀な目に会った時には、この蓋を開けるがいい。そうすれば、お前はこの中にお前の生涯安楽にして食べ るに困らないだけのものを見出すことが出来るだろう。だが、その時迄は、どんな事があってもかまえて開けてみてはならない。さあ、此処に鍵があるから誰に も盗まれぬように大切に肌身につけて置きなさい。……』
と言い残して、この世を去っていきました。さて、父はイワンの為に一体何を残して死んでいったのでしょうか。
この作品では、〈自分の息子を一人前の人間として認めることができなかったものの、死して尚、わが子の身を案じる父の姿〉が描かれています。
まず、父がなくなった後、イワンの兄は、イワンの遺産を狙い、度々イワンにそれと自分の財産を交換する交渉を持ちかけます。恐らく兄は父の「お前はこの中にお前の生涯安楽にして食べ るに困らないだけのものを見出すことが出来る」という言葉から、イワンの遺産には、お宝の所在を示す地図のようなものが入っていると考えたのでしょう。ですが、イワンは兄の申し出を頑なに拒みます。
しかし、ある時イワンは兄が連れてきた娘に一目惚れをしてしまい、娘欲しさに、なんと自分の遺産をあっさりと兄に渡してしまうのです。その後彼は、その娘となに不自由なく幸せな日を送ることが出来ました。
一方、兄は父の遺産を受け取った後、中に入ってあった紙を発見し、その紙に書いてある「窖の北の隅の床石を持ち上げて、その裏についている鉤にこの綱を通して地の底へ降りて行きなさい。」という言葉に従い、父の遺産を探しました。ところが、そこには父の罠が仕掛けてあり、行き着いた先は深い穴の中で、そこには山のようなパンと葡萄酒がおいてありました。
この上記の様子から、父が生前イワンをどのような人物に見ていたかが分かります。彼は、イワンを一人前の人間として全く認めていません。正直者で、人を見る目があるとはお世辞にも言えない彼は、恐らく騙されて挙句、路頭に迷うことすらあり得るでしょう。そんな人物が、たった一人で社会の中で生きていけるはずながない。そう考えた父は、兄に弟の世話を頼み、更には最終手段として、社会から切り離し、人並な生活とはかけ離れた暮らしを用意しなければならなかったのです。事実、彼は結果的には人並み以上の生活を手に入れたものの、それは偶然や周りの人間によって助けられてきたに過ぎません。兄がいなければ、一日中働かい彼が生計を立てれたとは思えませんし、又兄が娘を連れてこなければ、結婚すら出来なかったかもしれないのですから。
そして私たち読者も、彼のその様な要素を、この作品を通して認めているからこそ、「 みなさんは、それでもイワンの父親がその息子たちのためにして置いた事をば、間違いだとはお考えにならないだろうと思います。」という一文に対して、すんなりと納得してしまうのです。この一見厳しい父のイワンに対する評価と対処には、息子を思う親心が表れているのです。

2011年11月7日月曜日

海亀ー岡本綺堂

 妹が帰郷してから一カ月あまりの後、8月19日の夜、「僕」は本郷の親戚からの電報で突然の彼女の死を知らされます。そして、日光の山で勉強していた彼は、翌朝の早朝に山を降り、実家へと戻りました。そこで彼は妹の許嫁であった、浜崎の一人息子の清との再会を果たします。そして、「僕」は彼の口から妹の死の原因について聞かされるのです。さて、妹は何故突然亡くなってしまったのでしょうか。
この作品では、〈正しくないと分かっていながらも、それを反論できないある男〉が描かれています。
まず、清の話によると、妹の死んだ原因はある迷信が関係しているといいます。それは、「ここらじゃあ旧暦の盂蘭盆に海へ出ると必ず災難に遭う」というものです。彼らは丁度、旧暦の盂蘭盆に小舟へ乗り、海へ遊びに出ていたのです。そして、その夜、彼らはこの迷信の通り災難に遭ってしまいます。それは、彼らが舟を戻して帰ろうとした時の事でした。なんと、海亀が彼らの目の前に現れ、はじめは1匹、続いて2匹……5匹……15匹と、徐々に数を増やして彼の舟を囲んでしまったのです。更に海亀たちは舟へと這い上がり、舟を沈めてしまったというのです。そうして、海の中へと沈められた妹は、水を多く飲んでしまい、死んでいってしまったのです。無論、これは恐らくは迷信ではなく、何か根拠があってのことだということは彼ら自身も良く理解しています。ですが、その出来事を上手く説明出来ないために、清は「僕は昔からの迷信を裏書きするために、美智子さんを犠牲にしたようなものだ。」と、その悔しさを吐露しているのです。

2011年11月5日土曜日

片恋ー芥川龍之介

 それは「僕」が社の用で馴染みの店、Yに行った時の話です。そこで彼は昔よく飲みに行ったUの女中、お徳と再会を果たします。彼女はかつて、「僕」の友人である志村に岡惚れされていました。しかし、どうやら彼女はその志村の思いを拒み、今では芸者としてYで働いている様子。ですが、志村は彼女が芸者をしていることなど、知る由もありません。そんな志村を哀れに思った「僕」は、彼女の事を「これは私の親友に臂を食わせた女です。」と避難します。これには彼女も承知せず、「志村さんが私にお惚れになったって、私の方でも惚れなければならないと云う義務はござんすまい。」と反論をします。そして、「それがそうでなかったら、」と今度は逆に自分の思いの丈を彼にぶつけはじめます。さて、この彼女の思いの丈とは、一体どのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈真実を言いたいけれど言いたくない、ある女性の悩み〉が描かれています。
まず、上記にある彼女の思いの丈とは、なんと外国の俳優に恋をしてしまい、彼の活動写真を見るために奮闘するも、その思いが届くことはないと写真を見る度に実感するという様な内容のものでした。
ですが、この彼女の浅い恋愛観は、「僕」の下記にある一言によってそれは一転し、深いものへとなっていきます。

「だが、ヒステリイにしても、いやに真剣な所があったっけ。事によると、写真に惚れたと云うのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。」

この一文によって彼女の恋愛というものは、自分から叶わない恋をしている、愚かしいものから、なんらかの事情でその恋心を打ち明ける事が出来なかった、儚いものへと変化していきます。すると、一連の活動写真の話は、まるでお徳にとってその相手は、スクリーンに映し出されている俳優のように、目には見えており、手に届きそうな位置にいるにも拘らず、決して届かない大きな隔たりがあるような存在だったという比喩だったことになります。
ですが、彼女は何故このような比喩をわざわざ用いて、「僕」へその思いを伝えたのでしょうか。例えば、あなたが子供の頃、何か悪いことをした時、悪いことをしたのは分かっているが、怒られて傷つけられたくない時、どのような行動にでたでしょうか。「お母さん、もしも」と自分がもうしてしまったことに対して、あたかもそれがなかったもののように話してしまったという経験はないでしょうか。
私達は基本的に、自分のことを他人に知ってもらいたという欲求が心の何処かでは存在しています。ですが、それを伝えたことによって自分を傷つけられることは、当然嫌悪するに決まっています。ですから、子供の頃、私たちはそういった矛盾を解消すべく、「もしも」の話をして両親の反応を伺う必要があったのです。そして、この作品に登場するお徳にも同じことが言えます。彼女はこうした心の矛盾が複雑に現れているため、わざわざ映画の話を比喩として持ち出し、できるだけ相手に分からないように、それでいながら自分の気持ちを伝える必要があったのです。だからこそ、私たちはお徳の気持ちを「僕」の一言を読んで再度整理しなおした時、彼女に同情の余地があったのではないかと思い返すのです。

2011年11月4日金曜日

鴉ーシュミットボン(森鴎外訳)

 ある時、ライン河に沿ってある道を、河の方へ向いて歩いている7人の男がいました。彼らはみな、話もせず、笑い声もあげず、青い目で空をあおぐような事もせず、ただ鈍い、悲しげな、黒い一団をなして歩いていました。彼らはどれも職がなく、途方にくれておりふらふらと彷徨っているに過ぎません。その為、彼らは誰に構うこともなく、ただ自分の事だけを考えています。その中の最後尾に、不揃な足取で、そのくせ果敢の行かない歩き方で歩く、老人の姿があります。彼も又、職を失い、自分だけの事だけを考えており、どうにかして、リングの方にいる女きょうだいのところ迄行く汽車賃を稼ごうと考えていました。ですが、この思いが強すぎた為に、彼は後に自分で自分の財産を手放す事になるのです。
この作品では、〈自分の思いが強すぎた為に、かえって自分を犠牲にしなければならなかった、ある老人〉が描かれています。
まず、どうしても汽車賃が欲しい老人は、人々の幸せそうな声のする家々に目をやり、ある一件の家の前で足を止めます。彼はその時、物乞いするか否かを考えていたのです。ですが、結局彼は自身が物乞いして断られた時の姿を想像し、行動に移すことができませんでした。
そんな彼は、その後すぐ、あるひょんな事から黒い一団のある青年から、「おじさん。聞いておくれ。おいらはもう二日このかたなんにも食わないのだ。」と、逆に物乞いされる立場に立ったのです。その時彼は、一度は他の一団と同様、彼を避けようとする気持ちを持つも、彼が涙ながらに訴える姿を見て、こう思い返すのです。

「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦しいのと同じ事ではあるまいか。あれも泣いているのではないか。折角己に打明けたのに、己がどうもせず に、あいつを突き放して、この場が立ち退かれようか。己が人の家へ立寄りにくかったのは、もしこっちで打明けた時、向うが冷淡な事をしはすまいかと恐れた のではないか。今こいつが己に打明けたのに己が冷淡な事をして好いだろうか。ええ、なんだって己は、まだぼんやり立っていて、どうのこうのと思案をしてい るのだろう。まあ、己はなんというけちな野郎だろう。」

彼は先程、想像した自分を、目の前の青年に重ねて考えているのです。そうして、彼は自分が断れた時の苦しさを思うが故に、この青年を拒めなくなっていったのです。そして、こうした現象は私たちの身の回りでも、しばしば見受けられます。例えば、子供の頃、いじめられていた人物が大人になって教師になり、いじめている側の親を敵にまわしてでも、いじめられている子供の相談に乗る場合や、仕事で先輩にひどく怒られていた人物が、やがて後輩を指導する立場になった時、先輩に反抗してでも、後輩の立場にたって手とり足とり指導する場合などは、これと同じ構造を持っています。彼らは自分のそのときどきの気持の重さを知っているからこそ、他人が同じ立場にたった時、自分の身を挺してでも守ろうとするのです。

2011年11月1日火曜日

恩讐の彼方にー菊池寛

 主人の寵妾と非道な恋をして、その怒りを買った市九郎。しかし、彼は自身の生の執着から自身の主人を殺してしまいます。そして、罪人となった市九郎とその妾、お弓は人目を忍んで、その後も数々の悪行を行い、遂にはそれを正当な稼業とさえ心得るようになっていきました。
ですが、そんな市九郎にも転機が訪れます。それは彼が主人を殺してから、三年目になる春の頃でした。彼はある夫婦を殺したことをきっかけに、その罪の重さから、良心の呵責にとらわれることになります。ですが、そんな彼の心を全く知らないお弓は、なんと死人から頭の飾りものを盗ってくることを忘れた彼に対して、怒りを顕にして叱責したのです。この彼女の浅ましい態度から、市九郎はお弓のもとから離れ、美濃国の大垣在の浄願寺に駆け込みました。そこから彼は、自分のこれまでと、これからの人生に向き合っていくことになるのです。

この作品では、〈夢をもった為に、自分の人生と自分自身を大きく変えていったある男〉が描かれています。

私達にとって夢とはどのようなものでしょうか。やりたいこと、叶えたいこと、誰かになること。人によってそのあり方は様々ですが、この作品では、その定義と生成が明確に描かれているので、そこを軸に作品を見ていき、上記を論証していくことにしましょう。

まず、夢とはどの様にして生成されていくものなのでしょうか。
主人公である市九郎は自身の私欲がきっかけで、主人の怒りを買ってしまい、更にはその主人も、自分の手によって始末してしまいます。そこから彼は妾のお弓と共に人目を忍び、「ただ生きる為」に彼女の言いなりになり、罪を犯していくことになります。ですが、はじめは主人を殺したこと、また罪なき人々からものを奪い、殺すことに罪悪がなかった訳ではありません。ですが、悪事を重ねていくうちに、次第にそういった心も忘れ、遂にはそれに対する面白さまでも感じるようになっていきました。
ですが、ある夫婦を殺したことをきっかけに市九郎はお弓と決別し、浄願寺へと駆け込みました。彼はそこではじめて自分の罪と向き合い、自首し自らの死を考えはじめます。しかし、そこの上人の「道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」という言葉をきっかけに、彼は「罪を償う為に生きる」ことを決心し、諸国雲水の旅に出たのでした。その道中、彼は多くの者を殺した自分が今尚生きているという苦しみのため、人助けをしている中、次第に「自分の罪を償う為に、より多くの人を助けるにはどうすれば良いのか」という問題意識を持つようになっていきます。
そんな中、市九郎は山国谷第一の切所で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀する鎖渡しというところがあり、そこで命を落とした旅人と出会います。そして彼は後に、旅人が命を落とした、絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道と、それがある荒削りされた山を見て、「多くの人々の命を救うため、人々が鎖渡しをしないでいいよう、穴を掘る」ことを心に決めるのでした。
上記のこうした流れのように、市九郎はただなんとなく生きていくことから、自分の罪をきっかけにこれまでの人生を考え向き合い、やがては問題意識をもって、生きる目的(夢)を育んでいったのです。またこうした過程のターニングポイントには、必ずお弓や上人の存在があることも忘れてはなりません。まさに夢とは、これまで自分が生きてきたその中に素材があり、またその素材は他者との交流を通じて大きく育まれていったのです。

次に夢とは、自分にとってどのような位置づけであるべきかを見ていきましょう。それに際して、この作品では、人々の命を救うため穴を掘った市九郎と父の無念を晴らす為、仇討ちを願う実之助という2人の夢を持った人物が登場しますが、彼らを比較することによってこの問題に答えることにしましょう。
私達は、働く為に働いている訳ではなく、お金を稼ぐために働いています。また、車に乗るためにに車に乗っているのではなく、何処かへ向かう為に車に乗っているのです。これらのことはごく当たり前のことであり、人間が何かを行う時、必ず、手段と目的があると言えます。ですが、未妙なことに私達が夢を考える際、小説家になることが夢だ、或いは医者になることが夢である、とだけ考える人々がしばしなおられます。これらのことは手段であり、目的ではありません。そしてこう述べる多くの人々は、大抵の場合、手段が目的になっているのです。この作品に登場する主人の息子である、実之助もその一人です。彼にとって、市九郎を殺し復讐を果たすことが全てであり、その手段こそが目的だったのです。一方の市九郎はどうでしょうか。彼にとって、穴を掘り道を築くことは単なる手段でしかありません。彼の目的とは、その手段を通じて人々を救うことにあります。
では、彼ら2人のこの違いには一体どのような違いが具体的には潜んでいるのでしょうか。まず、復讐が目的である実之助ですが、彼は約10年間、市九郎を追って古今東西を歩き回っていましたが、その道中の険しさから、復讐を諦めようとすることもたびたびありました。彼にとって、復讐とは人生のほんの一部の出来事に過ぎません。ですから、彼にとって復讐とは、その繋がりの薄さからいつでもやめることができるものだったのです。
ですが、市九郎はどうだったでしょうか。彼にとって、罪を償うと決めたその日から、人を救うという夢は人生そのものであり、彼の生き方を決定づけるものでもありました。ですから彼の夢というものは、人生全体が生活全体がその範囲であり、彼が生きている限りはそれをやめることはできません。事実、彼が穴を掘っている最中、手伝ってくれる者もはじめは全くおらず、寧ろ彼をあざ笑う者すらいました。誰もが彼の存在を忘れている時期もありました。しかし、彼はいかなる状況でも、穴を掘り人々を救うことを諦めることはありませんでした。まさに、こうした彼の強さは、夢と人生とが深く繋がっているからきているのに他ならないのです。

そして、これらの事を踏まえた上で、市九郎はどのような人物に成長を遂げたのでしょうか。夢をもつ以前の彼は、私利私欲の為に人々を殺し、ものを盗み、例えそれが悪い事と分かっていても、否定できない弱い男でした。ですが、自分の弱さを認め、人生の目的と向き合う中で、彼は他人の為に何かできる行動力と何者にも屈しない強い心をもった人間へと成長したのです。
夢とは、人生の目的であり、自分自身の軸であり、自分をつくっていくものなのです。