(上)
1
厳しい冬の寒さが過ぎ去り、生命の息吹を感じられるようになったある夜の事である。安田隆一にとって、癌が発症して2度目の春が訪れた。彼は床の中で、無限とも思える日常をすごしながら、自分はいつ死ねるのかということばかりを考えていた。長きに渡る闘病生活は彼の心身を蝕み、遂には生きる気力すら奪っていったのである。そればかりか、このまま病気が進行し、今よりも更に強い痛みとそこからくる苦しみをも怖れるようになっていったのだ。最早、安田にとって死こそが唯一の希望となっていった。
ふと、以前知人から聞いた、違法に他人の死を専門に扱ってくれる団体に連絡ととった事を思い出した。その組織とは、なんでも死にたい人間に対して、安らかなる死を提供してくれるというものである。馬鹿げているとは思った。しかし生への恐怖と死への甘美な憧れが安田を突き動かし、電話の受話器を取らせたのだ。だが、電話は繋がり話は出来たものの、待てど暮らせど彼を殺しに来てくれるものなど1人も現れなかった。なんだか馬鹿にされたような心持ちにもなったが、一方で「そんなうまい話があるわけないか」という妙な納得も出来た。彼は深い溜息をつき、再び途方も無い自分の死について考えはじめた。
とその時、彼はひんやりと冷たいものがあたる感触を覚えた。何処かからか風が吹いているようである。しかし部屋の窓は妻である奈保子(なおこ)が閉めていったはずだ。奇妙に思いながら窓の方に目を向けると、なんと何者かがそこに立っているではないか。背は安田よりも高い長身で全身黒ずくめであった。そして、その顔立ちは良く外国人のように彫りが深く、どうやら若い青年のようである。突然の訪問者に安田は狼狽し、感謝的に「何者だ!!」と叫んだ。青年は落ち着いた様子で、丁寧に応えた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島(くるしま)です。」
その刹那、もしかしたらという思いが安田の中で込み上がっていった。来島という青年は続けた。
「数ヶ月前に私たちに連絡をされたと思うのですが、身に覚えがないですか。」
そう述べる来島の唇はニヤリと微笑を浮かべていた。安田は確信した。遂に自分を途方も無い生というしがらみから解き放ってくれる者が、今やっと彼の眼前に現れたのである。しかしその一方で、これまで散々待たされた鬱憤がないわけではない。彼は自分でも知らず知らずのうちに、言葉に刺をもたせた。
「随分と遅かったじゃないか。」
「ええ、私たちにも事情というものがありますので。」
「何、事情?」
この来島の一言に安田の表情は歪んでいった。この男は自分の気持ちを知らないのではという思いが、腹の底から徐々にこみ上げてきた。
「ええ、これから私は貴方を殺そうとしているのです。これは殺人以外の何物でもありません。用心するに越したことはないですよ。」
来島は涼しい顔をしながら応えた。が、こうした彼の表情は安田を更に苛つかせた。
「……成程。で、いつ殺してくれるんだ。今か?」
「落ち着いて下さい。まずは貴方を審査しなければなりません。」
「……審査だと。」
「ええ、死は万人に処方できるものではありません。私たちは私たちの倫理に則って、死を扱っているのです。」
こう話す来島の態度は一切変わらず、事務的に自らの役割を全うしているようであった。その一方で、安田の表情はみるみる険しくなっていった。医者から癌と診断されて約2年。その間、いつ終わるとも分からぬ自分の命の行方を心配する自分の気持ちなぞこの若造にはわからないのだと思いはじめた。
「さっきから黙って聞いていれば好き勝手な事を……。お前らは死にたい人間を殺してくれるのだろう。俺は今すぐにでも死にたいのだ。それじゃ駄目なのか!!!」
その剣幕は逆に安田が来島を殺す風であった。だが来島は一歩も引かず、彼の目をじっと見据えて言った。
「……審査はします。それが会則です。でなければ失礼させて頂きます。」
「ぬう……。」
動揺を隠しきれなかった。まさか向こうから断ってくるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
「そもそも何故貴方は私たちに拘るのですか?」
「……妻だ。」
先ほどとは打って変わって力のない声で応えた。
「成程、癌だとは聞いていましたが、見たところ自宅療養みたいですね。察するに、奥さんがお1人で?」
「……そうだ。これ以上妻には迷惑を掛けられん。妻の奈保子はな、俺が病気をしてからは、ずっと傍にいてくれている。茶道が趣味で前までは先生もやっていたが、それもぱったりとやめてしまった。何もかも、俺のせいで我慢しているんだ。たったひとりの家族なのにな……。」
そういうと彼は俯き、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。癌と診断された安田は、入院をすすめた医者の反対を押し切って、すぐに自宅療養することにしたのだ。これまで何人もの友人を亡くしている。その者の多くは大抵薬漬けになり意識が朦朧とし、家族に別れを告げられないままこの世を去っていった。安田にはそれが何よりも寂しい事に思えてならなかった。しかし、そんな彼を看病している妻の奈保子は日に日に、徐々に疲れていった。頬などはこけはじめ、白髪も多くなったような気さえする。更に目の下には真っ黒いクマがいつの間にか出来ていった。そんな奈保子の表情が変化していくことに彼は耐えられなくなっていったのだ。
「分かりました。審査はさせてもらいますが、近いうちに貴方のもとを訪れますよ。」
来島の口調は相変わらず事務的であった。それでも、まだ蟠りがあるものの、自分の気持ちを組んでくれた節があるところが、安田にはやや良い印象を持たせた。
「……必ずだぞ。」
安田のその言葉を聞くと来島はくるっと後ろ向き、彼が入ってきたと思われる窓から静かに消えていった。再び安田に無限の時間が訪れた。
2
来島が来た以降も、安田の日常は何ら変わらなかった。毎日3度の食事を妻が用意してくれ、夕方には熱湯につけた熱いタオルで身体を拭いてくれる。そして昼とも夜とも関係なく眠り続けるのだ。ふと妻の方はどうかと考えた。自分の世話で疲れているのだ。何か変化があっても可笑しくないはずである。しかし考えたところで、妻のことなど彼は知る術をあまり持ってはいなかった。
来島には家族は奈保子1人だと言ったが、いなかったわけではなかった。彼は安田家の棚の中で静かに眠っていた。
彼は20数年前、安田家の長男、隆之としてこの世に生を受けてきたのだが、6歳の頃、それは関東に最も大きな台風が接近していた時である。息子は母の目を盗み、雨の中友達の家に遊びに行って、川で溺れてしまったのだ。我が子が家にいないことに気がついた奈保子はすぐに出張中の安田に電話をした。この頃の安田は大手建設業の役員として働いており、なかなか家にも帰ってこれずの身であった。受話器をとった時、安田はひどく動揺した。が、元来からもっている責任感から、どうしても今現場を動くわけにはいかなかった。当時彼は建設現場の監督として派遣され、彼が帰るということは工事のストップを意味していたのである。安田は妻に、現場が片付けばすぐに家に帰る事を約束した。
それから2日後、隆之は自宅から少し離れた川沿いで発見された。安田が家に帰り着いたのは発見されて、更に2日経ってからの事であった。
以来、安田は家には寄り付かなくなり、それに伴い夫婦らしい夫婦の会話は一切消えた。安田は心の何処かで妻が自分の事を恨んでいる気がしてならなかった。そしてその度に、何故あの時家に帰ろうとしなかったのかとも思った。彼は妻の顔を見る度に、こうした後悔とも懺悔とも分からない気持ちにさいなまれていくのである。
が、病気をしたらしたで、奈保子に対する申し訳ない気持ちは更に膨らんでいく。この前なども、安田がうっかり零した味噌汁を拭きながら目に涙を溜めていた。安田にはそれが彼女が自分の惨めさを哀れんでいるように思えて仕方がない。安田自身が泣きたい気持ちになっていった。
また別の日には、彼の嫌いなトマトが食卓に並んでいた。これまでの奈保子なら絶対にやらない事である。それはささやかな嫌がらせに彼には思えてならなかった。
彼の妻は毎日確実に変化していた。しかも悪い方に、である。こうした考えに耽ることに、安田は疲れてしまい、深い溜息をついた。そして自分の生が終わるその日を思いながら、静かな眠りについた。
(下)
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しかし、妻の気持ちを知りたいという安田の思いは、死を目前にして徐々に募っていった。それは来島があの日以来、彼の前に現れない苛立ちと比例していく形で気になっていった。
そしてその機会は、そう遠くはなかった。ある時の昼食、彼の嫌いなトマトがサラダとして食卓に並んでいたのである。これで1周間のうちに3回出たことになる。とうとう我慢出来なくなり、安田はこれまで閉ざしていた思い口を恐る恐る開いてみた。
「トマトは好きじゃないんだ。」
「……そう。」
少し間を溜めて奈保子は素っ気なく応えた。安田は構わず続けた。
「お前だって知っているだろう。それに、残せない事も……。」
出されたものは全て残さず食べる。これが安田の元来の性分であった。だからと言って、自分の嫌いなものをそう何度も出されるのもあまりいい気がしないのも確かであった。自分の好き嫌いを長年知っている相手なら尚更である。
「でも……身体にいいから、トマト。」
力ない表情で、奈保子は微笑んだ。しかし安田の表情は、いかにも納得のいかぬといったものであった。
「身体にいいも悪いもないだろう。どうせ死ぬんだ。」
「……。」
彼の、この心ない一言がいけなかったのであろう。奈保子はやや唇を震わせながら、小さく、しかしながらはっきりとこう言った。
「そう文句ばっかり言わないで。人の気も知らないで。」
そして彼女は素早く安田の前にあった食器を片付けて、早足で出ていってしまった。彼にとって、決定的な出来事であった。妻は矢張り、自分のしたいことを我慢して、これまで自分に付き合ってくれていたのだ。自分なんかいないほうが、彼女は彼女らしく輝けるのである。安田はこう思うほかなかった。
2
結局来島が再び現れたのは、彼とはじめて会ってから、3週間たった後のことであった。彼はまだ太陽すらうっすらでているかいまいかという時間に、前回と同じ窓に、少しも悪びれる様子もなく立っていた。安田は再び堪忍袋の緒が切れそうな思いがした。
「こんばんは。いや、違ったかな?おはようございます。審査が終わりましたのでその結果を伝えにきました。」
口調は相変わらず事務的である。彼は知らず知らずの内に安田の逆鱗に触れていた。
「お前、人の気もしらないでよくものこのこと……。」
「落ちつて下さい。今日で貴方の運命が決まるというのですよ。」
「五月蝿い!!今すぐ殺せ!!!殺すんだ!!!!!」
安田は今にも来島に殴りかかりそうな勢いであった。先日の奈保子との事もあり、彼は明らかに焦っているのだ。しかし、来島の答えは安田の哀願を裏切るものであった。
「残念ながら、それはできません。それを伝える為に、今日は参上しました。」
それを聞いた瞬間、安田血は遂に頭にまで上った。が、同時に彼は心臓に何かで締め付けられるような激痛を覚えた。来島に何も言えぬまま、彼は呼吸を乱し、ベッドの上で悶えた。その様子は来島はじっと観察していた。
やがて、痛みがおさまると、安田は再び発作が起きないように注意を払いながら、尋ねることにした。
「……説明してくれるんだろ?」
「私たちが求めるのは後腐れの無い死。言うなれば、生に対して消極的になる程の苦痛が存在し、死を積極的に望んでいなければなりません貴方の場合はそれに反しているのです。ご理解できないようでしたら、その証拠を見にゆきましょう。」
そう言うと来島は安田のベッドの横にあった、通院用の車椅子を用意しはじめた。一体彼は自分を何処へ連れていくのであろう。もし彼らの謳う理想が本当ならば、自分はそれに反していないはずである。それなのに……。そうした疑問や疑念が安田の頭をぐるぐると駆け巡った。
来島が彼を連れてきたところは、台所であった。そこは食器がきちんと整理されており、掃除もいき届いていた。几帳面な奈保子の性格が其の侭現れたような空間であった。ただ目につくところがあるとすれば、机の上に数冊の本が乱雑に置かれていた事であった。それは安田にも見てとれた。そして来島は彼がその数冊の本を気にしている事をすぐに察した。
「あの本は、奥さんの料理本なわけですが、是非中を覗いてみて下さい。」
安田は来島の顔を見た。彼はただ乱雑に置かれた書物に目を見張っている。仕方なく、彼はそれらに目を通した。するとそれらには付箋が貼ってあり、妻の字で細かな書き込みがされていた。しかもその箇所というのが、どれも見に覚えのある料理ばかりにあられてあった。最近安田が口にしたものばかりであったのだ。その中にはあのトマト料理もあるではないか。
「これは……。」
思わず考えている事が口から漏れてしまった。来島は彼の疑問に応えた。
「それらは皆、癌に効くと言われている食材ばかりが使われています。きのこ、海藻類、納豆、そしてトマト。」
「……。」
もしやという思いが安田の全身を駆け巡った。
「何故だ、何故こんな事を……。」
これまで安田は、奈保子が自分の事など仕方なく世話してくれているとばかり思っていた。しかしここにきて彼の体調を労っていた事実が、自身の勘違い故に上入れ難かったのである。
「自身の胸に手を当てて考えると良いでしょう。幾十年にも及ぶ月日を、いかなる形であろうと過ごしてきた夫婦だ。その夫を先立たれて、奥さんが悲しくお思いにならないはずがないでしょう。」
来島は胸に手を当て、穏やかに何かを諭すように言った。安田は妻との思い出が、自身の内からこみ上げてくるのを感じた。隆之を失ってからも、奈保子は安田の水筒に、彼の好きな熱いほうじ茶を入れることを怠らなかった。どんなに遅く帰ってきても、晩御飯だけは用意してくれていた。常に自分よりも先に起き、朝食の支度やら仕事の準備をしてくれていた。そうした妻のこれまでのひとつひとつの心配りが、安田の両親を責め立ててきたのである。彼は動揺しきっており、来島を哀願の目でみつめた。
「……妻はな、この前俺に、人の気も知らないでと言ったんだ……。」
来島の口調は矢張り穏やかであったが、一方で安田を責めるかのようでもあった。
「それはこういう事じゃないですか。奥さんが頑張っているというに、貴方まで彼女を置いて去ろうとした事を咎めていたのではないですか。」
彼は全身に雷が落とされたような心持ちがした。彼はがっくりと俯き、目には大粒の涙を溜めていた。来島はなおも続けた。
「奥さんは貴方の為に、今癌に効くと言われている水を汲みに行っていますよ。さて、貴方は本当に生きることから逃げる為に、奥さんの為に死にたかったのですか。それとも……。」
そう言いかけて来島は目線を下に下げた。すると安田は肩を震わせながら、静かに大粒の雫を目から零していたのだ。来島はそれを見ると何かに満足したかのように彼の前を去っていった。
3
それから安田がこの世を去ったのは3ヶ月あとの事であった。夏の照りつける夏の日差しが強くなった頃の事であった。以来安田家の墓前の前にはいつも、赤いよく熟れたトマトが置かれるようになった。それが奈保子の新しい習慣となっていったのである。彼女はいつも息子と夫に手を合し、滝のような汗をかいていた。が、その表情はいつも雲ひとつない空のように清々しかった。
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