2010年12月28日火曜日

散歩道―ピエール・オーギュスト・ルノワール


この作品では、少女の服に色を起用し他を暗くすることで彼女の存在感を引き立たせています。また奥の道を暗く、手前の道を明るくすることで絵の中の光の加減を表現しているのです。

2010年12月27日月曜日

貨幣―太宰治(修正版)


 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく他人を助けようとしたある女の姿〉が描かれています。
 まず、上記にもあるようにこれまでこの貨幣が出会ってきた人間というものは、自分の利益だけを考え、他人を欺き罵ってきたものたちばかりでした。そして、彼らの利益を生む手段として彼女は使われてきました。
 ですが、そんな彼女も一度は人間の美しい部分に魅せられたことがありました。それは、ある陸軍大尉の懐に巡ってきたときの話です。その大意というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女とその赤ちゃんを罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。そして酔いから覚めたこの陸軍大尉は全てを知り、自分を恥じらい、また彼女への感謝を感じ、貨幣を赤ちゃんの一ばん下の 肌着のその下の地肌の背中に押し込んで、荒々しく走って逃げて行ったのです。この時、貨幣は今まで人間の自己の利益のためにのみ使われてきましたが、この時、全く別の、他人のために使われたということになります。そしてその背景には、お酌の女がどうしようもない陸軍大尉を懸命に助けようとした事実があることを忘れてはなりません。彼女というのは、これまで貨幣が出会ってきた人間とは一線を画しており、自分の利害に関係なくこの大尉を助けました。その行動が大尉の心を動かし、貨幣が彼女に与えられたのです。

2010年12月25日土曜日

女類―太宰治


戦争が終結し、東京で雑誌関係の仕事をしている伊藤は、行きつけの屋台、「トヨ公」のおかみに惚れられ、ねんごろになっていきます。そんなある時、彼の郷里の先輩、笠井氏がたまたま「トヨ公」にやってきます。そしてやってきたかと思うと、「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」といきなり伊藤を怒鳴ってきたのです。どうやら彼は伊藤が女性と親しくしていることが気に入らず、その行為自体が「地獄行きを志望」しているというのです。一体どういう事なのでしょうか。
この作品では、〈過度の一般化とは何か〉ということが描かれています。
まず、伊藤とトヨ子の関係について強く否定している笠井という人物は、どのような論理構造を持ち、伊藤を説得しているのでしょうか。伊藤を説得するに当たって彼は「僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。」と、自身は彼女のことを何も知らず、彼女について論じる資格もなく、その気もないことを断っています。その上で、「僕はね、人類、猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない。 全然、種属がちがうのだ。からだがちがっているのと同様に、その思考の方法も、会話の意味も、匂い、音、風景などに対する反応の仕方も、まるっきり違って いるのだ。」と、女性の一般論を述べようとしています。その中で彼は、女性というものは男性とは肉体の構造は勿論、価値観、考え方にも違いがあり、相容れない存在なのだと述べています。しかし、果たして本当にそうでしょうか。もし仮にそうだとすれば、男性と女性が人類の長い歴史の中でここまで共存することはできたでしょうか。勿論答えは否です。そもそも笠井の論理性というものは、自身がかつての愛人にみっともない形でそむかれた結論だけを延長させ、男性と女性は相容れない存在なのだと論じているに過ぎません。確かに彼らは自分達の気持ちが互いに通じ合っていなかったため、別れるしかなかったのでしょうが、彼の失敗というものはそれを全体に押し広げたところにあります。これを「過度の一般化」と言います。そして彼はこの理論を主張し伊藤とトヨ子にまでも押し広げたために、結果的に彼女を死に至らしめることになってしまったのです。

2010年12月23日木曜日

巨男の話―新見南吉(修正版)

 ある大変遠くの森の中に、巨男とその母親の恐ろしい魔女が住んでいました。ある月夜のこと、そんな彼らの家に二人の女と一人の少女がやってきました。彼 女たちは王女とその侍女で、森に遊びに来たところ迷ってしまったので、一晩泊めて欲しいというのです。魔女はやさしく彼女たちを受け入れました。ところ が、巨男が目を覚ますと三人は魔女によって黒と白の三羽の鳥に変えられてしまったのです。やがて彼女たちは何処かへ飛び立っていきましたが、どうしてだか 白い王女様鳥だけが魔女の家に戻ってきました。巨男は不憫に思い、彼女をこっそりと飼ってやることにしました。
 そうして時が経ち、魔女もやがて老いていきます。それにつれて彼女自身の魔法を息子に徐々に教えていき、そして白い鳥を不憫に思うやさしい巨男はある時、王女を元に戻す方法を知ることになるのです。果たして王女は元の姿に戻れるでしょうか。
 この作品では、〈巨男と王女のすれ違い〉が描かれています。
 まず、巨男は日頃から王女を哀れに思い、どうすれば王女を元に戻せるのかを考えていました。彼は、王女が元の姿に戻ることこそが彼女の幸せなのだと考えていたのです。
そしてある日、彼は死に際の魔女から「その鳥獣が、涙を流せば、もとの姿にかえるよ……」と王女を元に戻す方法を知ることになります。そこから彼の奮闘は始まります。彼は自身がどのような理不尽な目にあおうとも、常に彼女を元の姿に戻すことだけを考え、行動していました。ですが、王女はそのようなことを考えていたでしょうか。彼女は巨男が自身に涙を流すために死んだ際、こう述べています。「私は、いつまでも白鳥でいて、巨男の背中にとまっていたかったわ。」そう、彼女の幸せというものは常に巨男と共にあったのです。決して自分が元に戻るというところにはありませんでした。それにも拘らず、巨男は彼女の幸せは自分が考えているそれと信じ、命まで捧げてしまったのです。そうして王女の幸せは永遠に失くしてしまいました。まさに巨男の思い込みが、すれ違いを生み、このような悲劇的な結末になってしまったのです。



芸術ぎらい―太宰治(修正版)

 この作品の中で著者は、ものごとを創作する上で、「生きる事は、 芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。」と芸術的という観念を嫌っている様子。それよりもむしろものごとに対して「正確を期する事」を重視することをすすめています。さて、彼は何故このように考えているのでしょう。
 この作品では、〈芸術とは何か〉ということが描かれています。
 ここでの著者の最大の主張は、芸術は芸術的であってはならないということ、正確を期することが重要だと述べています。つまりこれらのことを踏まえたものが、芸術であり、そうでないものが芸術ではないということになります。真理は一定の条件の中でのみ、心理であり、それを離れると誤謬になってしまいます。芸術的な表現を用いることを考え、正確さを失った作品は、既に芸術ではなかったのです。

2010年12月19日日曜日

イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢―ピエール・オーギュスト・ルノワール

この作品の特徴は、一本一本丁寧に筆を入れることにより自然の材質を見事に表現しているところにあります。中でも少女の髪の毛は手を伸ばすとフサフサとその質感が伝わってくるようです。また、少女の顔の周りに暗い色を取り入れ、顔に明るい色をいれることにより、顔とその美しさが強調されています。また肌の部分は全体的に丸みを帯びており、女性らしい丸みを表現しています。

おしゃれ童子―太宰治(修正版)

少年はたいへんお洒落が好きで、自身のシャツの白さが眼にしみていかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしま う程でした。しかし周囲は彼の思惑とは裏腹に、そのセンスに冷笑している様子。そして彼はこの自身のお洒落な性質のために苦労し、やがて落ちぶれていくのです。では果たして少年の考えるお洒落とは、彼にとってどのような位置づけな のでしょうか。
この作品では〈信仰とはなにか〉ということが描かれています。
まず少年のお洒落とは、一体どのようなところにあったのでしょうか。彼のお洒落というものの像は、彼自身の中にはありません。あくまで服そのものに、彼のお洒落を見ているのです。だからこそ彼はそのアイテムが一つでも欠けると納得がいかず、町中を探し、なければやけを起こしてしまうのです。そうして自身の服の像を徐々に見失うと、彼はその熱をも失い、心の暗黒時代に入っていくのです。
これは、キリスト教などの一部の宗教などとよく似た構造を持っています。彼らの神というものは彼らの中にあるにも拘らず、偶像をつくりそこに自身の神を映し出しているのです。そして彼らは神のことばに耳を傾け、ある時は救われ、ある時は翻弄されます。例えば、自身の不始末で火事起こり家が焼けてしまったとしても、神の啓示により「運命」と言えば別の何かのせいになってしまいます。これでは確かに罪悪は消えるかもしれませんが、本質的な問題はいつまで解決されないことでしょう。
そして話を物語に戻すと、この少年にも同じようなことが言えるのです。彼は服というものに自身の人生、存在を見ているようです。ですが、やはりそれらは自身の中にあり、理想の服を着たからといって別の誰かになれず、理想の人生を歩めるはずもありません。だからこそ彼は服に振り回され、落ちぶれてゆくしかなかったのです。

2010年12月18日土曜日

世界的―太宰治(修正版)

 著者はあるヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだのですが、あまり感服できず、どうもこの本を書いた人物は聖書を深く読んでいないのではと考えている様子。そこから彼は、何故この本の著者が聖書を深く読んでいないのかを考えはじめます。そして彼はそこから〈身近にあると、ものの価値がかえってわからない〉という一般性を導きだしました。ですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
 例えば、わたし達は普段何気なく行っている「歩く」と言う動作。わたし達はこの動作をひとつの動きとして見ています。ですが、これを分解していくつかの工程に分けてみましょう。すると下記のようになります。

右足を上げる。この時バランスが崩れるので、左足に体重を乗せながら上げる。

十分左足に全体重が乗り安定したら、右足を前へ出す。そして左足に乗っている体重をゆっくりと右足へと持っていく。

右足を前につける。次第に体重が右の足へと徐々にかかってくる。

ある程度体重が右にかかると今度は左足を前に出す。

そして右足に体重をかけたまま左足を右足よりも前に出す。

徐々に右にあった体重を左足に乗せていき、足をつける。

そして、実際にこれを意識しながら歩けばどうなるでしょうか。今まで自然にできていたことが何処か不自然になり、歩きにくさを感じることでしょう。これはわたし達にとって歩くという動作をごく当たり前に行ってきましたが、ここでその動作を分解することにより、動作を行う際の留意点が多く存在することに気づき意識しました。すると今まで流れとして見えていたものが、個々として見え、かえってその動作を困難にしてしまったのです。
 話を作品に戻すと、このヨーロッパ人の著者にも同じことが言えます。恐らく彼の国ではキリスト教が生活と密着しており、だからこそ個々としてみることが中々出来ず、その価値を見出すことが出来なかったのです。

2010年12月16日木曜日

黄金風景―太宰治

 著者は昔からのろくさいことが嫌いで、子供の時、無知な魯鈍の女中、お慶をよく虐めていました。そんな彼女も今では幸福で子供も何人かいることを、彼はたまたま出くわしたお巡り(お慶の夫)から知らされます。そして、そのお巡りはなんと彼女を連れて今度著者のもとへ挨拶に来るというではありませんか。ですが家を追われ、その日を生きることが精一杯の著者は、この言葉を果たしてどう感じたのでしょうか。
 この作品では、〈他人は自分の鏡である〉ということが描かれています。
 まず著者は、お慶が幸せに暮らしており、今度自分を訪ねてくることを知ったとき「言い知れぬ屈辱感に身悶え」しました。最も彼がこう感じることは無理もありません。あれ程自分が馬鹿にしていたお慶が立派に奥さんをしており、極貧な生活をしている彼の前に表れるかもしれないのですから。そして、お慶が子供と旦那を連れてきた姿を見たとき、著者は完全に負けを認めるのでした。と、同時に彼は「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」と彼らの勝利から自分の未来の栄光の姿を見ている様子。恐らく彼は自分が虐めていた頃のお慶と現在の自分の境遇を重ね、お慶が現在このようになったことをもとに自分も同じようにいずれかは彼女のようにと考えているのでしょう。まさに著者は彼女を未来の自分の鏡にしているのです。

2010年12月14日火曜日

春の夜―芥川龍之介

 ある年の春、Nさんはある看護婦会から牛込の野田と云う家へ行くことになりました。その野田の家には、女隠居が一人と気の勝った娘、雪と雪とは対照的に育児のなく病弱な息子、清太郎の3人が住んでいました。
 ある晩、Nさんはこの家から二三町離れた、灯の多い町へ氷を 買いに行ったときのこと、その帰りに誰かに後ろから抱きつかれたのです。彼女は抱きつかれたことにも当然びっくりしましたが、それ以上にその抱きついた者の顔にびっくりしました。一体誰が彼女に抱きついたのでしょうか。
 この作品では、〈私たちがいかに精神的な存在であるか〉ということが描かれています。
 まず、Nさんに抱きついた人物の正体ですが、それはなんと清太郎と姿が瓜二つの不良少年でした。そのため彼女は本当に清太郎が自分に抱きついたのでは、と一瞬考えてしまいます。そして、彼女の心に最後に残ったことは清太郎の顔と、抱きつかれたという事実が残りました。この時、清太郎に恋をしていたNさんは、あたかも不良少年ではなく、清太郎自身に抱かれたように感じたことでしょう。だからこそ「清太郎はそこにいないかも知れない、少くとも死んでいるのではないか?」と、彼女は雪の傍にいる清太郎の存在を疑い、彼の身を案じています。彼女に抱きついたのは確かに不良少年です。ですが、彼女が清太郎に恋をしていること、少年が彼に似ていることがNさんの心を誇張させ、そういった心持を抱かせているのです。

2010年12月12日日曜日

虻のおれいー夢野久作

 今年六つになる可愛いお嬢さんのチエ子さんはある時裏の庭で一人遊んでいると、一匹の虻がサイダーの瓶の中でもがいている姿を目にします。苦しそうにしている虻を、彼女はどうにかして助けてあげようと奮闘します。果たして虻は無事瓶から出ることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈情けは人の為ならず〉ということが描かれています。
 結局、チエ子さんはどうにかして虻を助けることが出来ました。虻は彼女にこう言いました。「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」そしてこの約束は後にちゃんと果たされることになります。
 その数日後、チエ子さんは一人で留守番している時、泥棒が家の中に侵入し、なんと彼女の命を狙おうとします。そこに以前彼女が助けたあの虻が現れ、身を挺してチエ子さんを守り抜きます。そしてその結果、チエ子さんは助かりましたが、虻は泥棒にやられ、その一生を終えてしまいます。ですが、彼は見事彼女への恩をこうして返すことが出来たのです。しかしチエ子さんは自分の為に虻を助けたわけではなく、本心から虻を助けたいと思い、瓶から出してあげたのです。この本心からの行動が虻を感動させ、彼女の為に命を賭したのでしょう。

2010年12月8日水曜日

饗応夫人―太宰治

 お客をもてなす事が好き、というよりもお客に怯えながらも義務的にそうしている節がある未亡人の奥さまは、彼の夫の友人で医者の笹島が彼女の家を訪ねるようになって以来、そのもの静かで上品な生活を奪われていくことになります。この笹島という男は全く遠慮を知らず、彼女の家にいる時でさえ、あたかも自分の家にいるかのように振る舞い、頻繁に彼女の家に通い、自身の友人を勝手に招き、料理にさえ注文をつける始末。ですが、それでもこの奥さまはお客たちを招くことを決してやめようとはしません。一体彼女は何故そのお客たちを拒まないのでしょうか。
 この作品では〈優しさとは何か〉ということが描かれています。
 まず、私たちがこの作品を読むにあたり不思議に思うこととは、あらすじでも触れたように「何故彼女はそこまでしてお客たちの世話をするのか」ということでしょう。彼女はいつも自身よりも、笹島たちお客のことが自分の中で第一にあるのです。それは例え自身が苦しくても、経済的に困難な状況に陥ろうが、そして血を吐こうとも彼女の姿勢は崩れませんでした。しかし、奥さまがそうまでしても俗物のような笹島達の人間がその恩を返すとも考えられるはずもありませんから、私たちがこう考えることも無理もない話なのです。この私たちの素朴な疑問に、奥さまはこう答えています。「ごめんなさいね。私には、出来ないの。みんな不仕合せなお方ばかりなのでしょう? 私の家へ遊びに来るのが、たった一つの楽しみなのでしょう。」つまり彼女は自身も夫を戦争で失っているにも拘らず、笹島たちの不幸を思うと自分は幸せであり、また彼らの唯一の楽しみは自分の家に来て遊ぶことである。それを奪うことは自分にはできない、と言うのです。この彼女の強い意志が最も強く表れている箇所が、切符を破る場面です。奥さまは自身の身を案じ、女中の言葉に従い家を離れることにしたのですが、笹島を前にして彼らのことをもう一度思い返し、その場に留まり、もてなすことを決心したのです。この強い意志を見た女中は、「奥さまの底知れぬ優しさに呆然となると共に、人間というものは、他の動物と何かまるでちがった貴いものを持っているという事を生れてはじめて知らされたような気がし」たと述べています。一般的に動物は自身の身を案じ守りますが、他人の身を自分の命を投げ出して守ることは決してありません。自分よりも他人を先におけるのは人間だけであり、その姿こそ貴いものなのです。

2010年12月7日火曜日

巨男の話―新美南吉

 ある大変遠くの森の中に、巨男とその母親の恐ろしい魔女が住んでいました。ある月夜のこと、そんな彼らの家に二人の女と一人の少女がやってきました。彼女たちは王女とその侍女で、森に遊びに来たところ迷ってしまったので、一晩泊めて欲しいというのです。魔女はやさしく彼女たちを受け入れました。ところが、巨男が目を覚ますと三人は魔女によって黒と白の三羽の鳥に変えられてしまったのです。やがて彼女たちは何処かへ飛び立っていきましたが、どうしてだか白い王女様鳥だけが魔女の家に戻ってきました。巨男は不憫に思い、彼女をこっそりと飼ってやることにしました。
 そうして時が経ち、魔女もやがて老いていきます。それにつれて彼女自身の魔法を息子に徐々に教えていき、そして白い鳥を不憫に思うやさしい巨男はある時、王女を元に戻す方法を知ることになるのです。果たして王女は元の姿に戻れるでしょうか。
 この作品では、〈自分のことも省みず、ただ相手のことだけを案じていた巨男の姿〉が描かれています。
 まず、王女の魔法を解く方法とは、「彼女が涙を流す」ことにあるのです。これを知った巨男は彼女にどうにかして涙を流させるかを常に考えていました。例え、自身がどんなに理不尽な目にあおうとも、どんなに苦しくても巨男は王女を肩に乗せて彼女のことだけを考えていました。この姿こそが私たちに感動を与えるのです。何故なら、自分の命を賭してまで王女を元の姿に戻そうとした彼の心情を私たちは考えずにはいられないはずです。ましてや、現実の世界でこの巨男のように全うに生きている人間にとっては尚更考えてしまうはずです。だからこそ彼の姿は、私たちを感動させるだけでなく、何か一物を抱えて生きている人々を励ましているようにも見えてくるはずなのです。

2010年12月6日月曜日

影のない犯人―坂口安吾

○あらすじ
ある温泉都市で一番大きな別荘を構えている前川家の当主、一作が病気になったことから物語ははじまります。それを聞いて、医者の並 木先生剣術使いの牛久玄斎先生、一刀彫の木彫家で南画家の石川狂六先生の三名はすぐに会議を開き、誰が一作氏に毒をもったのかということについて話しています。果たして毒はもられたのでしょうか。だとすると、誰がもったのでしょうか。

○ キーポイント
この作品では結局犯人は明かされない。
確認の見解はバラバラでまとまりが無い。
引用―要するに、誰が犯人だか、見当がつかないらしい。そして、要するに、誰が犯人でもかまわないよ うな変テコリンに無関心な時世が到来したらしいのである。

○ ポイント
彼らは何故本気で犯人探しをしないのか。
何故無関心なのか。

2010年12月4日土曜日

貨幣―太宰治

 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく、他人を必死で助けようとするある人間の姿〉が描かれています。
 それはこの貨幣の彼女がある陸軍大尉の懐に巡ってきた時のことでした。その大尉というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女と、なんとその女の赤ちゃんまでも罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。自身の命が危うい中、ましてさっきまで自分とわが子を罵っていた男をそうまでして守ろうとするその姿に私たちは心をうたれてしまいます。
 この貨幣が見てきたように、世の中の人間の中には自分のことだけを見て、他人ことなんて全く考えていない人々が多くいます。その一方で、このような女性の姿を目にした時、その心の美しさに感動するのです。

鴎―太宰治

 著者は自身が唖の象徴と考える鴎を、自身の中に感じることがあると言うのです。というのも、この頃著者は一人唖になりながら、「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろう か。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。」と言うことを延々と考えています。一体彼は何故その様なことを考えているのでしょうか。何故唖の鴎になっているのでしょうか。
 この作品では、〈作家の苦悩〉というものが描かれています。
 著者は文学を通して何かやりたいことがある様子ではありますが、今まで自身が満足の出来ることを何一つ出来ていません。ただ「イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ハラ、」と無常にも時間だけが流れていきます。何か一物はある筈なのだが何も出来ていないことから、ゆらゆらと漂う群集と同じではないのかと考えているのです。そして、唖の鴎はそんな著者の自身の無さの表れなのです。自分に自身が持てないために決定的な言葉を誰かに伝えることが出来ず、ただ唖になって黙っているしかないのです。
 ですが、そんな著者の心を救っているものが、秋の青空を映す水たまりの存在です。彼はそこに「秋 の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている」様を見て、ただそこにあるだけでも変化していることを感じ、その事実に救われています。そうしてその水たまりの様は著者に「待つ」という表現を与えているのです。彼はこう考えています。こうして悶々と考えている間にも万物は変化している、だからこそやがて自分にもその変化は訪れるはずである、と。彼に出来ることはただ思い悩みながらも、ただその変化を待つしかないのです。

2010年12月1日水曜日

或恋愛小説―芥川龍之介

 ある婦人雑誌の面接室ででっぷり肥った四十前後の主筆と、主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇する容姿をもつ堀川保吉は次回雑誌に載せる恋愛小説について打ち合わせをしています。ですか、互いの小説観には何か決定的な違いがある様子。それは一体なんなのでしょうか。
 この作品では、〈小説とはどういうものか〉ということが描かれています。
 まず、主筆が考える小説における「近代の傑作」とは、読者に受けるか否かにあるようです。事実、彼はこの打ち合わせの際、一番気にしていることは劇的な変化なのです。つまり、どこで三角関係が発生するのか、どこで夫への愛情裏切り、第3者である達雄と甘い恋愛にその身を注ぐのか、ということです。確かにこのような非現実的で情熱的なシーンがあることによって、読者は主人公に強く共感し、物語に引き込まれることは間違いありません。主筆にとって小説とは、そのあり方よりも実際売れるのかどうかが重要な問題なのです。
 しかし、堀川の考える小説観は、主筆のそれとは全く異なっています。彼は小説の中で、「恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らない」と、恋愛というものを自身の中で一般化し、それを作品の中で表現しようとする姿勢が伺えます。何故なら彼は小説というものは、少なからず読者の認識に影響し、過度に一部を延長させた、非現実的な小説は読者に誤った認識を与えかねないと考えています。ですから、作家である自身が世の中にある諸々を整理しそれを読者に訴えなければいけないことをここで示唆しているのです。

家庭の幸福―太宰治

 著者の家には長年ラジオというものがありませんでしたが、ある日、ひょんなことから彼の家にもラジオが置かれることとなるのです。ですが、著者はなかなかラジオに興味が持てない様子。ところが、自身が病気をしたことをきっかけにラジオに耳を傾けた著者は、一日をそれでつぶすことになってしまいます。そして夜の八時頃、著者は依然とラジオを聞いていたところ、ある奇妙なものを聴取するのです。それは現在の政治に怒り狂う国民と、それを相手にする役人とのやり取りでした。彼はその中で、国民の怒りをさらりと受け流す役人のヘラヘラとした笑い方に注目します。一体彼は、役人の笑いから何を感じているのでしょうか。
 この作品では、〈利己とはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、著者はこの役人たちの笑いから「わが身と立場とを守る笑いだ。防禦の笑いだ。敵の鋭鋒を避ける笑いだ。つまり、ごまかしの笑いである。」等といったものを感じています。
では彼らは何故、このように他人をごまかすことが出来るのでしょうか。と言うのも、私たちは大抵他人が何らかの感情を自分にぶつけられた時、その感情がどこから来ているのかを考えはじめます。つまり相手の立場になって、何故この人はこうも興奮しているのかとわが身に繰り返します。そしてその原因が自分にあると分かれば、ごまかそうとは考えず相応の対応が出来るはずです。
ですが、ここに登場する役人たちはそうではありません。彼らは他人が何を考え、何を怒り、何を悲しんでいるのかなんて、眼中にありません。ただ自分とその周りだけを見ているのです。だから彼らは、国民がどんなに怒りを露にしようともへらへらと笑うことが出来るのです。そうして彼らは他人をごまかし、自分の利益と立場だけを考えることが出来るのです。

2010年11月28日日曜日

寡婦―モオパッサン

 ある時バヌヴィルの館に狩猟にやってきた人々は、その晩食事を終え、暇を持て余していました。そんな折、ふと人々の目にある未婚の老嬢の頭毛でつくられた指輪がうつります。人々はその指輪をはめている老嬢の様子から、この指輪と彼女には何か因縁めいたものを感じ、話を聞きたがります。そうして人々に促された老嬢はしぶしぶ、ある悲しい過去を語り始めるのです。
 この作品では、〈他人の道理を押し付けられた、ある悲しい老嬢の姿〉が描かれています。
 それは老嬢が17の少女だった頃に起こります。ある時、少女の家に一家の主を失くしたその妻と、13歳の息子を預かることになります。やがて、その少年は17のその少女に情熱的な恋心を抱くようになっていくのです。ですが、少女にとって、その少年の恋心は単なる遊び道具でしかなく、いつも彼の心を弄んでいました。
 ところがそれから一年経ったある晩、少年は少女に向かってこう言いました。「僕はあなたを愛しています。恋しています。あなたを死ぬほど恋しています。もし僕をだましでもしたら、いいですか、僕を棄ててほかの男とそういうことになるようなことでもあったら、僕はお父さんのようなことをやりますよ――」彼の父のように、というのはそもそも彼ら一族にとって、恋愛というものが人生の全てであり、それによる死や復讐は一族の間では認められていたのです。それは少年の父も例外ではなく、オペラ座の歌姫にだまされたあげく、巴里の客舎で自殺していました。そして、この少年もそんな一族の血に則り、彼女に捨てられるようなことがあれば命を絶つといっているのです。この台詞を聞いた少女は一切を悟り、「あなたはもう冗談を云うには大きすぎるし、そうかと云って真面目な恋をするには、まだ年がわか過ぎてよ。あたし、待っているわ」とやんわりと彼の愛情を拒んだのです。しかし、この言葉を真に受けた彼はやがて少女が他の男と婚約したことを知ると、やはり父親と同じ最後を遂げてしまうのです。そうして、残された彼女はその責任を負うため、彼の寡婦として未婚を今日まで貫いてきたのです。
 しかし、果たして本当に彼が死んだ原因は彼女にあったのでしょうか。結論から述べると、それは否です。何故なら、彼女にはそもそも彼のルールに従う義理も義務もないのですから。確かに少女は少年の心を弄びましたし、嘘もついたかもしれません。ですが、一切は彼の中で取り決められたのであり(事実、作中彼女がそれに同意した素振りは一切ありません)、彼女はその引き金を引いたに過ぎません。彼が死んだ原因は、彼自身にあったのです。ですが、そうは言っても、彼女が自身に責任を見出すのも無理もありません。何故なら少年は、「あなたは僕をお棄てになりましたね。僕がいつぞや申し上げたことは、覚えておいででしょう。あなたは僕に死ねとお命じになったのです。」となんと自分のルールを他人にまで押し付け、あたかも彼女が自分を殺したのだと言って死んでいるのですから。

佳日―太宰治

 著者の友人である大隈忠太郎は東京での暮らしになじめず、渡支を決心します。そして彼が渡支して5年後、著者は大学の同期の友人、山田勇吉から大隈の結婚話を耳にします。ですが、山田はひょんなことから体を壊してしまい、著者が結婚のもろもろをまとめることとなるのです。一方、著者が結婚の段取りに右往左往する中、大隈は自身の細君となる人物を迎えにはるばる北京から帰ってきました。そうして向かえた結婚式の当日ですが、この日、大隈は花嫁の姉からある信じられない一言を言い放たれることとなるのです。彼女は何故そのようなことを言ったのでしょうか。
 この作品では、〈戦場に出ている夫の居場所を必死で守ろうとする一人の細君の姿〉が描かれています。
 事のはじまりは大隈が自身のモーニングを持っていないことからはじまります。著者はそんな彼のために著者は早速モーニングを貸してくれる人物を探し始めます。そして婚約相手の父親である小坂氏に頼んだところ、快く貸してくれることとなりました。そして氏は早速次女に旦那のモーニングを貸すよう命じます。ところがなんと次女はその命を拒んでいるではありませんか。その次女の言い分はこうです。

「そりゃ当り前よ。お父さんには、わからない。お帰りの日までは、どんなに親しい人にだって手をふれさせずに、なんでも、そっくりそのままにして置かなければ。」

 この言葉を聞いて、著者と大隈は深く感動していました。彼らはその言葉から、彼女の不在の夫の居場所を必死で守るその姿勢を見たのです。夫は現在不在であるが、確かにここの家の者である。だから、夫の私物を勝手に他人に着せることがあってはならない。そう言った姿勢が彼女の言葉には含まれていたのです。だからこそ、作品の終盤で彼らは次女のことを「下の姉さんも、偉いね。上の姉さんより、もっと偉いかも知れない。」と評しているのです。

2010年11月27日土曜日

駆け込み訴え―太宰治

 この作品では、新約聖書に登場するイスカリオテのユダがキリストを裏切る際のエピソードを誇張し綴っています。もともと彼は裏切る直前までキリストをこよなく愛していました。しかし、キリストの度重なる言動、行動が彼を失望させ、悲しみ、やがて裏切ることとなるのです。一体ユダはキリストの何処を愛し、何に憎しみを抱いていたのでしょうか。
 この作品では、〈自分を押し付けるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 この作品に登場するユダはキリストに対して、「私はあの人を、美しい人だと思っている。」とある種の像を持っています。この像と現実のキリストがユダの中で一致している時は、彼はキリストを愛することが出来ました。
ですが、キリストが一旦この像と著しくかけ離れた行動を取ると、ユダはキリストを恥辱である、体たらく、憐憫であると非難するのです。例えばキリストの全身に香油をかけ、そしてその香油で彼の足を洗っていたマリヤをユダが叱っていたところ、キリストが「この女を叱ってはいけない。」とそれを制する場面。この時、ユダはキリストの少し赤らめた頬を見て、「あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。取りかえしの出来ぬ大醜聞。」と、あたかもキリストが彼女を愛するはずがないと言わんばかりにその愛情の兆しを強く否定し、非難しているのです。
このようにユダはキリストを自身の像を基に彼への愛情を図っていたことから、キリストの像を愛していたということが言えるのです。またこの像というものは、彼の中で育まれていたことから正確には彼自身を愛していたと言っても過言ではないでしょう。だからこそ、最後の晩餐のシーンでユダの像を著しくかけ離れ、彼を強く非難しているキリストに対し、ユダは彼に裏切られた心持になり、自身を「復讐の鬼」と表現しているのです。

2010年11月26日金曜日

罪人―アルチバシェッフ

罪人―アルチバシェッフ




○あらすじ
トンミイ・フレンチはある時、死刑の立会人として罪人の最後を見届けることになっていました。彼はそのことに関して「なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎と して動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持」になる一方、恐ろしさも感じていました。そんな対立する複雑な気持ちの儘、彼は自身の家を出て、死刑の場へと向かうのです。

○ キーセンテンス
気の狂うような驚怖と、あらあらしい好奇心とに促されて、フレンチは目を大きく開いた。

どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一番恐ろしかった事を忘れたのを、思い出さなくてはならないような心持がする。
 どうも自分はある物を遺却している。それがある極まった事件なので、それが分かれば、万事が分かるのである。それが分かれば、すべて閲し来った事の意義 が分かる。自己が分かる。フレンチという自己が分かる。不断のように、我身の周囲に行われている、忙わしい、騒がしい、一切の生活が分かる。

鍪が、 あのまだ物を見ている、大きく開けた目の上に被さる刹那に、このまだ生きていて、もうすぐに死のうとしている人の目が、外の人にほとんど知れない感情を表 現していたのである。それは最後に、無意識に、救を求める訴であった。フレンチがあれをさえ思い出せば、万事解決することが出来ると思ったのは、この表情 を自分がはっきり解したのに、やはり一同と一しょに、じっと動かずにいて、慾張った好奇心に駆られて、この人殺しの一々の出来事を記憶に留めたという事実 であって、それが思い出されないのであった。

○ 仮説
一、この作品では人間のある複雑な心情が描かれているが、そこがこの作品の一番の特徴ではないのか。
一、しかし、それでは作品の表面上をなぞらえたに過ぎない。ここで重要なのは、彼が死について恐怖を感じながらも好奇心を持ったところに作品の論理性があるのではないか。

2010年11月23日火曜日

緒方氏を殺した者―太宰治

 この作品では、緒方氏何故死んだのかについて著者が考察している様が描かれています。著者は、そもそも彼が死んだのは彼の作家精神にあると考えています。では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのでしょうか。
 作家とは人間の複雑な心情、なんとも言えない不条理な事柄に芸術性を見出し、文章として表現します。それは時に、「不幸が、そんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨て ることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがな かったか。愚かさを愛したことがなかったか。」と作家の目には甘美に映ることもあります。すると、察するにこの緒方氏という人物は作家が不幸や病気に憧れを感じるように、死に対して甘い憧れを感じ死んでいったのです。

2010年11月22日月曜日

憑きもの―豊島与志雄

「私」には止められないもの、というよりも彼に憑いているものが2つあります。1つは酒、そしてもうひとつは恋人の秋子だと言うのです。特に秋子の眸は彼を捉えて離さず、じっと彼を見つめ、また彼女の眸を見ると酒を飲みたくなってしまうのです。そこで彼は彼女の眸の正体を暴くべく、お酒と「別居」すべく、2人で浅間山麓へと向かったのでした。
 この作品では、「身近にあるとはどういうことか」ということが描かれています。
 浅間山麓へ向かった2人は、「私」のふとした提案から、浅間山に登ることになりました。そして火口の淵まで辿り着くと、彼はある衝動を感じはじめます。それは「彼女を突き落すか、彼女と一緒に転げこむか」という殺人衝動を感じていたのです。ですが、彼は彼女を殺せる決定的な瞬間に、むしろ彼女を助けてしまいます。そして「私」は秋子を失いかけた時、それをなんと後悔しだすのです。その時の心情を彼はこう述べています。「淋しくて惨めだった。何もかも頼 りなかった。後からついて来た秋子を招き寄せて、私はその膝に顔を伏せた。何もかも頼りないのだ。憑いてくれ、しっかりと憑いてくれ、そうでないと、俺は 淋しいんだ。しっかり憑いていてくれ。」と。彼は彼女がいなくなることを考えると、突然淋しさを感じ出したのです。これは、彼が普段彼女と共にいたために、彼女と共にいる利点と言うものを忘れてしまっていたために起こった現象なのです。例えば私たちが普段使っている携帯電話ですが、普段その着信を煩わしく思っている人がある日それを失くしてしまった時、どう感じるでしょうか。常に誰かと連絡が取れる状況から一変して、取れなくなってしまうことに不安を覚えずにはいられないでしょう。私たちは日常使っているものに対して、不満や怒りを感じがちですが、それと同時に実はそれが本来持っている利点や恩恵というものも忘れてしまいがちなのです。話を作品に戻すと、この「私」もそれと同様に、秋子が自分の周りにいることで解消されていた寂しさがあるにも係らず、それを忘れ欠点だけが目立ってしまい、彼女を自分から離そうとしたのです。それに気づいた彼は、彼女を自分から離すことは不可能だと考え、共に生きる道を選んだのです。

炎天汗話―太宰治

 この作品では、著者が自身の好きな劇団を見に行った話を綴っています。その劇団とは著者が学生のときに一度だけ見たもので、今回改めて彼は十年ぶりにその劇場を訪れました。劇を拝見する際、彼は劇団員たちが「その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して」いました。ですが、現実の彼らというものは全く十年前と芸が変わっていませんでした。しかし、著者はここでもう一度、芸が〈変わらない〉ということを思い返してみるのです。実は芸が変わらないということは相当の努力の証であり、この努力がなければ、芸は落ちる一方であると彼は考えたのです。進歩だけではなく、維持もまた芸を磨き高みを目指している何よりの証拠となっているのです。

2010年11月19日金曜日

姥捨―太宰治

 あやまった人を愛撫した妻、かず枝と妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫、嘉七。お互い自身の罪のため、身の結末を死ぬことに依ってつけようと思い自殺旅行に出かけます。その旅行の中で夫婦の絆を深めていく嘉七とかず枝でしたが、それでも死の覚悟を一切緩めません。夫は彼女は死ぬべき人間ではなく、死ななければいけないのは自分自身であるだと考えており、一方の妻も、夫にかまをかけられても「あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから。」と彼の提案を跳ね返します。彼らはこのまま死んでしまうのでしょうか。そうして夫は自身の苦しみから逃れることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈人から愛されるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、夫は人生に関してある種の苦しみ、辛さを感じ死ぬことを決意しています。その決意を述べる際、彼は「私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひ とのちからを過信した。」とも言っています。つまり彼は誰かに支えられる、頼ることでその苦しみから耐え、凌いでいたのです。
 ですが彼らは自殺に失敗し、眠っている妻を夫が「しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。」と彼女の体を運んでいる時、「この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。」と、彼女も自分自身に頼っていることに気づいたのです。
 私たちは多くの場合、自身が苦しいときや辛い時、恋人に話を聞いてもらい自分の苦しみや辛さを分かってもらおうと考えてしまいます。そしてその願望は大抵の場合かなえられます。困った時も恋人に相談する方も少なくないはずです。このように、愛することと頼ることは何か結びつきがあることは明白なのです。
 話を作品に戻すと、この夫と言うのはこれまで、自身の苦しみに耐えられず、妻に頼って生きてきました。ですが、その頼った分が妻に頼られることで返ってきては本末転倒です。だからこそ彼は自身を守るため、妻を捨てなければならなかったのです。

2010年11月17日水曜日

気の毒な奥様―岡本かの子

 或る大きな都会の娯楽街に屹立している映画殿堂で満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されている夜のこと、そこに鬢はほつれ、眼は血走り、全身はわなわな顫えている一人の女が飛び込んできました。女はそこにいた少女たちにこう告げました。
「私の夫が恋人と一緒に此処へ来ているのを知りました。家では子供が急病で苦しんでいます。その子供を、かかり付けのお医者様に頼んで置いて、私は夫をつれに飛んで来ました。どうか早く夫を呼び出して下さい」
 それを聞いた少女たちは彼女の夫を探すべく、彼女とその夫の名前を尋ねました。しかし女は自身の名誉のため、名前を告げることをためらっている様子。そこにある「才はじけた少女」が全てを心得、「筆を持って立札の上に、女の言葉をその儘そっくり書きしるして、舞台わきに持って行って立」ちました。ですが、この後、少女が予想もしなかった意外なことが起こってしまうのです。
 この作品の面白さは、〈現実と少女たちのある認識のギャップ〉にあるのです。
 「才はじけた少女」は恐らくこう考えたはずです。子供と奥さんがいながら浮気をする紳士もそう多くはない。こう書いておけば夫は特定できるはずだ、と。ところが、現実には浮気はしている紳士は彼女とその他少女たちの予想に反して多く、この紳士たちの姿を見て世の中の奥様を哀れんでいるのです。
 さて、こう言った現実と私たちの認識との間にあるギャップというものは、私たちに驚愕と関心をもたらしてくれます。現に今日の多くのテレビ番組では、私たちの認識の塊である常識というものにまず着眼し、現実とどうずれているのかを暴くという構造が主流であり、多くの視聴者はそこに関心を寄せています。この作品もまた、私たちが少女たちの立場に立つことによって世の紳士の実態の一部を知り、そこに興味を持つことになるのです。

2010年11月14日日曜日

ざしき童子―宮沢賢治

 この作品では、著者の地方のざしき童子の伝承がいくつか紹介されています。このエピソードはどれも当時の日常が舞台になっており、ひょんな事柄を何かとざしき童子と結び付けています。一体何故人々はそんなひょんな事柄をざしき童子という、存在も疑わしい人物のせいにしなければならなかったのでしょうか。
 まず、この作品の伝承を考察するにあたって、〈何故伝承はここまで伝えられてきたのか〉というところに着眼しなければいけません。伝承が伝承として成立するまでの過程には、大きく分けて2つのパターンが存在します。ひとつはある現象が人間の人知を超えている場合。もうひとつは伝承の条件にぴったりと当てはまる場合です。
はじめに前者ですが、人というものは未知というものに恐れを抱きます。何かそこには嘘でもいいから、原因が欲しいものです。そこで人々は太古から人知を超えた現象、病は悪魔のせい、嵐や台風は神のせいと、それらを自分たちの空想の産物のせいにしてきました。このざしき童子の話だって例外ではありません。どこから聞こえているか分からない箒の音や、十人いるはずの子供が一人増えた事など、自分たちの力では解決できないことをそれにせいにしているのですから。
次に後者ですが、これはやはり前者の現象において彼らの名前が登場する中で、その条件というものは決まってくるのです。ですからその条件にぴったりとはまった時、人々は脳裏に彼らの存在を連想します。例えばあなたの部屋が自身の子供によって、荒らされたとしましょう。すると真っ先あなたは家の者を疑い、子供が荒らしたという結論に至るまでに時間はかからないでしょう。しかし、今度は泥棒があなたの部屋を泥棒が荒らしたとしましょう。するとあなたはどう考えるでしょうか。ちゃんと観察をしなければ、状況だけで子供が犯人であるとついつい決め付けてしまう危険性はないと言い切れるでしょうか。やや話のベクトルは違いますが、論理の話では構造は同じはずです。つまり、嘘でも誠でも、ある仮説が真実として認定されたとき、同じ状況が整っていれば、私たちはそれを前の仮説に当てはめて考えてしまうくせがあるのです。ざしき童子の話もやはり、日本の歴史の中でその存在が認められてきたからこそ、その条件がそろっていれば人はすぐにざしき童子のせいにしてしまうのです。

ぐうたら戦記―坂口安吾

 少なくとも太平洋戦争が終結する数年間、この著者の生活はじつにぐうたらなものでした。というのも、その生活というものは原稿がなかなか書けず、ただただ酒を飲みつくすだけの毎日だったのです。ところでそんなぐうたらな彼は、自身の芸術観とこの戦争にある類似性を見出している様子。それは一体どういうところにそれを見ているのでしょうか。
 この作品では、〈著者の芸術家としての葛藤〉が描かれています。
 そもそも彼の芸術観というのは、「芸術の世界は自ら の内部に於て常に戦ひ、そして、戦ふ以上に、むしろ殉ずる世界」と、非常に戦争と似通ったところがあります。つまり彼は内面では芸術家としての苦悩を抱き、悶々と戦っているのです。ですが、なかなか自身が到達したいところになかなか到達できず、鷹に食われ、糞として落とされ、生まれ変わりまた同じところを目指しているのです。この悪循環のため、彼は、表面上はぐうたらするしかなく、自身の内面と現実の現象のギャップに苦悩しているのです。

2010年11月11日木曜日

鬱屈禍―太宰治

 ある時、著者の小説がいつも失敗ばかりで伸びきっていないことを見かねて、ある新聞社の編集者が「文学の敵、と言ったら大袈裟だが、最近の文学に就いて、それを毒すると思われるもの、まあ、そういったようなもの」を書いてみなさいと言ってきました。気を利かせてくれた編集者のためにもと、彼は意気込んでこれに取り組みます。さて、著者にとって「文学の敵」とはいったい何なのでしょうか。
 この作品では、言うまでもなく〈敵とはなにか〉について述べられています。
 まず、著者はジイトの「芸術は常に一の拘束の結果であります。」という一説を軸に「文学の敵」というものを論じ始めています。このジイトの一説では、文学は常に何かに拘束され、つまり何かが足りなかったため、その中で工夫することによって発展を遂げてきたというのです。ですが、だからと言って、著者はこの拘束に感謝しなさいと言っているわけではありません。むしろこれに大いに苦悩し、嫌ってしかるべきなのです。では敵とは何なのでしょうか。「ああ、それはラジオじゃ無い! 原稿料じゃ無い。批評家じゃ無い。古老の曰く、「心中の敵、最も恐るべし。」」と著者は力強く述べています。一番の敵はまさに、あれのせいで、これのせいでと出来ない理由を他から見つけてくる自分の心にあったのです。

2010年11月10日水曜日

或る忠告―太宰治

 これは、ある詩人が著者に対して、一言物申しているところがその儘作品となっています。彼は一体著者のどのような姿勢が気に入らず、一言物申しているのでしょうか。
 この作品では、〈著者と作品との関係〉が描かれています。
 残念ながら、この作品で詩人が何故著者に物申しているのか、その理由までは深く言及されていません。ただ彼は著者の作品を読み著者の生活態度、心持を見抜き、家に訪れその怒りをぶつける事になったことは事実です。確かに詩人の言うとおり、作品にその人の人柄、心持というものはよく表れています。例えば、ごく小さいレベルのもので言えば、作家の気が抜けている場合、面倒くさくて見直しという作業を怠った結果、誤字脱字につながっていきます。
作品というものは当然著者のものの見方、考え方が大きく反映しますから、読者は作品を読んで彼らの心持を読み取り、目には見えない作家という像を自分の中でつくり上げているのです。

2010年11月7日日曜日

愛と美について―太宰治

 この作品は、著者の兄弟のある一日のやり取りを切り抜いたような作品になっています。彼らはある曇天の日曜日。それぞれ退屈していた兄弟達は、家のならわしに従って皆で物語の連想をはじめます。
 この作品では、言うまでもなく〈日常の仲睦まじい兄弟の姿〉描かれています。彼らは、それぞれの性格があらわれた語りで、物語を展開していくのですが、それぞれに不味い部分があったとしてもそれを互いに尊重し、ときには互いにそれを生かそうともしています。その姿は、読者である私達には微笑ましく見えることでしょう。だからこそ、物語の最後に登場する母の姿に私たちは共感し、共に笑う事ができるのです。

2010年11月6日土曜日

足―豊島与志雄(未完)

○ 著者にとって二階から垂れ下がっている足とはどのようなものであったか
無作法なもの
お化け(冗談交じり)
睡眠を妨げる対象

○ 男の足の事情を知った著者はその後、どう感じたか
そこまで考えてくると、私は何だか馬鹿にされたような、また妙に憂欝にとざされたような、訳の分らない気持に沈んでいった。

○ 本質を掴む道しるべ
著者は何故、男のことを考えて「馬鹿にされたような、また妙に憂欝にとざされたような、訳の分らない気持」になったのか。

2010年11月4日木曜日

朝―太宰治

 何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。

2010年11月2日火曜日

赤とんぼ―新美南吉

 赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根の竹の上に、チョイととまり、昨年の夏の「可愛いおじょうちゃん」との思い出を思い出しています。
 はじめて彼女と会った時も、赤とんぼはその竹にとまっていました。そして「可愛いおじょうちゃん」を見つけると、その赤いリボンの帽子にとまってみたくなりました。ですが、おじょうちゃんが怒ることを恐れて、赤とんぼ少し悩みました。やがて赤とんぼは意を決しその帽子にとまってみました。果たして、その時の彼女の反応とは。
 この作品の良さは、〈決して言葉を交わすことの出来ない2人がこころを通わせる〉というところにあるのです。
 赤とんぼは少女の言葉が理解できても、自分の言葉を発する事が出来ません。一方少女も自分の言葉は発することは出来ても、赤とんぼの言葉を理解は出来ません。こうして見ると、二人の間にはかなりの隔たりがあるように感じます。ですが少女は子供ながらの感性なのか、赤とんぼが考えている事を正確に理解し、心を通わせることが出来たのです。ここに物語のラストを感動させる要素があるのです。
私達は当然互いの言葉も理解できますし、自分の気持だって伝える事ができます。しかし、それでも相手に上手く気持を理解してあげられなかったり、逆に理解してもらえなかったりと人間関係で四苦八苦しています。だからこそ、ここまで心を通じ合わすことが出来る二人の別れのシーンは、私たちに深い感動を与えているのです。

きりぎりす―太宰治

 「あなた」のところに嫁いで5年目、「私」はあるすれ違いから彼のもとを離れる決心をします。
 元々「私」の愛した「あなた」というのは、「貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せ られて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行く」正直で清潔感のある人物でした。ですが、「あなた」は自身の画家としての出世を機に大きく変わってしまいました。果たしてどう変わってしまったのでしょうか。その変化を「私」はどう感じていたのでしょうか。
 この作品では、〈ある社会的な成功と正しさとの違和感〉について描かれています。
 画家と社会的な成功をおさめた「あなた」は一言で言えば、俗物という言葉がその儘当てはまる人物になってしまいました。あれ程展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていた彼が、自身のアパートの狭さを恥じ、他人の体裁を気にするようになっていったのです。そして表では他人に媚びているにも拘わらず、裏ではその人に対して愚痴を言うようになっていきました。「私」は「あなた」のそこに嫌悪を感じているのです。
 ですが、彼が俗っぽくなっていくにつれて、社会的な成功も築いていきます。「私」はそこに、自身の人生観に疑問を感じられない様子。私達は生まれてから今日まで、多くの経験、体験を積んで自分の人生観、倫理観、道徳観を築いていきました。私達はこの体験や経験に基づいて行動しているのです。「私」はそういった生き方にこそ、人としての正しさがあるのではないかと考えています。それに対して「あなた」は今まで自分の築いた人生観を全て投げ捨て、俗物となり成功しているのです。しかし、彼のそんな生き方に不潔さを感じている彼女にとって、それを受け入れられるはずもなく、「この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」とむしろ自分だけは正しく生きようと決心を強く固めるのでした。

2010年10月31日日曜日

非凡なる凡人―国木田独歩

 この作品は著者の友人である、桂正作という技手について語られています。彼は秀吉やナポレオン等の非凡の類ではありません。ですが凡人でもありません。著者曰く、「非凡なる凡人」というが最も適評だと述べています。また著者は彼のその特性を尊敬している様子。一体著者は桂のどのような特性をそう評し、感心しているのでしょうか。
 この作品では、〈成功するとはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず桂の才能というのは、著者も述べているように平凡なもので、特に目立った特性もなく私達と何ら変わらない人物です。ですが、桂は凡人であるが故に自身の才を生かすこととなるのです。彼の生き方というのはまさに一歩一歩階段を上るようなものでした。地道にお金を貯めて上京、そして上京すると今度は数年かけて、帰郷するためお金を貯め、帰郷したかと思えば、今度は自分を追うようにして東京にやってきた弟達の面倒をも見ています。この忍耐の必要な人生を一体何人が真似て出来るでしょうか。人生において、確かに才能や周りの環境によって自分の思い通りの人生を歩む者もいます。しかし、一方で才能等はなくても一歩一歩直実にステップを踏むことによっても、自分の人生を成功させ、思い通りに生きることができるのです。