2010年12月25日土曜日

女類―太宰治


戦争が終結し、東京で雑誌関係の仕事をしている伊藤は、行きつけの屋台、「トヨ公」のおかみに惚れられ、ねんごろになっていきます。そんなある時、彼の郷里の先輩、笠井氏がたまたま「トヨ公」にやってきます。そしてやってきたかと思うと、「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」といきなり伊藤を怒鳴ってきたのです。どうやら彼は伊藤が女性と親しくしていることが気に入らず、その行為自体が「地獄行きを志望」しているというのです。一体どういう事なのでしょうか。
この作品では、〈過度の一般化とは何か〉ということが描かれています。
まず、伊藤とトヨ子の関係について強く否定している笠井という人物は、どのような論理構造を持ち、伊藤を説得しているのでしょうか。伊藤を説得するに当たって彼は「僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。」と、自身は彼女のことを何も知らず、彼女について論じる資格もなく、その気もないことを断っています。その上で、「僕はね、人類、猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない。 全然、種属がちがうのだ。からだがちがっているのと同様に、その思考の方法も、会話の意味も、匂い、音、風景などに対する反応の仕方も、まるっきり違って いるのだ。」と、女性の一般論を述べようとしています。その中で彼は、女性というものは男性とは肉体の構造は勿論、価値観、考え方にも違いがあり、相容れない存在なのだと述べています。しかし、果たして本当にそうでしょうか。もし仮にそうだとすれば、男性と女性が人類の長い歴史の中でここまで共存することはできたでしょうか。勿論答えは否です。そもそも笠井の論理性というものは、自身がかつての愛人にみっともない形でそむかれた結論だけを延長させ、男性と女性は相容れない存在なのだと論じているに過ぎません。確かに彼らは自分達の気持ちが互いに通じ合っていなかったため、別れるしかなかったのでしょうが、彼の失敗というものはそれを全体に押し広げたところにあります。これを「過度の一般化」と言います。そして彼はこの理論を主張し伊藤とトヨ子にまでも押し広げたために、結果的に彼女を死に至らしめることになってしまったのです。

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