2010年11月11日木曜日

鬱屈禍―太宰治

 ある時、著者の小説がいつも失敗ばかりで伸びきっていないことを見かねて、ある新聞社の編集者が「文学の敵、と言ったら大袈裟だが、最近の文学に就いて、それを毒すると思われるもの、まあ、そういったようなもの」を書いてみなさいと言ってきました。気を利かせてくれた編集者のためにもと、彼は意気込んでこれに取り組みます。さて、著者にとって「文学の敵」とはいったい何なのでしょうか。
 この作品では、言うまでもなく〈敵とはなにか〉について述べられています。
 まず、著者はジイトの「芸術は常に一の拘束の結果であります。」という一説を軸に「文学の敵」というものを論じ始めています。このジイトの一説では、文学は常に何かに拘束され、つまり何かが足りなかったため、その中で工夫することによって発展を遂げてきたというのです。ですが、だからと言って、著者はこの拘束に感謝しなさいと言っているわけではありません。むしろこれに大いに苦悩し、嫌ってしかるべきなのです。では敵とは何なのでしょうか。「ああ、それはラジオじゃ無い! 原稿料じゃ無い。批評家じゃ無い。古老の曰く、「心中の敵、最も恐るべし。」」と著者は力強く述べています。一番の敵はまさに、あれのせいで、これのせいでと出来ない理由を他から見つけてくる自分の心にあったのです。

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