著者はあるヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだのですが、あまり感服できず、どうもこの本を書いた人物は聖書を深く読んでいないのではと考えている様子。そこから彼は、何故この本の著者が聖書を深く読んでいないのかを考えはじめます。そして彼はそこから〈身近にあると、ものの価値がかえってわからない〉という一般性を導きだしました。ですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
例えば、わたし達は普段何気なく行っている「歩く」と言う動作。わたし達はこの動作をひとつの動きとして見ています。ですが、これを分解していくつかの工程に分けてみましょう。すると下記のようになります。
右足を上げる。この時バランスが崩れるので、左足に体重を乗せながら上げる。
↓
十分左足に全体重が乗り安定したら、右足を前へ出す。そして左足に乗っている体重をゆっくりと右足へと持っていく。
↓
右足を前につける。次第に体重が右の足へと徐々にかかってくる。
↓
ある程度体重が右にかかると今度は左足を前に出す。
↓
そして右足に体重をかけたまま左足を右足よりも前に出す。
↓
徐々に右にあった体重を左足に乗せていき、足をつける。
そして、実際にこれを意識しながら歩けばどうなるでしょうか。今まで自然にできていたことが何処か不自然になり、歩きにくさを感じることでしょう。これはわたし達にとって歩くという動作をごく当たり前に行ってきましたが、ここでその動作を分解することにより、動作を行う際の留意点が多く存在することに気づき意識しました。すると今まで流れとして見えていたものが、個々として見え、かえってその動作を困難にしてしまったのです。
話を作品に戻すと、このヨーロッパ人の著者にも同じことが言えます。恐らく彼の国ではキリスト教が生活と密着しており、だからこそ個々としてみることが中々出来ず、その価値を見出すことが出来なかったのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿