著者は自身が唖の象徴と考える鴎を、自身の中に感じることがあると言うのです。というのも、この頃著者は一人唖になりながら、「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろう か。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。」と言うことを延々と考えています。一体彼は何故その様なことを考えているのでしょうか。何故唖の鴎になっているのでしょうか。
この作品では、〈作家の苦悩〉というものが描かれています。
著者は文学を通して何かやりたいことがある様子ではありますが、今まで自身が満足の出来ることを何一つ出来ていません。ただ「イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ハラ、」と無常にも時間だけが流れていきます。何か一物はある筈なのだが何も出来ていないことから、ゆらゆらと漂う群集と同じではないのかと考えているのです。そして、唖の鴎はそんな著者の自身の無さの表れなのです。自分に自身が持てないために決定的な言葉を誰かに伝えることが出来ず、ただ唖になって黙っているしかないのです。
ですが、そんな著者の心を救っているものが、秋の青空を映す水たまりの存在です。彼はそこに「秋 の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている」様を見て、ただそこにあるだけでも変化していることを感じ、その事実に救われています。そうしてその水たまりの様は著者に「待つ」という表現を与えているのです。彼はこう考えています。こうして悶々と考えている間にも万物は変化している、だからこそやがて自分にもその変化は訪れるはずである、と。彼に出来ることはただ思い悩みながらも、ただその変化を待つしかないのです。
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