ある婦人雑誌の面接室ででっぷり肥った四十前後の主筆と、主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇する容姿をもつ堀川保吉は次回雑誌に載せる恋愛小説について打ち合わせをしています。ですか、互いの小説観には何か決定的な違いがある様子。それは一体なんなのでしょうか。
この作品では、〈小説とはどういうものか〉ということが描かれています。
まず、主筆が考える小説における「近代の傑作」とは、読者に受けるか否かにあるようです。事実、彼はこの打ち合わせの際、一番気にしていることは劇的な変化なのです。つまり、どこで三角関係が発生するのか、どこで夫への愛情裏切り、第3者である達雄と甘い恋愛にその身を注ぐのか、ということです。確かにこのような非現実的で情熱的なシーンがあることによって、読者は主人公に強く共感し、物語に引き込まれることは間違いありません。主筆にとって小説とは、そのあり方よりも実際売れるのかどうかが重要な問題なのです。
しかし、堀川の考える小説観は、主筆のそれとは全く異なっています。彼は小説の中で、「恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らない」と、恋愛というものを自身の中で一般化し、それを作品の中で表現しようとする姿勢が伺えます。何故なら彼は小説というものは、少なからず読者の認識に影響し、過度に一部を延長させた、非現実的な小説は読者に誤った認識を与えかねないと考えています。ですから、作家である自身が世の中にある諸々を整理しそれを読者に訴えなければいけないことをここで示唆しているのです。
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