著者は昔からのろくさいことが嫌いで、子供の時、無知な魯鈍の女中、お慶をよく虐めていました。そんな彼女も今では幸福で子供も何人かいることを、彼はたまたま出くわしたお巡り(お慶の夫)から知らされます。そして、そのお巡りはなんと彼女を連れて今度著者のもとへ挨拶に来るというではありませんか。ですが家を追われ、その日を生きることが精一杯の著者は、この言葉を果たしてどう感じたのでしょうか。
この作品では、〈他人は自分の鏡である〉ということが描かれています。
まず著者は、お慶が幸せに暮らしており、今度自分を訪ねてくることを知ったとき「言い知れぬ屈辱感に身悶え」しました。最も彼がこう感じることは無理もありません。あれ程自分が馬鹿にしていたお慶が立派に奥さんをしており、極貧な生活をしている彼の前に表れるかもしれないのですから。そして、お慶が子供と旦那を連れてきた姿を見たとき、著者は完全に負けを認めるのでした。と、同時に彼は「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」と彼らの勝利から自分の未来の栄光の姿を見ている様子。恐らく彼は自分が虐めていた頃のお慶と現在の自分の境遇を重ね、お慶が現在このようになったことをもとに自分も同じようにいずれかは彼女のようにと考えているのでしょう。まさに著者は彼女を未来の自分の鏡にしているのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿