2010年12月27日月曜日

貨幣―太宰治(修正版)


 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく他人を助けようとしたある女の姿〉が描かれています。
 まず、上記にもあるようにこれまでこの貨幣が出会ってきた人間というものは、自分の利益だけを考え、他人を欺き罵ってきたものたちばかりでした。そして、彼らの利益を生む手段として彼女は使われてきました。
 ですが、そんな彼女も一度は人間の美しい部分に魅せられたことがありました。それは、ある陸軍大尉の懐に巡ってきたときの話です。その大意というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女とその赤ちゃんを罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。そして酔いから覚めたこの陸軍大尉は全てを知り、自分を恥じらい、また彼女への感謝を感じ、貨幣を赤ちゃんの一ばん下の 肌着のその下の地肌の背中に押し込んで、荒々しく走って逃げて行ったのです。この時、貨幣は今まで人間の自己の利益のためにのみ使われてきましたが、この時、全く別の、他人のために使われたということになります。そしてその背景には、お酌の女がどうしようもない陸軍大尉を懸命に助けようとした事実があることを忘れてはなりません。彼女というのは、これまで貨幣が出会ってきた人間とは一線を画しており、自分の利害に関係なくこの大尉を助けました。その行動が大尉の心を動かし、貨幣が彼女に与えられたのです。

1 件のコメント:

  1. 余談:大切な読者の一人から「何故貨幣は女性であるのか」という指摘を受けたので、余談ではありますが、ここに載せさせて頂きます。まず、著者は冒頭で、「国語においては、名詞にそれぞれ男女の性別あり。」と述べています。彼は、フランスやドイツの男性名詞や女性名詞に着眼し、そして貨幣にも性別は存在するはずであると考えたと察することができます。確かにフランス語で貨幣はmonnaieと女性名詞、ドイツ語ではMunzeと女性名詞になっています。
    また作中を読んでいく中でも、女性でなければならなかった理由というものが存在するはずです。例えば、お酌の女性の女性が懸命に陸軍大尉を助けるシーンがありましたが、その場面において貨幣が男性だったならばどうだったでしょうか。女性の場合だとその姿に心打たれていましたが、男性の場合同じ印象を持ったでしょうか。男性の場合だと、その彼女の行動の素晴らしさよりも、「何故」という疑問が先に立ってしまうのではないでしょうか。というのも、例えばこれは私個人の経験ですが、人が武道をする姿を見たとき、男性の場合、その原理等に興味を持ちますが、女性の場合その動きに魅せられることが多いようです。従って人がものを見るとき、男性は原理を、女性は表面的な形に目を奪われることがあると言えるでしょう。ですからこの場合も、貨幣が男性であるなら、このお酌の女の行動よりも、その内面に着眼するので、やはり貨幣は女性である必要があったのです。

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