2010年11月27日土曜日

駆け込み訴え―太宰治

 この作品では、新約聖書に登場するイスカリオテのユダがキリストを裏切る際のエピソードを誇張し綴っています。もともと彼は裏切る直前までキリストをこよなく愛していました。しかし、キリストの度重なる言動、行動が彼を失望させ、悲しみ、やがて裏切ることとなるのです。一体ユダはキリストの何処を愛し、何に憎しみを抱いていたのでしょうか。
 この作品では、〈自分を押し付けるとはどういうことか〉ということが描かれています。
 この作品に登場するユダはキリストに対して、「私はあの人を、美しい人だと思っている。」とある種の像を持っています。この像と現実のキリストがユダの中で一致している時は、彼はキリストを愛することが出来ました。
ですが、キリストが一旦この像と著しくかけ離れた行動を取ると、ユダはキリストを恥辱である、体たらく、憐憫であると非難するのです。例えばキリストの全身に香油をかけ、そしてその香油で彼の足を洗っていたマリヤをユダが叱っていたところ、キリストが「この女を叱ってはいけない。」とそれを制する場面。この時、ユダはキリストの少し赤らめた頬を見て、「あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。取りかえしの出来ぬ大醜聞。」と、あたかもキリストが彼女を愛するはずがないと言わんばかりにその愛情の兆しを強く否定し、非難しているのです。
このようにユダはキリストを自身の像を基に彼への愛情を図っていたことから、キリストの像を愛していたということが言えるのです。またこの像というものは、彼の中で育まれていたことから正確には彼自身を愛していたと言っても過言ではないでしょう。だからこそ、最後の晩餐のシーンでユダの像を著しくかけ離れ、彼を強く非難しているキリストに対し、ユダは彼に裏切られた心持になり、自身を「復讐の鬼」と表現しているのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿