「私」が十一の頃、「私」の家の近所の寺に、焼和尚という渾名のお坊さんが住んでおり、彼は女と絵画や彫刻や陶器類が好きで、彫り物師とか画家とかいえば、どんな身窄らしい姿をした、乞食のような漂泊の者でも、幾日でも泊めてやりました。その代償として、焼和尚は彼らに自分の為に作品をつくらせていました。
そんな彼のもとに、ある時一人の見窄らしい老人がやってきます。そしてやはり、焼和尚はこれまでの人々と同じように、この老人にも寺に泊める代わりに、何か作品をつくらせようとします。ところがこの老人は絵が描かけるのにも拘らず、それを拒んでしまいます。そこで、和尚は彼に煙草や卵を与えず、一人だけ楽しみます。ですが、それでも老人は彼の為に絵を描くことはありません。一体彼は何故絵を描かなかったのでしょうか。
この作品では、〈義理と人情を重視した、ある老人と違いの利害を重視したある和尚の対立〉が描かれています。
まず、老人は何も一切絵を描かなかった訳ではありません。事実彼は幼かった頃の「私」が天神様の絵を欲しがると、「気が向いたら描いてやる。」と一応の約束をしています。では、この「気が向いたら」という言葉には、一体どのような意味が含まれているのでしょうか。その後、「私」は老人に絵を描いて貰いたい一心で、彼が欲しがっていた煙草や卵を次々と持って来ました。そして、ある日老人は「私」に対しての感謝を表すかのように、彼が欲しがっていた天神様の絵を送ったのでした。そう、まさに老人の「気が向いたら」という言葉の中には、こうした彼への恩や感謝を感じることができたらなら、等の意味が含まれていたのです。
そしてこの物語では、こうした老人の義理や人情によって、他人に何かを与えるやり方に対して、対照的に何かを他人に与えている人物が存在します。それこそが焼和尚その人です。和尚が感謝や恩の為に何かを与えているのであれば、彼は互いの利害関係を追求したやり方を採用し、はじめから相手に何かしてもらうことを期待していました。だからこそ、和尚は互いの利害を確認しあい尚且つ、相手が自分に何かを与えない限り、相手の望むものを出さなかったのです。
また、この和尚と老人は火と油の関係にあり、彼らは作品の中で幾度となく衝突を繰り返します。そしてこうした彼らの対比こそが、作品を滑稽に見せ、それ自体に面白みを持たせているのです。
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