ある時、ライン河に沿ってある道を、河の方へ向いて歩いている7人の男がいました。彼らはみな、話もせず、笑い声もあげず、青い目で空をあおぐような事もせず、ただ鈍い、悲しげな、黒い一団をなして歩いていました。彼らはどれも職がなく、途方にくれておりふらふらと彷徨っているに過ぎません。その為、彼らは誰に構うこともなく、ただ自分の事だけを考えています。その中の最後尾に、不揃な足取で、そのくせ果敢の行かない歩き方で歩く、老人の姿があります。彼も又、職を失い、自分だけの事だけを考えており、どうにかして、リングの方にいる女きょうだいのところ迄行く汽車賃を稼ごうと考えていました。ですが、この思いが強すぎた為に、彼は後に自分で自分の財産を手放す事になるのです。
この作品では、〈自分の思いが強すぎた為に、かえって自分を犠牲にしなければならなかった、ある老人〉が描かれています。
まず、どうしても汽車賃が欲しい老人は、人々の幸せそうな声のする家々に目をやり、ある一件の家の前で足を止めます。彼はその時、物乞いするか否かを考えていたのです。ですが、結局彼は自身が物乞いして断られた時の姿を想像し、行動に移すことができませんでした。
そんな彼は、その後すぐ、あるひょんな事から黒い一団のある青年から、「おじさん。聞いておくれ。おいらはもう二日このかたなんにも食わないのだ。」と、逆に物乞いされる立場に立ったのです。その時彼は、一度は他の一団と同様、彼を避けようとする気持ちを持つも、彼が涙ながらに訴える姿を見て、こう思い返すのです。
「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦しいのと同じ事ではあるまいか。あれも泣いているのではないか。折角己に打明けたのに、己がどうもせず に、あいつを突き放して、この場が立ち退かれようか。己が人の家へ立寄りにくかったのは、もしこっちで打明けた時、向うが冷淡な事をしはすまいかと恐れた のではないか。今こいつが己に打明けたのに己が冷淡な事をして好いだろうか。ええ、なんだって己は、まだぼんやり立っていて、どうのこうのと思案をしてい るのだろう。まあ、己はなんというけちな野郎だろう。」
彼は先程、想像した自分を、目の前の青年に重ねて考えているのです。そうして、彼は自分が断れた時の苦しさを思うが故に、この青年を拒めなくなっていったのです。そして、こうした現象は私たちの身の回りでも、しばしば見受けられます。例えば、子供の頃、いじめられていた人物が大人になって教師になり、いじめている側の親を敵にまわしてでも、いじめられている子供の相談に乗る場合や、仕事で先輩にひどく怒られていた人物が、やがて後輩を指導する立場になった時、先輩に反抗してでも、後輩の立場にたって手とり足とり指導する場合などは、これと同じ構造を持っています。彼らは自分のそのときどきの気持の重さを知っているからこそ、他人が同じ立場にたった時、自分の身を挺してでも守ろうとするのです。
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