2011年11月1日火曜日

恩讐の彼方にー菊池寛

 主人の寵妾と非道な恋をして、その怒りを買った市九郎。しかし、彼は自身の生の執着から自身の主人を殺してしまいます。そして、罪人となった市九郎とその妾、お弓は人目を忍んで、その後も数々の悪行を行い、遂にはそれを正当な稼業とさえ心得るようになっていきました。
ですが、そんな市九郎にも転機が訪れます。それは彼が主人を殺してから、三年目になる春の頃でした。彼はある夫婦を殺したことをきっかけに、その罪の重さから、良心の呵責にとらわれることになります。ですが、そんな彼の心を全く知らないお弓は、なんと死人から頭の飾りものを盗ってくることを忘れた彼に対して、怒りを顕にして叱責したのです。この彼女の浅ましい態度から、市九郎はお弓のもとから離れ、美濃国の大垣在の浄願寺に駆け込みました。そこから彼は、自分のこれまでと、これからの人生に向き合っていくことになるのです。

この作品では、〈夢をもった為に、自分の人生と自分自身を大きく変えていったある男〉が描かれています。

私達にとって夢とはどのようなものでしょうか。やりたいこと、叶えたいこと、誰かになること。人によってそのあり方は様々ですが、この作品では、その定義と生成が明確に描かれているので、そこを軸に作品を見ていき、上記を論証していくことにしましょう。

まず、夢とはどの様にして生成されていくものなのでしょうか。
主人公である市九郎は自身の私欲がきっかけで、主人の怒りを買ってしまい、更にはその主人も、自分の手によって始末してしまいます。そこから彼は妾のお弓と共に人目を忍び、「ただ生きる為」に彼女の言いなりになり、罪を犯していくことになります。ですが、はじめは主人を殺したこと、また罪なき人々からものを奪い、殺すことに罪悪がなかった訳ではありません。ですが、悪事を重ねていくうちに、次第にそういった心も忘れ、遂にはそれに対する面白さまでも感じるようになっていきました。
ですが、ある夫婦を殺したことをきっかけに市九郎はお弓と決別し、浄願寺へと駆け込みました。彼はそこではじめて自分の罪と向き合い、自首し自らの死を考えはじめます。しかし、そこの上人の「道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ」という言葉をきっかけに、彼は「罪を償う為に生きる」ことを決心し、諸国雲水の旅に出たのでした。その道中、彼は多くの者を殺した自分が今尚生きているという苦しみのため、人助けをしている中、次第に「自分の罪を償う為に、より多くの人を助けるにはどうすれば良いのか」という問題意識を持つようになっていきます。
そんな中、市九郎は山国谷第一の切所で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀する鎖渡しというところがあり、そこで命を落とした旅人と出会います。そして彼は後に、旅人が命を落とした、絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道と、それがある荒削りされた山を見て、「多くの人々の命を救うため、人々が鎖渡しをしないでいいよう、穴を掘る」ことを心に決めるのでした。
上記のこうした流れのように、市九郎はただなんとなく生きていくことから、自分の罪をきっかけにこれまでの人生を考え向き合い、やがては問題意識をもって、生きる目的(夢)を育んでいったのです。またこうした過程のターニングポイントには、必ずお弓や上人の存在があることも忘れてはなりません。まさに夢とは、これまで自分が生きてきたその中に素材があり、またその素材は他者との交流を通じて大きく育まれていったのです。

次に夢とは、自分にとってどのような位置づけであるべきかを見ていきましょう。それに際して、この作品では、人々の命を救うため穴を掘った市九郎と父の無念を晴らす為、仇討ちを願う実之助という2人の夢を持った人物が登場しますが、彼らを比較することによってこの問題に答えることにしましょう。
私達は、働く為に働いている訳ではなく、お金を稼ぐために働いています。また、車に乗るためにに車に乗っているのではなく、何処かへ向かう為に車に乗っているのです。これらのことはごく当たり前のことであり、人間が何かを行う時、必ず、手段と目的があると言えます。ですが、未妙なことに私達が夢を考える際、小説家になることが夢だ、或いは医者になることが夢である、とだけ考える人々がしばしなおられます。これらのことは手段であり、目的ではありません。そしてこう述べる多くの人々は、大抵の場合、手段が目的になっているのです。この作品に登場する主人の息子である、実之助もその一人です。彼にとって、市九郎を殺し復讐を果たすことが全てであり、その手段こそが目的だったのです。一方の市九郎はどうでしょうか。彼にとって、穴を掘り道を築くことは単なる手段でしかありません。彼の目的とは、その手段を通じて人々を救うことにあります。
では、彼ら2人のこの違いには一体どのような違いが具体的には潜んでいるのでしょうか。まず、復讐が目的である実之助ですが、彼は約10年間、市九郎を追って古今東西を歩き回っていましたが、その道中の険しさから、復讐を諦めようとすることもたびたびありました。彼にとって、復讐とは人生のほんの一部の出来事に過ぎません。ですから、彼にとって復讐とは、その繋がりの薄さからいつでもやめることができるものだったのです。
ですが、市九郎はどうだったでしょうか。彼にとって、罪を償うと決めたその日から、人を救うという夢は人生そのものであり、彼の生き方を決定づけるものでもありました。ですから彼の夢というものは、人生全体が生活全体がその範囲であり、彼が生きている限りはそれをやめることはできません。事実、彼が穴を掘っている最中、手伝ってくれる者もはじめは全くおらず、寧ろ彼をあざ笑う者すらいました。誰もが彼の存在を忘れている時期もありました。しかし、彼はいかなる状況でも、穴を掘り人々を救うことを諦めることはありませんでした。まさに、こうした彼の強さは、夢と人生とが深く繋がっているからきているのに他ならないのです。

そして、これらの事を踏まえた上で、市九郎はどのような人物に成長を遂げたのでしょうか。夢をもつ以前の彼は、私利私欲の為に人々を殺し、ものを盗み、例えそれが悪い事と分かっていても、否定できない弱い男でした。ですが、自分の弱さを認め、人生の目的と向き合う中で、彼は他人の為に何かできる行動力と何者にも屈しない強い心をもった人間へと成長したのです。
夢とは、人生の目的であり、自分自身の軸であり、自分をつくっていくものなのです。

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