東京の或る大学の文科に籍を置いている小説家志望の「私」の友人、佐野は、ある時、旅行から帰ってくると、結婚したい相手がいることを彼女に告白します。そしてその事情を聞くと、彼は趣味の釣りを楽しんでいたところ、偶然にも綺麗な令嬢に出会い、親しくなっていきます。
それから4日後、佐野は再びその令嬢との再開を果たします。その時、彼女の傍らには甥っ子が出征した、田舎者の老人の姿がありました。彼女は、この老人が甥っ子がいなくなったことで淋しくしていたので、力になろうと親身になってお花を買ってあげたり、旗を持って送ってあげたりしているところだったのです。このような令嬢の優しく、美しい姿に佐野は惹かれ、やがて結婚したいと思うよになっていったのでした。
ですが、これを聞いていた「私」は閉口し、佐野が思ってもいなかった彼女の正体を口にします。一体、彼女は何者だったのでしょうか。
この作品では、〈一方ではその行為からある人物を認めながらも、もう一方ではその職業からその人物を認めることができない、ある友人〉が描かれています。
まず、令嬢の正体とは、なんと娼婦であり、老人は彼女のお客でした。そして彼女が老人にしてあげた事は、恐らくその仕事以上のものであり、本当に老人を思っての行動だったのでしょう。そうでなければ、彼のために花を買い、旗を振るなどという行動をおこすわけがありません。この令嬢の行動そのものは、「私」も認めており、「よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ」とさえ感じいます。ですが、その一方で、「嗚呼、やはり私は俗人なのかも知れぬ」と、彼女が娼婦であることに拘り、素直に友人に彼女との結婚を薦めれない、否、それどころか断固反対する姿勢まで見せています。
では、一体「私」はどうして令嬢の職業にそこまで拘らなくてはならなかったのでしょうか。例えば、ある介護士は一人の利用者の居室を週に一回、掃除することになっており、次第に自分の部屋も週に一度掃除するようになりました。また、ある営業マンは、月云百万の契約を取り扱うようになったところ、次第に云万円を扱う賭け麻雀にはまっていきました。これらの現象はある職業の性質に引っ張られた結果、よくも悪くも起こっているのです。人はその職業に就き仕事をしていくに連れて、本人が望む望まざるに限らず、少なからずその性質に引っ張られる傾向があります。介護士ならば、他人の便や尿を扱うことによって、次第に普通の人々より汚物を扱うことに慣れていき、営業で大きな契約を次々とこなす営業マンであれば、大金を動かすことに慣れていってしまうのです。また事実、こういった現象は、私達は意識的にしろ、無意識的にしろ認めている節があります。よく、男性が自分の理想の女性の職業を挙げている時、看護師や介護士を挙げる人々がいますが、あれも多少の誤解はあるにせよ、その職業の特性を認めるからこそ、そうした職業の名前が出てくるのではないでしょうか。何故なら、そう答える人々はよくそうした職業を挙げる理由について「優しそうだから」といいますが、これは自分よりも立場の弱い老人や患者に対して献身的に世話をしなければならないという性質を見て、そう答えているのですから。
そして物語の「私」が、令嬢の職業に拘る理由も、こういったところにあるのではないでしょう。「私」は、令嬢の職業である娼婦というものの性質が、彼女に何か良からぬ影響を与えているはずだと考えているからこそ、結婚に反対しなければならなかったのです。
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