2011年12月2日金曜日

マリ・デルーアントン・チェーホフ

オペラの歌姫のナターリヤ・アンドレーエヴナ・ブローニナは、ある時自分の小さな娘のことを思い浮かべながら寝室で横になっていると、突然玄関で急に粗々しいベルの音を耳します。それは彼の夫である、デニース・ペトローヴィチ・ニキーチン(マリ・デル)のものでした。そして彼はナターリヤの寝室を抜き足で歩いたかと思うと、彼女に空中楼閣のような、金儲けの話を聞かせるのでした。これには彼女もうんざりして、彼を煙たがり、そこから出ていくよう促します。ですが、それでもマリ・デルは話をやめようとはせず、「お前にあ分らないが、僕の言うことあ本当なんだ」となかなか話をやめようとはしません。一体、彼のこの根拠のない自信はどこからきているのでしょうか。
この作品では、〈現実を無視して、理想の自分だけを見ているある男〉が描かれています。
まず、私達は多かれ少なかれ、現実に存在する現在の私達と、自分の頭の中に存在する理想の私達の間に挟まり、後者に近づくよう努力しています。そうして私達は時には、少し近づき嬉しくなり、また時には自分の実力の無さから、理想が遠いものに感じ落胆するものなのです。
ですが、物語に登場するマリ・デルという男はどうでしょうか。少なくとも読者である私達の目には、彼はこうした葛藤とは無縁であり、根拠ない自信を振りかざし周りに迷惑を欠けている不潔な人間としてうつることでしょう。それもそのはず、彼ははじめから現実を見ていないのです。単に彼はそれを無視して、頭の中の理想の自分に酔っているに過ぎません。だからこそ彼は、ナターリヤにいくら「まあ有難い! さ、さっさと出て行って頂戴! さばさばしちまうわ。」等と煙たがられようと、暫くすると、ケロッとしていられるのです。マリ・デルの頭の中では、彼女はお金が絡まない限り、自分の事を愛していると思っているのですから。
ところで、彼の事を散々ひどく軽蔑してきた私達ですが、実は私たちの中にも、一時的ではありますが、こうした現実を無視して、理想の自分に酔ってしまうという現象はしばしば起こることがあります。例えば、あなたがカラオケで、好きなアーティストの唄を歌っている時、例えばあなたがクラブで気持ちよく踊っている時、あなたはそうしたアーテイストや一流のダンサーになったような心持ちで歌ったり踊ったりしたことはないでしょうか。確かに物語の中のマリ・デルは、こうした性質が出すぎたために、こうした不潔な人物になっているわけですが、こうした性質が私たちの中にも備わっていることも忘れてはいけません。

0 件のコメント:

コメントを投稿