それは「僕」が社の用で馴染みの店、Yに行った時の話です。そこで彼は昔よく飲みに行ったUの女中、お徳と再会を果たします。彼女はかつて、「僕」の友人である志村に岡惚れされていました。しかし、どうやら彼女はその志村の思いを拒み、今では芸者としてYで働いている様子。ですが、志村は彼女が芸者をしていることなど、知る由もありません。そんな志村を哀れに思った「僕」は、彼女の事を「これは私の親友に臂を食わせた女です。」と避難します。これには彼女も承知せず、「志村さんが私にお惚れになったって、私の方でも惚れなければならないと云う義務はござんすまい。」と反論をします。そして、「それがそうでなかったら、」と今度は逆に自分の思いの丈を彼にぶつけはじめます。さて、この彼女の思いの丈とは、一体どのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈真実を言いたいけれど言いたくない、ある女性の悩み〉が描かれています。
まず、上記にある彼女の思いの丈とは、なんと外国の俳優に恋をしてしまい、彼の活動写真を見るために奮闘するも、その思いが届くことはないと写真を見る度に実感するという様な内容のものでした。
ですが、この彼女の浅い恋愛観は、「僕」の下記にある一言によってそれは一転し、深いものへとなっていきます。
「だが、ヒステリイにしても、いやに真剣な所があったっけ。事によると、写真に惚れたと云うのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。」
この一文によって彼女の恋愛というものは、自分から叶わない恋をしている、愚かしいものから、なんらかの事情でその恋心を打ち明ける事が出来なかった、儚いものへと変化していきます。すると、一連の活動写真の話は、まるでお徳にとってその相手は、スクリーンに映し出されている俳優のように、目には見えており、手に届きそうな位置にいるにも拘らず、決して届かない大きな隔たりがあるような存在だったという比喩だったことになります。
ですが、彼女は何故このような比喩をわざわざ用いて、「僕」へその思いを伝えたのでしょうか。例えば、あなたが子供の頃、何か悪いことをした時、悪いことをしたのは分かっているが、怒られて傷つけられたくない時、どのような行動にでたでしょうか。「お母さん、もしも」と自分がもうしてしまったことに対して、あたかもそれがなかったもののように話してしまったという経験はないでしょうか。
私達は基本的に、自分のことを他人に知ってもらいたという欲求が心の何処かでは存在しています。ですが、それを伝えたことによって自分を傷つけられることは、当然嫌悪するに決まっています。ですから、子供の頃、私たちはそういった矛盾を解消すべく、「もしも」の話をして両親の反応を伺う必要があったのです。そして、この作品に登場するお徳にも同じことが言えます。彼女はこうした心の矛盾が複雑に現れているため、わざわざ映画の話を比喩として持ち出し、できるだけ相手に分からないように、それでいながら自分の気持ちを伝える必要があったのです。だからこそ、私たちはお徳の気持ちを「僕」の一言を読んで再度整理しなおした時、彼女に同情の余地があったのではないかと思い返すのです。
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