著者は彼の友人である、平野謙氏が彼の妻に肉をえぐられる程の深傷を負わせられたことをきっかけに、良き妻というものを考えはじめます。というのも、この平野氏は自身の妻に傷つけられたにも拘らず、なんと包帯を巻いて満足しているというのです。そして、著者はそんな友人の姿をみて「偉大!かくあるべし」と評しています。さて、一体著者は一体、包帯を巻いて満足しているような友人のどういうところを褒めているのでしょうか。
この作品では、〈日本の女性が良き妻となった為に、かえって女性としての魅力を感じなくなっていった日本の男性〉が描かれています。
まず、著者の平野氏に対する評価の所以は、極端ながらも夫に逆らって自分の個性を見せた彼の妻に満足している、というところにあります。そして、著者はまた、そういった女性は夫に対して良き妻である、とも述べています。ですが、そもそも彼らが生きた時代の一般的な良き妻とは、「姑に仕へ、子を育て、主として、男の親に孝に、わが子に忠に、亭主そのものへの愛情に就てはハレモノにさはるやう」な女性を指していました。しかし、そういった、所謂自分にとって都合のいい女性はかえって魅力を失っていると彼は指摘をしているのです。一体これはどういうことでしょうか。
例えば、考えてみてください。私達はよく日常的にコンビニやレストランで買い物をしたり、食事を楽しんだりしますが、その中で度々そこの店員さんと話す機会がありますね。その中で私たちは一体どういった店員さんに好感をもつでしょうか。多くの場合、ただ、店員として機械的に働き仕事を完璧にこなし、しかしながら流れ作業の様に私たち客をさばく店員よりも、仕事を自分のペースでしっかりとこなし、私達一人一人に笑顔を向け、時には話しかけ世間話をしてくれる、そのような店員の方に魅力を感じるはずです。ここから、私達はただ、仕事や立場などその人としての役割を果たしている人物よりも、そこに個性をも兼ね備えている人物の方に魅力を感じるということが理解できます。
そして、妻の場合もこれと同様の事が言えます。つまり、単に妻として完璧にその立場を演じている人物よりも、自分というものをしっかりともった、個性のある女性の方が魅力的なのです。
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