2010年12月28日火曜日

散歩道―ピエール・オーギュスト・ルノワール


この作品では、少女の服に色を起用し他を暗くすることで彼女の存在感を引き立たせています。また奥の道を暗く、手前の道を明るくすることで絵の中の光の加減を表現しているのです。

2010年12月27日月曜日

貨幣―太宰治(修正版)


 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく他人を助けようとしたある女の姿〉が描かれています。
 まず、上記にもあるようにこれまでこの貨幣が出会ってきた人間というものは、自分の利益だけを考え、他人を欺き罵ってきたものたちばかりでした。そして、彼らの利益を生む手段として彼女は使われてきました。
 ですが、そんな彼女も一度は人間の美しい部分に魅せられたことがありました。それは、ある陸軍大尉の懐に巡ってきたときの話です。その大意というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女とその赤ちゃんを罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。そして酔いから覚めたこの陸軍大尉は全てを知り、自分を恥じらい、また彼女への感謝を感じ、貨幣を赤ちゃんの一ばん下の 肌着のその下の地肌の背中に押し込んで、荒々しく走って逃げて行ったのです。この時、貨幣は今まで人間の自己の利益のためにのみ使われてきましたが、この時、全く別の、他人のために使われたということになります。そしてその背景には、お酌の女がどうしようもない陸軍大尉を懸命に助けようとした事実があることを忘れてはなりません。彼女というのは、これまで貨幣が出会ってきた人間とは一線を画しており、自分の利害に関係なくこの大尉を助けました。その行動が大尉の心を動かし、貨幣が彼女に与えられたのです。

2010年12月25日土曜日

女類―太宰治


戦争が終結し、東京で雑誌関係の仕事をしている伊藤は、行きつけの屋台、「トヨ公」のおかみに惚れられ、ねんごろになっていきます。そんなある時、彼の郷里の先輩、笠井氏がたまたま「トヨ公」にやってきます。そしてやってきたかと思うと、「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」といきなり伊藤を怒鳴ってきたのです。どうやら彼は伊藤が女性と親しくしていることが気に入らず、その行為自体が「地獄行きを志望」しているというのです。一体どういう事なのでしょうか。
この作品では、〈過度の一般化とは何か〉ということが描かれています。
まず、伊藤とトヨ子の関係について強く否定している笠井という人物は、どのような論理構造を持ち、伊藤を説得しているのでしょうか。伊藤を説得するに当たって彼は「僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。」と、自身は彼女のことを何も知らず、彼女について論じる資格もなく、その気もないことを断っています。その上で、「僕はね、人類、猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない。 全然、種属がちがうのだ。からだがちがっているのと同様に、その思考の方法も、会話の意味も、匂い、音、風景などに対する反応の仕方も、まるっきり違って いるのだ。」と、女性の一般論を述べようとしています。その中で彼は、女性というものは男性とは肉体の構造は勿論、価値観、考え方にも違いがあり、相容れない存在なのだと述べています。しかし、果たして本当にそうでしょうか。もし仮にそうだとすれば、男性と女性が人類の長い歴史の中でここまで共存することはできたでしょうか。勿論答えは否です。そもそも笠井の論理性というものは、自身がかつての愛人にみっともない形でそむかれた結論だけを延長させ、男性と女性は相容れない存在なのだと論じているに過ぎません。確かに彼らは自分達の気持ちが互いに通じ合っていなかったため、別れるしかなかったのでしょうが、彼の失敗というものはそれを全体に押し広げたところにあります。これを「過度の一般化」と言います。そして彼はこの理論を主張し伊藤とトヨ子にまでも押し広げたために、結果的に彼女を死に至らしめることになってしまったのです。

2010年12月23日木曜日

巨男の話―新見南吉(修正版)

 ある大変遠くの森の中に、巨男とその母親の恐ろしい魔女が住んでいました。ある月夜のこと、そんな彼らの家に二人の女と一人の少女がやってきました。彼 女たちは王女とその侍女で、森に遊びに来たところ迷ってしまったので、一晩泊めて欲しいというのです。魔女はやさしく彼女たちを受け入れました。ところ が、巨男が目を覚ますと三人は魔女によって黒と白の三羽の鳥に変えられてしまったのです。やがて彼女たちは何処かへ飛び立っていきましたが、どうしてだか 白い王女様鳥だけが魔女の家に戻ってきました。巨男は不憫に思い、彼女をこっそりと飼ってやることにしました。
 そうして時が経ち、魔女もやがて老いていきます。それにつれて彼女自身の魔法を息子に徐々に教えていき、そして白い鳥を不憫に思うやさしい巨男はある時、王女を元に戻す方法を知ることになるのです。果たして王女は元の姿に戻れるでしょうか。
 この作品では、〈巨男と王女のすれ違い〉が描かれています。
 まず、巨男は日頃から王女を哀れに思い、どうすれば王女を元に戻せるのかを考えていました。彼は、王女が元の姿に戻ることこそが彼女の幸せなのだと考えていたのです。
そしてある日、彼は死に際の魔女から「その鳥獣が、涙を流せば、もとの姿にかえるよ……」と王女を元に戻す方法を知ることになります。そこから彼の奮闘は始まります。彼は自身がどのような理不尽な目にあおうとも、常に彼女を元の姿に戻すことだけを考え、行動していました。ですが、王女はそのようなことを考えていたでしょうか。彼女は巨男が自身に涙を流すために死んだ際、こう述べています。「私は、いつまでも白鳥でいて、巨男の背中にとまっていたかったわ。」そう、彼女の幸せというものは常に巨男と共にあったのです。決して自分が元に戻るというところにはありませんでした。それにも拘らず、巨男は彼女の幸せは自分が考えているそれと信じ、命まで捧げてしまったのです。そうして王女の幸せは永遠に失くしてしまいました。まさに巨男の思い込みが、すれ違いを生み、このような悲劇的な結末になってしまったのです。



芸術ぎらい―太宰治(修正版)

 この作品の中で著者は、ものごとを創作する上で、「生きる事は、 芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。」と芸術的という観念を嫌っている様子。それよりもむしろものごとに対して「正確を期する事」を重視することをすすめています。さて、彼は何故このように考えているのでしょう。
 この作品では、〈芸術とは何か〉ということが描かれています。
 ここでの著者の最大の主張は、芸術は芸術的であってはならないということ、正確を期することが重要だと述べています。つまりこれらのことを踏まえたものが、芸術であり、そうでないものが芸術ではないということになります。真理は一定の条件の中でのみ、心理であり、それを離れると誤謬になってしまいます。芸術的な表現を用いることを考え、正確さを失った作品は、既に芸術ではなかったのです。

2010年12月19日日曜日

イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢―ピエール・オーギュスト・ルノワール

この作品の特徴は、一本一本丁寧に筆を入れることにより自然の材質を見事に表現しているところにあります。中でも少女の髪の毛は手を伸ばすとフサフサとその質感が伝わってくるようです。また、少女の顔の周りに暗い色を取り入れ、顔に明るい色をいれることにより、顔とその美しさが強調されています。また肌の部分は全体的に丸みを帯びており、女性らしい丸みを表現しています。

おしゃれ童子―太宰治(修正版)

少年はたいへんお洒落が好きで、自身のシャツの白さが眼にしみていかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしま う程でした。しかし周囲は彼の思惑とは裏腹に、そのセンスに冷笑している様子。そして彼はこの自身のお洒落な性質のために苦労し、やがて落ちぶれていくのです。では果たして少年の考えるお洒落とは、彼にとってどのような位置づけな のでしょうか。
この作品では〈信仰とはなにか〉ということが描かれています。
まず少年のお洒落とは、一体どのようなところにあったのでしょうか。彼のお洒落というものの像は、彼自身の中にはありません。あくまで服そのものに、彼のお洒落を見ているのです。だからこそ彼はそのアイテムが一つでも欠けると納得がいかず、町中を探し、なければやけを起こしてしまうのです。そうして自身の服の像を徐々に見失うと、彼はその熱をも失い、心の暗黒時代に入っていくのです。
これは、キリスト教などの一部の宗教などとよく似た構造を持っています。彼らの神というものは彼らの中にあるにも拘らず、偶像をつくりそこに自身の神を映し出しているのです。そして彼らは神のことばに耳を傾け、ある時は救われ、ある時は翻弄されます。例えば、自身の不始末で火事起こり家が焼けてしまったとしても、神の啓示により「運命」と言えば別の何かのせいになってしまいます。これでは確かに罪悪は消えるかもしれませんが、本質的な問題はいつまで解決されないことでしょう。
そして話を物語に戻すと、この少年にも同じようなことが言えるのです。彼は服というものに自身の人生、存在を見ているようです。ですが、やはりそれらは自身の中にあり、理想の服を着たからといって別の誰かになれず、理想の人生を歩めるはずもありません。だからこそ彼は服に振り回され、落ちぶれてゆくしかなかったのです。

2010年12月18日土曜日

世界的―太宰治(修正版)

 著者はあるヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだのですが、あまり感服できず、どうもこの本を書いた人物は聖書を深く読んでいないのではと考えている様子。そこから彼は、何故この本の著者が聖書を深く読んでいないのかを考えはじめます。そして彼はそこから〈身近にあると、ものの価値がかえってわからない〉という一般性を導きだしました。ですが、これは一体どういうことなのでしょうか。
 例えば、わたし達は普段何気なく行っている「歩く」と言う動作。わたし達はこの動作をひとつの動きとして見ています。ですが、これを分解していくつかの工程に分けてみましょう。すると下記のようになります。

右足を上げる。この時バランスが崩れるので、左足に体重を乗せながら上げる。

十分左足に全体重が乗り安定したら、右足を前へ出す。そして左足に乗っている体重をゆっくりと右足へと持っていく。

右足を前につける。次第に体重が右の足へと徐々にかかってくる。

ある程度体重が右にかかると今度は左足を前に出す。

そして右足に体重をかけたまま左足を右足よりも前に出す。

徐々に右にあった体重を左足に乗せていき、足をつける。

そして、実際にこれを意識しながら歩けばどうなるでしょうか。今まで自然にできていたことが何処か不自然になり、歩きにくさを感じることでしょう。これはわたし達にとって歩くという動作をごく当たり前に行ってきましたが、ここでその動作を分解することにより、動作を行う際の留意点が多く存在することに気づき意識しました。すると今まで流れとして見えていたものが、個々として見え、かえってその動作を困難にしてしまったのです。
 話を作品に戻すと、このヨーロッパ人の著者にも同じことが言えます。恐らく彼の国ではキリスト教が生活と密着しており、だからこそ個々としてみることが中々出来ず、その価値を見出すことが出来なかったのです。

2010年12月16日木曜日

黄金風景―太宰治

 著者は昔からのろくさいことが嫌いで、子供の時、無知な魯鈍の女中、お慶をよく虐めていました。そんな彼女も今では幸福で子供も何人かいることを、彼はたまたま出くわしたお巡り(お慶の夫)から知らされます。そして、そのお巡りはなんと彼女を連れて今度著者のもとへ挨拶に来るというではありませんか。ですが家を追われ、その日を生きることが精一杯の著者は、この言葉を果たしてどう感じたのでしょうか。
 この作品では、〈他人は自分の鏡である〉ということが描かれています。
 まず著者は、お慶が幸せに暮らしており、今度自分を訪ねてくることを知ったとき「言い知れぬ屈辱感に身悶え」しました。最も彼がこう感じることは無理もありません。あれ程自分が馬鹿にしていたお慶が立派に奥さんをしており、極貧な生活をしている彼の前に表れるかもしれないのですから。そして、お慶が子供と旦那を連れてきた姿を見たとき、著者は完全に負けを認めるのでした。と、同時に彼は「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」と彼らの勝利から自分の未来の栄光の姿を見ている様子。恐らく彼は自分が虐めていた頃のお慶と現在の自分の境遇を重ね、お慶が現在このようになったことをもとに自分も同じようにいずれかは彼女のようにと考えているのでしょう。まさに著者は彼女を未来の自分の鏡にしているのです。

2010年12月14日火曜日

春の夜―芥川龍之介

 ある年の春、Nさんはある看護婦会から牛込の野田と云う家へ行くことになりました。その野田の家には、女隠居が一人と気の勝った娘、雪と雪とは対照的に育児のなく病弱な息子、清太郎の3人が住んでいました。
 ある晩、Nさんはこの家から二三町離れた、灯の多い町へ氷を 買いに行ったときのこと、その帰りに誰かに後ろから抱きつかれたのです。彼女は抱きつかれたことにも当然びっくりしましたが、それ以上にその抱きついた者の顔にびっくりしました。一体誰が彼女に抱きついたのでしょうか。
 この作品では、〈私たちがいかに精神的な存在であるか〉ということが描かれています。
 まず、Nさんに抱きついた人物の正体ですが、それはなんと清太郎と姿が瓜二つの不良少年でした。そのため彼女は本当に清太郎が自分に抱きついたのでは、と一瞬考えてしまいます。そして、彼女の心に最後に残ったことは清太郎の顔と、抱きつかれたという事実が残りました。この時、清太郎に恋をしていたNさんは、あたかも不良少年ではなく、清太郎自身に抱かれたように感じたことでしょう。だからこそ「清太郎はそこにいないかも知れない、少くとも死んでいるのではないか?」と、彼女は雪の傍にいる清太郎の存在を疑い、彼の身を案じています。彼女に抱きついたのは確かに不良少年です。ですが、彼女が清太郎に恋をしていること、少年が彼に似ていることがNさんの心を誇張させ、そういった心持を抱かせているのです。

2010年12月12日日曜日

虻のおれいー夢野久作

 今年六つになる可愛いお嬢さんのチエ子さんはある時裏の庭で一人遊んでいると、一匹の虻がサイダーの瓶の中でもがいている姿を目にします。苦しそうにしている虻を、彼女はどうにかして助けてあげようと奮闘します。果たして虻は無事瓶から出ることが出来るのでしょうか。
 この作品では、〈情けは人の為ならず〉ということが描かれています。
 結局、チエ子さんはどうにかして虻を助けることが出来ました。虻は彼女にこう言いました。「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」そしてこの約束は後にちゃんと果たされることになります。
 その数日後、チエ子さんは一人で留守番している時、泥棒が家の中に侵入し、なんと彼女の命を狙おうとします。そこに以前彼女が助けたあの虻が現れ、身を挺してチエ子さんを守り抜きます。そしてその結果、チエ子さんは助かりましたが、虻は泥棒にやられ、その一生を終えてしまいます。ですが、彼は見事彼女への恩をこうして返すことが出来たのです。しかしチエ子さんは自分の為に虻を助けたわけではなく、本心から虻を助けたいと思い、瓶から出してあげたのです。この本心からの行動が虻を感動させ、彼女の為に命を賭したのでしょう。

2010年12月8日水曜日

饗応夫人―太宰治

 お客をもてなす事が好き、というよりもお客に怯えながらも義務的にそうしている節がある未亡人の奥さまは、彼の夫の友人で医者の笹島が彼女の家を訪ねるようになって以来、そのもの静かで上品な生活を奪われていくことになります。この笹島という男は全く遠慮を知らず、彼女の家にいる時でさえ、あたかも自分の家にいるかのように振る舞い、頻繁に彼女の家に通い、自身の友人を勝手に招き、料理にさえ注文をつける始末。ですが、それでもこの奥さまはお客たちを招くことを決してやめようとはしません。一体彼女は何故そのお客たちを拒まないのでしょうか。
 この作品では〈優しさとは何か〉ということが描かれています。
 まず、私たちがこの作品を読むにあたり不思議に思うこととは、あらすじでも触れたように「何故彼女はそこまでしてお客たちの世話をするのか」ということでしょう。彼女はいつも自身よりも、笹島たちお客のことが自分の中で第一にあるのです。それは例え自身が苦しくても、経済的に困難な状況に陥ろうが、そして血を吐こうとも彼女の姿勢は崩れませんでした。しかし、奥さまがそうまでしても俗物のような笹島達の人間がその恩を返すとも考えられるはずもありませんから、私たちがこう考えることも無理もない話なのです。この私たちの素朴な疑問に、奥さまはこう答えています。「ごめんなさいね。私には、出来ないの。みんな不仕合せなお方ばかりなのでしょう? 私の家へ遊びに来るのが、たった一つの楽しみなのでしょう。」つまり彼女は自身も夫を戦争で失っているにも拘らず、笹島たちの不幸を思うと自分は幸せであり、また彼らの唯一の楽しみは自分の家に来て遊ぶことである。それを奪うことは自分にはできない、と言うのです。この彼女の強い意志が最も強く表れている箇所が、切符を破る場面です。奥さまは自身の身を案じ、女中の言葉に従い家を離れることにしたのですが、笹島を前にして彼らのことをもう一度思い返し、その場に留まり、もてなすことを決心したのです。この強い意志を見た女中は、「奥さまの底知れぬ優しさに呆然となると共に、人間というものは、他の動物と何かまるでちがった貴いものを持っているという事を生れてはじめて知らされたような気がし」たと述べています。一般的に動物は自身の身を案じ守りますが、他人の身を自分の命を投げ出して守ることは決してありません。自分よりも他人を先におけるのは人間だけであり、その姿こそ貴いものなのです。

2010年12月7日火曜日

巨男の話―新美南吉

 ある大変遠くの森の中に、巨男とその母親の恐ろしい魔女が住んでいました。ある月夜のこと、そんな彼らの家に二人の女と一人の少女がやってきました。彼女たちは王女とその侍女で、森に遊びに来たところ迷ってしまったので、一晩泊めて欲しいというのです。魔女はやさしく彼女たちを受け入れました。ところが、巨男が目を覚ますと三人は魔女によって黒と白の三羽の鳥に変えられてしまったのです。やがて彼女たちは何処かへ飛び立っていきましたが、どうしてだか白い王女様鳥だけが魔女の家に戻ってきました。巨男は不憫に思い、彼女をこっそりと飼ってやることにしました。
 そうして時が経ち、魔女もやがて老いていきます。それにつれて彼女自身の魔法を息子に徐々に教えていき、そして白い鳥を不憫に思うやさしい巨男はある時、王女を元に戻す方法を知ることになるのです。果たして王女は元の姿に戻れるでしょうか。
 この作品では、〈自分のことも省みず、ただ相手のことだけを案じていた巨男の姿〉が描かれています。
 まず、王女の魔法を解く方法とは、「彼女が涙を流す」ことにあるのです。これを知った巨男は彼女にどうにかして涙を流させるかを常に考えていました。例え、自身がどんなに理不尽な目にあおうとも、どんなに苦しくても巨男は王女を肩に乗せて彼女のことだけを考えていました。この姿こそが私たちに感動を与えるのです。何故なら、自分の命を賭してまで王女を元の姿に戻そうとした彼の心情を私たちは考えずにはいられないはずです。ましてや、現実の世界でこの巨男のように全うに生きている人間にとっては尚更考えてしまうはずです。だからこそ彼の姿は、私たちを感動させるだけでなく、何か一物を抱えて生きている人々を励ましているようにも見えてくるはずなのです。

2010年12月6日月曜日

影のない犯人―坂口安吾

○あらすじ
ある温泉都市で一番大きな別荘を構えている前川家の当主、一作が病気になったことから物語ははじまります。それを聞いて、医者の並 木先生剣術使いの牛久玄斎先生、一刀彫の木彫家で南画家の石川狂六先生の三名はすぐに会議を開き、誰が一作氏に毒をもったのかということについて話しています。果たして毒はもられたのでしょうか。だとすると、誰がもったのでしょうか。

○ キーポイント
この作品では結局犯人は明かされない。
確認の見解はバラバラでまとまりが無い。
引用―要するに、誰が犯人だか、見当がつかないらしい。そして、要するに、誰が犯人でもかまわないよ うな変テコリンに無関心な時世が到来したらしいのである。

○ ポイント
彼らは何故本気で犯人探しをしないのか。
何故無関心なのか。

2010年12月4日土曜日

貨幣―太宰治

 「私」こと七七八五一号の百円紙幣は様々な人々の手から手へと渡っていきました。彼女はその生涯の中で、人間たちが自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をして いるような滑稽で悲惨な図ばかりを見せられてきました。ですが、そんな彼女にも一度や二度、人間の美しい部分に魅せられたことがあると言うのです。それはどういった体験だったのでしょうか。
 この作品では、〈自身の利害に関係なく、他人を必死で助けようとするある人間の姿〉が描かれています。
 それはこの貨幣の彼女がある陸軍大尉の懐に巡ってきた時のことでした。その大尉というのはどうも酒癖が悪いらしく、お酌の女と、なんとその女の赤ちゃんまでも罵る始末。ですが、そんなどうしようもない大尉でも、この女性は空襲の際にはその命を必死に守ろうとしたのです。自身の命が危うい中、ましてさっきまで自分とわが子を罵っていた男をそうまでして守ろうとするその姿に私たちは心をうたれてしまいます。
 この貨幣が見てきたように、世の中の人間の中には自分のことだけを見て、他人ことなんて全く考えていない人々が多くいます。その一方で、このような女性の姿を目にした時、その心の美しさに感動するのです。

鴎―太宰治

 著者は自身が唖の象徴と考える鴎を、自身の中に感じることがあると言うのです。というのも、この頃著者は一人唖になりながら、「私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろう か。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。」と言うことを延々と考えています。一体彼は何故その様なことを考えているのでしょうか。何故唖の鴎になっているのでしょうか。
 この作品では、〈作家の苦悩〉というものが描かれています。
 著者は文学を通して何かやりたいことがある様子ではありますが、今まで自身が満足の出来ることを何一つ出来ていません。ただ「イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ハラ、」と無常にも時間だけが流れていきます。何か一物はある筈なのだが何も出来ていないことから、ゆらゆらと漂う群集と同じではないのかと考えているのです。そして、唖の鴎はそんな著者の自身の無さの表れなのです。自分に自身が持てないために決定的な言葉を誰かに伝えることが出来ず、ただ唖になって黙っているしかないのです。
 ですが、そんな著者の心を救っているものが、秋の青空を映す水たまりの存在です。彼はそこに「秋 の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている」様を見て、ただそこにあるだけでも変化していることを感じ、その事実に救われています。そうしてその水たまりの様は著者に「待つ」という表現を与えているのです。彼はこう考えています。こうして悶々と考えている間にも万物は変化している、だからこそやがて自分にもその変化は訪れるはずである、と。彼に出来ることはただ思い悩みながらも、ただその変化を待つしかないのです。

2010年12月1日水曜日

或恋愛小説―芥川龍之介

 ある婦人雑誌の面接室ででっぷり肥った四十前後の主筆と、主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇する容姿をもつ堀川保吉は次回雑誌に載せる恋愛小説について打ち合わせをしています。ですか、互いの小説観には何か決定的な違いがある様子。それは一体なんなのでしょうか。
 この作品では、〈小説とはどういうものか〉ということが描かれています。
 まず、主筆が考える小説における「近代の傑作」とは、読者に受けるか否かにあるようです。事実、彼はこの打ち合わせの際、一番気にしていることは劇的な変化なのです。つまり、どこで三角関係が発生するのか、どこで夫への愛情裏切り、第3者である達雄と甘い恋愛にその身を注ぐのか、ということです。確かにこのような非現実的で情熱的なシーンがあることによって、読者は主人公に強く共感し、物語に引き込まれることは間違いありません。主筆にとって小説とは、そのあり方よりも実際売れるのかどうかが重要な問題なのです。
 しかし、堀川の考える小説観は、主筆のそれとは全く異なっています。彼は小説の中で、「恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らない」と、恋愛というものを自身の中で一般化し、それを作品の中で表現しようとする姿勢が伺えます。何故なら彼は小説というものは、少なからず読者の認識に影響し、過度に一部を延長させた、非現実的な小説は読者に誤った認識を与えかねないと考えています。ですから、作家である自身が世の中にある諸々を整理しそれを読者に訴えなければいけないことをここで示唆しているのです。

家庭の幸福―太宰治

 著者の家には長年ラジオというものがありませんでしたが、ある日、ひょんなことから彼の家にもラジオが置かれることとなるのです。ですが、著者はなかなかラジオに興味が持てない様子。ところが、自身が病気をしたことをきっかけにラジオに耳を傾けた著者は、一日をそれでつぶすことになってしまいます。そして夜の八時頃、著者は依然とラジオを聞いていたところ、ある奇妙なものを聴取するのです。それは現在の政治に怒り狂う国民と、それを相手にする役人とのやり取りでした。彼はその中で、国民の怒りをさらりと受け流す役人のヘラヘラとした笑い方に注目します。一体彼は、役人の笑いから何を感じているのでしょうか。
 この作品では、〈利己とはどういうことか〉ということが描かれています。
 まず、著者はこの役人たちの笑いから「わが身と立場とを守る笑いだ。防禦の笑いだ。敵の鋭鋒を避ける笑いだ。つまり、ごまかしの笑いである。」等といったものを感じています。
では彼らは何故、このように他人をごまかすことが出来るのでしょうか。と言うのも、私たちは大抵他人が何らかの感情を自分にぶつけられた時、その感情がどこから来ているのかを考えはじめます。つまり相手の立場になって、何故この人はこうも興奮しているのかとわが身に繰り返します。そしてその原因が自分にあると分かれば、ごまかそうとは考えず相応の対応が出来るはずです。
ですが、ここに登場する役人たちはそうではありません。彼らは他人が何を考え、何を怒り、何を悲しんでいるのかなんて、眼中にありません。ただ自分とその周りだけを見ているのです。だから彼らは、国民がどんなに怒りを露にしようともへらへらと笑うことが出来るのです。そうして彼らは他人をごまかし、自分の利益と立場だけを考えることが出来るのです。