2015年1月30日金曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)

 スバーという娘は3人娘の末娘で、言葉が話せません。ですから人々は彼女に感情がないかのように考えており、平気で彼女の前で平気で先の行く末の話や彼女自身の論評をします。そして、彼女の母親もその例外ではなく、自分の身体についた汚点(しみ)のようにすら思っていました。
 しかし彼女は口が聞けない代わりに、整えられた容姿が与えられ、そしてその目にはあらゆる人の気持と、スバー自身の存在を語るかのような説得力を持っていました。それ故、他の子供達は誰も彼女と遊びはしません。
 またスバーの父は彼女を大切に思っているものの、親としての責任を果たすという理由から、彼女を他所の家に嫁がせようとしました。
 そして友人のプラクタは彼女がそれを嫌がっていたにも拘わらず、良きことだと考え祝福したのです。
 更に、彼女の婿はスバーが不具の者である事を知ると、次はものの云える妻と結婚したのでした。

 この作品では、〈唖故に、誰からもその気持を蔑ろにされ続けてきた、ある娘が描〉かれています。

 結局スバーの事を悪く思う人、スバーの事を良く思う人の両方共から、彼女は彼女自身の気持ちを理解される事はありませんでした。
 ですが、そのどちらからも理解されなかったからと言って、彼女自身の気持ちがなくなる訳ではありません。それは普段、自分をも含めて、自分が寝ている間に鼾を聞かれていない人がいるからと云って、鼾が存在しなかったことにならない事と同じです。彼女自身が傷ついた事実は確かに彼女の中に残ります。また、こうした文字に起こすことによって、そうした今にも消えかかりそうな人の気ち持があった事実は、私たちの胸を深く貫く事でしょう。やがて物語のように、声にならない声、あるかないか分からないような人の気持ちの存在が、自分たちの身の回りにも溢れているのではないか、という思いに駆られてくる人は少なからずいるのではないでしょうか。
 そして、そうした人々に知られていない感情の存在を描くことも、物語や小説のひとつの重大なテーマなのです。

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