2015年1月28日水曜日

カイロ団長ー宮沢賢治

 30疋の「あまがえる」達は他の虫達から仕事を頼まれ楽しくこなしていました。
 ある時、ウイスキイを飲ませてくれる「とのさまがえる」のお店に立ち寄ったところ、ガブガブと呑んでしまい、高額な料金を請求される羽目になってしまいます。そして「とのさまがえる」から、警察に突出されたくなければ家来になれ、と言われたのでしぶしぶ言うことを聞くことにしました。
 こうして彼らは「とのさまがえる」の「カイロ団長」率いるカイロ団に加わったのです。その後の「あまがえる」達の労働は過酷なもので、「とのさまがえる」から無理難題を押し付けられていきます。ですが「あまがえる」達は警察に突出されたくない一心で、懸命に云うことを聞こうとしました。
 ところがある時、石を1人900貫ずつ運んでこいと言われたのですが、人間でも持てない石の重さに、彼らは困り果ててしまったのです。
 ちょうどその時、かたつむりのメガホーンが周りに響き、王様の伝令が言い渡されました。要約すると、人に仕事を依頼する時にはその人の気持ちにならなければならず、依頼する前には実際に自分でもそれをやってみなければならない、というようなものだったのです。これを聞いた「あまがえる」達は早速、「とのさまがえる」に自分たちの仕事をさせてみました。「とのさまがえる」は石を動かそうとはしますがビクともせず、しまいには足がキクっと曲がってしまいます。その姿に「あまがえる」達は思わずどっと笑いましたが、後でなんとも云えない寂しい気持ちになっていきました。そんな時、再び王様の伝令が彼らの耳に聞こえます。
「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」
 そこで「あまがえる」達は「とのさまがえる」を助けて、「とのさまがえる」はホロホロ涙を流し反省しはじめました。彼はこれまでの事を詫びて仕立屋をやることを公言し、次の日から「あまがえる」達は再び楽しく仕事をはじめたのです。

 この作品では、〈支配者と非支配者の形勢が逆転した時にこそ、その人の人格が問われる〉ということが描かれています。

 支配者たる「とのさまがえる」が「あまがえる」達を支配し、云うことを聞かせていたにも拘わらず、王様の伝令が下ると、これが「あまがえる」達にとって有利に働き、多くの読者は痛快な気分になることでしょう。まさに「とのさまがえる」は自業自得な目に遭い、「あまがえる」達もどっと笑うのですが、彼らはここで寂しい気持ちになっていきます。と云いますのも、彼らは自分たちの立場を一歩引いたところから考えたのです。そしてその前後はどうであれ、大勢で立場が弱くなった「とのさまがえる」を働かせて笑いものにしているとはどういうことか、という生き物(人間)としての倫理観が働いていったのでした。
 その彼らの姿に、多くの読者は少なからず、「しまった」と思うことでしょう。「カチカチ山」や「桃太郎」のような昔話を呼んだ時、私達は鬼や猿が復讐される様を見て痛快に思った方も少なくはないはずです。またもっと身近な例で言えば、子供の頃、いじめっ子が別の、上級生のいじめっ子に苛められている様などは、自分が苛められておらずとも胸がスッとなるような思いがしたという方もいるかもしれません。
 そしてそういう方たちにこそ、こうした「あまがえる」の感情は胸を打つ事でしょう。酷いことをやっていた人が酷い目に合う姿や、誰かの復讐にあう様は面白いかも知れませんが、それはただ自分の感情が満たされているに過ぎないのです。そしてこうした観点から見た時には、両者は同じレベルでしかなく、尚更寂しい思いがする事でしょう。
 だからそこ物語の「あまがえる」達は、王様の最後のひと押しもあって、自分の感情を満たす為ではなく、生き物としてより良い解決の方法を模索しようとしたからこそ、「とのさまがえる」を助けたのです。

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