2015年1月12日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版2)

 山男は、ある時山鳥を捕らえ、その嬉しさのあまり獲物を振り回して森から出ていきました。そして日当たりの良い枯れ芝に出た彼は横になり、いつの間にか夢の世界へと旅立っていきます。
 夢の中では、山男は木こりに化けて町を歩いていました。そして、彼はそこで「陳」と呼ばれる薬売りに出くわし、六神丸という奇妙な薬を飲まされてしまうのです。すると山男はたちまち小さくなり、薬箱の中へ閉じ込められてしまいました。これには山男も憤慨し、薬箱の中から大きな声を出していました。しかし陳の、「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」という言葉を聞くと、急に不憫に思い、彼にもう騒がないと約束をしたのです。
 ところが、山男と同じように騙され薬を飲んでしまった者達が薬箱の中にたくさんいて、そのうちの1人から、薬箱に入っている黒い丸薬を飲めばもとの姿に戻れるという事を聞くと、彼はすぐにそれを試して陳のもとから逃げようとします。しかし陳も黒い丸薬を飲んで大きくなり、山男を逃しまいと襲ってきました。
 ですが夢はそこで終わり、目が覚めた彼は、山鳥の羽を見たり六神丸の事を考えているうちに、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言ってあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられる者の気持ちを垣間見たにも拘わらず、それまでの生活を行う為に、それをかき消していった、山男〉が描かれています。

 この作品では、もともと生き物の世界において食べる側である山男が、薬になることで食べられる側の気持ちを知ったにも拘わらず、何故か再び食べる側の気持ちに立とうとしています。では、彼が薬となって夢から覚めるまで、彼の心情にどのような変化があったのかを見ていきましょう。
 山男が陳に騙されて薬になったことを知ると、彼は怒り出し、大きな声で外の人々に自分の存在を知らしめて陳を懲らしめてやろうと考えました。しかしあらすじにもある通り、陳の哀願を聞くと、彼はどういうわけか陳を哀れに思い、もう騒がない事を約束したのです。と言いますのも、彼の中にはこの時、2つの立場が存在していました。ひとつは勿論食べられる者の気持ちであり、もうひとつが食べる者の気持ちです。そしてその2間において、食べる側の気持ちから陳に同情し、食べられる者の立場を潔く受け入れていくことを決意していったのでした。つまりこの時の主体は、食べる側にあったのです。
 ところが黒い丸薬を飲んで元の姿に戻った時はどうだったでしょうか。この時山男は食べる側の気持ちから食べられる側の気持ちを見てはいません。自身の生命の危機に直面し、彼は身も心も完全に食べられる側のものになっていました。
 そして目が覚めた時には、彼は既に食べられる側の気持ちをある程度は理解しているはずなのです。しかしそうであるにも拘わらず、彼はええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と、これからも動物を食べる事を選んでいったのです。これはどういうことでしょうか。
 結論から申しますと、これは山男がはじめ食べる者の側の都合から食べられる者の気持ちを考えていたこととも関連していますが、彼は言わばそれまでの生活のあり方からそうした意思決定をしていったのです。
 例えば、私達はスーパーで売られている豚や牛の肉塊を見ても哀れには思いません。お皿に盛られた焼き魚を見ても同情するどころか、美味しそうという、食べる側の視点からそれを見ることでしょう。そう、私達はそれまでの生活のあり方から、動物がどんな残酷な形で調理されても、それまで食事として食べてきた積み重ねから、中々可哀想という感情がわきにくくなっています。言わば、食べ物の気持ちにはなりにくいのです。そしてもし、それらの気持ちに近づきすぎると、それまで積み重ねてきた生活を続けることが困難になっていきます。
 話を物語に戻すと、この山男も矢張りそうです。彼はそれまでの自分の生活を守るために、またそれまで積み重ねてきた自分と食べ物の関係に引きずられる形で、食べられる動物の側の気持ちを考える事をやめていってしまったのでした。山男にとって、食べられる者の気持ちを考えることは、自分の生活を変えることと同じ意味を持っていたのです。

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