2015年1月23日金曜日

四季とその折々ー黒島伝治

 著者はここ2、3年のうちに、小豆島の四季の行事を徐々に楽しめるようになってきたのだといいます。と言いますのも、著者はそれまで山の小さい桐の木を誰かが一本伐ったぐらいで大問題にしたり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣る様子を冷ややかな目で観察していたのです。しかしそれらは自身が年を重ねていくうちに、その楽しさ、重要性が分かってきたと言います。一体それはどのようなものなのでしょうか。

 この作品では、〈人は生活経験を重ねていくにつれて、自然の変化を大切にするようになっていくものである〉ということが描かれています。

 著者は若かりし頃、村の老人たちが桐の木を伐られて目くじらを立てたり、初詣に毎年熱心に通ったりする様を見て、「まるで子供のように」と非難していました。これにはあたかも子どもがおもちゃを取り上げられて憤慨したり、遊園地に連れて行かれ喜ぶ様に似ていた為に、こうした表現を用いたのでしょう。
 ですが彼らが村の木や行事にここまで自身の感情を揺さぶられるのは、そうした事とは似て非なるものでした。それは下記の箇所を見れば理解できることでしょう。

彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。

 若いうちは受験や仕事、結婚や出産といったように、毎年毎年目まぐるしい変化や刺激が待ち構えており、とてもではありませんが、自然の変化に目を向ける暇もありません。それに何より、それらを捉える経験も視点も持ちあわせていないのです。
 しかし、その後は生活も落ち着き、毎日の変化は徐々に減っていき暮らしが平坦なものになっていくにつれて、人々は何処か生活における「張り」のようなものを年を重ねる事に失っていくことでしょう。
 ところがある時ふと自分の周りと見てみると、「自分たちが子どもの頃には、あれ程小さかった松の木が今では自分の身長を超える程立派に育っていった」、「昨年はこの川にはホタルが少なかったが、今年はやや増えている」などというように、長年のなんとなくの定点観測の末に、自然に興味を持ち、小さな変化にも気づけるようになっていくのです。
 ですから、村の老人たちが自然や行事に目くじらを立てるのは、自分たちが大切にしている事以上に、それらが自分たちと共に生きてきた歴史を指し示すものであり、人生の変化を指し示す指標だからに他ならないのです。彼らは毎年の季節や自然に触れることで、現在の自分の位置を確認し、その変化の足あとを楽しんでいたのでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿