2015年1月22日木曜日

あいびきーイワン・ツルゲーネフ

 夏の気配を残しながらも、秋が今にも深まっていこうとしている頃、「自分」は白樺林の自然を堪能しているとウトウトと眠りはじめてしまいます。
 やがて目が覚めると、近くに農夫の娘らしき人物が近くに座っていました。ですが、向こうは「自分」には気がついておらず、何やら不安な面持ちで誰かを待っている様子。すると茂みの方から、「ヴィクトル」と呼ばれる男がやってきます。どうやら話を聞く限り良い家柄の出身で、彼から「アクーリナ」と呼ばれている農家の娘は、彼を待っていたようなのです。ところが彼らは恋仲のようなのですが、「ヴィクトル」は明日この地を離れるのだと言います。そしてそれを聞いた「アクーリナ」は目に涙を溜めていきます。しかしそうした彼女とは対照的に、「ヴィクトル」は冷たく、彼女の行動に明らかな嫌悪感を感じていました。やがて「アクーリナ」に見かねた彼は、彼女の制止もきかず、その場を立ち去ってしまいます。
 その様子を文字通り、草葉の陰から見ていた「自分」は、見るに見かねて「アクーリナ」近づこうしました。ですが彼の存在に気がついた彼女は、慌ててその場を立ち去り、後には彼女が持っていた草花の束ねだけが残ったのです。そこで「自分」はそれを持ち帰り、現在でもからびたまま秘蔵してあるのだといいます。

 この作品では、〈決して接点を持つことのなかった2人のうち片方が、鑑賞者としての視点を持ったが故に、その存在を認めていった〉ことが描かれています。

 この作品の面白みは、何も知らない「自分」が、農家の娘と上品な生まれの青年との「あいびき」の一場面を、まるでスクリーンのない映画でも鑑賞するかのように見守っているというところにあります。そして彼と2人の間には、接点が全くなく、「自分」から見れば2人は物語の登場人物なのであり、「自分」はただの鑑賞者にしか過ぎません。
 ですがこの場合と映画との違いは、幾ら鑑賞者とは言えでも、その気になれば舞台に上がれるということなのです。そして「自分」はそれをやってのけます。と言いますのも、「ヴィクトル」にあまりにも邪険にされ過ぎていた為、「アクーリナ」が不憫になり、何かしたい思いに駆られていったのです。
 しかし当の本人たちからすれば、当然「自分」という存在は全くなんの関係も縁のない存在であり、ただの他人と対面した「アクーリナ」は慌ててその場を去ってしまいます。
 ですがそこに残された草花の束ねは、確かに「アクーリナ」という娘が確かにそこにいた事を示す何よりの証拠であると同時に、「自分」と彼女とが、これからの人生で交わる事がないであろう2人が僅かながらの接点を持ち得た唯一のものでもあるのです。ですから彼は、花束をその場から持ち帰る気になったのでした。
 よって自分は鑑賞者としての視点を持っていた為に、本や映画の登場人物を見るかのように、一方的に「アクーリナ」へ感情移入しその思いをいつまでも大切にしていったのです。

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