2015年1月16日金曜日

「紋」ー黒島伝治

 「おりくばあさん」の家で生まれて育った猫、「紋」は、近頃他家の台所で魚を盗んだり、お櫃(ひつ)を床に落として米を食べたりする事を覚えてしまった様子。おかげでおりくと「じいさん」は村中の人々から白い目で見られるようになっていきました。そこでおりくは泣く泣く幾度か猫を捨てようと試みたのです。
 ところが猫は何度おりくが捨てても、いつの間にか戻ってきてしまいます。そしておりくもおりくで、猫が戻ってくるとあたたかくご飯を出してあげるのでした。しかし、根本的な問題は解決せず、猫は魚や雛鳥を盗んで食べますし、その度に村の人々はこの老夫婦と猫にきつくあたっていきます。それがエスカレートしていき、やがて老夫婦の家には風呂がないことをいいことに、村の人々は誰も2人を風呂に入れようとはせず、猫は棒を持った人々に追いかけられていくようになっていきました。
 そして遂におりくは港から出る発動機船に猫を乗せて、本土へ送ることにしたのです。ですが猫は本土に降りると再び船に乗り込もうとするところを船方に発見され、水荷い棒で殴られ、海に沈んでしまいます。それを船方から聞いたおりくは、沈み込んでしまうのでした。


 この作品では、〈村という閉鎖的な結びつきが他人を攻撃する事もあれば、それがより強い結びつきをつくることもある〉という事が描かれています。

 この作品を読んでいく中で、読者は村人から見える猫と老夫婦、おりくから見える猫とを対比せずにはいられないのではないのでしょうか。何故ならそれらはどちらも閉鎖的な社会に属していながらも、対象の扱いに大きな開きがあるからに他なりません。と言いますのも、おりくは幾度も猫がしでかした盗みによって、村の人々から白い目で見られ、挙句の果ては風呂まで入らせてくれないようになっていきます。ですが、人々からどんな嫌がらせを受けようととも、おりくは捨てようとはするものの、決して邪険に扱ったり罵ったり、暴力を振るったりすることはなく、猫が帰ってくるといつもあたたかく迎えるのでした。
 一方、村の人々は猫が盗みを働くと、猫だけではなく、老夫婦をも攻撃します。そしてその人々というのは、何も実害を被った人々に限らず、地主の下男や子供達など、直接関係のない者達からも危害を加えられるのでした。
 この両者には一体どのような違いがあるのでしょうか。それは下記の一文に大きなヒントが隠されています。これはじいさんが村の人々からの冷たい視線に耐えかねて、「もうあんな奴は放ってしまえ。」と言った一言に対しておりくが反論したものです。

「捨てる云うたって、家に生まれて育った猫じゃのに可愛そうじゃの」

 おりくの言い分では、どのように悪事を働こうとも盗もうとも、同じ家で生まれ育ったからには、それなりの運命共同体としての蓄積があり、村の人々からちょっと冷たくされただけでは切り離すわけにはいかない、という「閉鎖的な社会でお互いに育ったからこそ」の、感情的な言い分が潜んでいます。
 対する村の人々の言い分も考えてみましょう。直接被害を被っていない、下男や子供達が猫や老夫婦を攻撃するあたりを察するに、こちらも「閉鎖的な社会でお互いに生きているからこそ」、いつまでも盗みを働く猫を飼われていては困る、という言い分が潜んでいるのです。田舎という資金がなく物資の限られている社会では、物資や資金を蝕む者の存在はその家の者だけの問題ではなく、時には村全体に関わる問題にだって発展しかねない事でしょう。ですからこちらは現実的な言い分を述べている事になります。
 そしておりくの側では、感情的な意見を述べる一方で村の人々の現実的な意見にも、一定の理解を示しています。ですから彼女は、猫を船に乗せて本土に送らねばならなかった自分の運命、そして村に帰ってきては困ると考えている船方に殺されどうすることも出来なかった猫に対し、ただただ気持ちを沈めていくしかなかったのです。

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