この作品で、著者はタイトル通り、元日について論じています。そして、そこには元日に対する、彼のある〈違和感〉が描かれています。それはめでたくもない元日に、世間の習慣に合わせてめでたいように振舞わなければならない、ということです。また彼はめでたく振舞う事によって、かえってめでたくなくなるのではないか、とも考えています。その例として、著者は昨年の自身の随筆の中で、元旦について何も浮かばなかったので、一昨年の元旦の自分の恥を告白しなければならなかったことを明かしています。
さて、確かに彼の言うとおり、確かに自分の気持ちを周りに合わせようとしてかえって失敗してしまった、ということは私たちの生活の中にも潜んでいます。例えば、あなたは異性の友人の結婚式に呼ばれ、仲人を頼まれたとします。当然、あなたはその友人のため、必死でスピーチを練ってくることでしょう。そして、当然他の友人達と同様、めでたいように振る舞います。ですが、その友人があなたがかつて淡い恋心を抱いていた相手だったとしたら、果たして心の底から祝福できるでしょうか。勿論、式の最中にそんな素振りを見せることは出来ませんので、表面は楽しく振舞うでしょう。しかし、その内心は穏やかなものではない筈です。ましてや本心から喜んでいないにも拘らず、他の友人に合わせて彼女を祝福しなければならない立場にいるのです。素直に自分の感情を表現できないということは、通常のそれとは比べ物にならないほど辛いはずです。少し、レベルは違う話ではありますが、このように私にとって、自分の気持ちを無理やり合わせようとして、かえって失敗するということは稀ではない話なのです。
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