2011年1月26日水曜日

猿ヶ島ー太宰治

はるばる海を超え、ある島にやってきた「私」は、そこが何処であるのかを散策している最中、自分と同じ猿である「彼」に出会います。「彼」は「私」よりもこの島に長くからいるらしく、「私」に島に関する様々なことを教えてくれます。そして、「私」が人間たちをその島で目撃した時、「私」は「彼」の口からこの島の真実を聞くことになるのです。
この作品では、〈甘んじるとはどういうことか〉ということが描かれています。
まず、この物語の鍵を握るこの島の真実ですが、それは実は「私」を含む猿たちは人間の見世物になっており、島は動物園の敷地の中だったのです。これを知った「私」は「彼」共に危険を冒し、動物園を脱出しました。さてここで注目すべきは、行動だけを見れば2人共動物園を逃げ出した同じ脱走者なのですが、その動機には大きな違いがあるのです。
はじめに「私」の動機ですが、彼は山で自分を捕らえ、無理やりここまで連れてきた人間に強い怒りを感じており、その人間に見世物にされていることを恥じています。そして人一倍プライドの高い「私」は自身の羞恥心に従い、動物園を脱出しました。
一方の「彼」ですが、そもそも「彼」は動物園の暮らしに全く不満を感じていませんでした。むしろ、「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」とその生活に満足さえしているのです。ですが、その傍らでは「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。」と自身の故郷を懐かしんでいます。「彼」は自身の故郷を懐かしく感じながらも、動物園から出る恐怖とその場の居心地の良さから、今の環境に甘んじているのです。そして、そんな「彼」が彼と行動を共にした理由はなんでしょうか。そもそも「彼」というのは、「私」が来るまではずっと一人ぼっちだったと語っています。そして孤独な毎日を送る中、ある日同じ日本出身の猿が同じ境遇を経て、この動物園にやってきたのです。それは「彼」にとってどれほど嬉しいことだったのでしょう。何しろ「彼」がこれまで苦労して築いてきた縄張りをあっさりと、「ふたりの場所」にしてしまったのですから。まさに、「彼」は「私」の中に自分と同じものを感じているのです。しかし、そんな中、「私」はこの島の真実を知ると、すぐに動物園から出て行くというではありませんか。「私」がいなくなれば、「彼」再び孤独になってしまいます。そして、「私」の制止に失敗した「彼」は孤独になることを恐れ、「私」と共についていくことにしたのです。
このように、「彼」はその環境こそ変わりはしましたが、「彼」の中にある、何かに甘んじるという姿勢は対象を変えただけであり、根本は何も変わっていないということが理解できます。

さて、この現象を現実に当てはまると、どのようなことになるのでしょうか。例えば、学校に遅刻しないで通学した2人の学生がいるとします。この2人は行動だけ見れば同じ遅刻をしなかった者同士ですが、それぞれの動機は同じとは限りません。一方は先生に叱られる事が嫌で、毎日真面目に通学している人だとします。そしてもう一方の学生は、自身の勉強に対する姿勢として、遅刻しないことなど当たり前だと考えている人です。そして、この2人の間にある大きな違いとは何も動機ではありません。最大の違いは、他人というものが関係ないということがいえるでしょう。前者は先生という第3者の存在があり、そのために遅刻を嫌っています。ですが、後者はいかなる状況においても、勉学をするのであれば、遅刻は絶対にしないでしょう。

それでは、上記の例を踏まえて、もう一度物語を見てみましょう。すると、「彼」という人物は、環境に左右されやすく、たまたま「私」が脱走したから、ついて行ったに過ぎません。一方の「私」は自身の恥から、動物園を脱走しています。このように行動が同じなために、レベルが見えにくい場合でも、その動機によってそこには大きな違いがあることは確かなのです。

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