2011年1月27日木曜日

疑惑ー芥川龍之介

 ある年の春、著者は実践倫理学の講義を依頼されて、その間一週間ばかり、岐阜県の下の大垣町へ滞在する事になりました。そんなある夜のこと、彼のもとを何者かが訪ねてきます。その者は自身を中村玄道と名乗り、著者に聞いてほしいことがあるというのです。そしてその話から著者は、彼の恐ろしい一面を垣間見ることとなるのです。
この作品では、〈勘違いとはどういうことか〉ということが描かれています。
まずこの玄道という男の悲劇は、彼が濃尾の大地震で妻を殺してしまったことからはじまります。というのも、彼もはじめのうちは「生きながら火に焼かれるよりはと思って、私が手にかけて殺して来ました。」と、火に焼かれ死んでいく妻に同情し、自ら手をかけたと考えていましたが、徐々に、様々なことをきっかけに自分は本当は妻を殺したくて殺したのではないかと、考えるようになっていったのです。ところが、もしそうだとすれば、妻の体を梁の下から引きずり出そうとしたことや、火の粉から妻の体を自分の身を挺して庇ったことへの説明がつかなくなります。はじめから殺したけければ、そのような行動に出るはずがありません。
では、彼は何故このように殺人衝動を自身の内に見ているのでしょうか。これは上記とやや矛盾するかもしれませんが、そもそも、彼にも少なからず妻を殺したかった気持ちはありました。それは本人も認めています。ですが、これはあくまでも「少なからず」思っていることであり、もともとそれが彼の心の中心にあったわけではありません。しかし、今回の妻の殺人によってその衝動が浮き彫りになってしまい、彼を悩ませることになっていきました。言わば、殺人という大きな現象に引きずられ、徐々にもともとの本心が追いやられ、その現象に合うような感情を引っ張てきてしまったのです。
さて、ではこれを私たちの世界の出来事に置き換えると、どのようなことになるのでしょうか。例えば、ある男性が道端で歩いていると、同僚の女性が何か捜し物をしている様子。そして彼女と親しかった男性は、彼女を助けようと思い、一緒に捜すことにします。その中で、男性はもう一度、何故自分は彼女と捜し物をしているのか、改めて考えてみます。すると、自身は彼女のことが好きで、実は以前からこのようなチャンスを望んでいたのではないか、と思い始めます。
このように、はじめの感情とは別に、ある感情を用意し、それを現象に当てはめることを私たちは〈勘違い〉と呼びます。まさに、彼は妻を殺してしまったことにより〈勘違い〉を起こし、自分で自分を苦しめているのです。

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