2011年1月22日土曜日

極楽ー菊池寛

 京師室町姉小路下る染物悉皆商近江屋宗兵衛の老母おかんは、文化二年二月二十三日六十六歳にしてこの世を去りました。そして彼女が再び意識を取り戻したときには、薄闇の世界におり、その中を彼女は歩き出します。極楽とも地獄とも分からぬ道をただ、「南無阿弥陀仏々々」と唱えながら一心不乱に長い長い道のりをただ歩きます。果たして、そこは極楽なのでしょうか、それとも地獄なのでしょうか。
この作品では、〈生きるとはどういうことか〉が描かれています。
彼女が長い道のりの果てに着いた場所は、浄土真宗の教えの通りの極楽の世界がそこにはひろがっていました。そして、おかんはその場所で自身の夫である宗兵衛と再会を果たします。そして彼女は暫くの間は、娑婆での生活の話、極楽の景色を楽しむのです。ですが、そういった話も尽きて、極楽の景色にも慣れてしまうと、やがて極楽の暮らしにも飽きていき、何も感じず、ただ座っているだけの状態になっていきます。では、彼女はどうしてこのような状態になってしまったのでしょうか。
彼女はここに辿りつくまでの間、極楽に行くという目的がありました。その目的を思うと彼女は、「一日々々が何となく楽しみであった。あの死際に、可愛い孫女の泣き声を聞いた時でも、お浄土の事を一心に念じて居ると、あの悲しそうな泣き声までが、いみじいお経か何かのように聞えて居た」とさえ述べています。そう、彼女にとってこの目的こそが、生きる糧であり、望みだったのです。ところが、その目的を果たしてしまうと、はじめは多少の刺激に満足していましたが、やがて何をするでもなく、ただそこにいるだけの状態になってしまったのです。
また、これは極楽に行かずとも、私たちの世界でも起こっている現象なのです。たまに、奥さんと死別し、仕事も定年し、子供達も独立しただ毎日生活しているという老人の話を耳にすることがあります。この老人たちは何か目的があって生きているのでしょうか。もしそうでないのであれば、彼らはこの物語のお韓と同じく、ただそこにいるだけの状態ということが言えるでしょう。
生きているとは、ただその場にいるだけではなく、何か目的を持って生活をしている状態のことを指すのです。

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