治承(1177年から1180年までの期間の元号)2年9月23日のこと、謀反を起こしたために流罪にされてしまった康頼、成経、俊寛の3人は厳しい孤島生活で心も気力も叩きのめされていた頃、一隻の船が彼らの前に現れます。それは清盛からの赦免の使者である、丹左衛門尉基康(たんさえもんじょうもとやす)を乗せた船で、彼は流人の身となった3人を島から助けるためにやってきたのでした。3人は喜び声をあげますが、基康の持ってきた教書には、俊寛の名前は書かれていませんでした。これには俊寛も怒りを露にして使者を罵りましたが、そうしたところで事態は変わりません。結局、彼だけが島に取り残される事となったのです。
そして源氏の世となった頃、かつて俊寛のもとで雇われていた有王(ありおう)は、彼の最後を見届けるべく孤島に足を踏み入れます。ですが、既に故主は死んだと思っていた彼の予想は大きく外れ、俊寛は南蛮の女と契を交わし子を生み、浅ましい姿をして生きていました。こうした主の姿を見て有王は、俊寛は流人になった事で心までが畜生道におちたのだと考え、都に帰るように説得します。ですが、彼に首を縦には振らず、「俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」と有王に言うばかりでした。やがて有王は、彼とその家族を帰りの船から見ることとなりますが、はじめはその姿を浅ましいと思っていましたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、彼の頬を伝っていきました。
この作品では、〈現在の環境に適応するために俗世の価値観を捨てたことにより、人間としての逞しさを手に入れた、ある男〉が描かれています。
この作品を最後まで読んだ時、私達は有王の「最初はそれを獣か何かの一群のようにあさましいと思っていたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、自分の頬を伝っているのに気がついた。」という彼ら家族を船から見ていた時の感想に目を見張ることでしょう。彼はそれまで、かつての主人の姿、孤島で手に入れたものをただ浅ましいとばかり感じ嘆いていたのにも拘らず、何故「熱い涙」を流したのでしょうか。それは、孤島の中で手に入れたものの中心にいる主人、俊寛から生きる逞しさを垣間見たからではないでしょうか。
そもそも彼ははじめ流罪になった2人と同様、孤島での生活を嫌っており都に帰ることを羨望していました。またそうした思いから、孤島の環境に自らすすんで馴染もうとはせず、ただ都に帰れないことを嘆くばかりでした。つまり彼は今ある価値観が環境に適応しない為に、そこに馴染めずにいたという事になります。
しかし、清盛の使者に捨てられた事により、彼は都への思いをも捨てる事になります。というのも、一人取り残された彼は、船に向かって叫び、それを追いました。そのうち彼は昏倒し、激しい水の渇きを感じはじめます。しかし、あたりを探しても水は一滴もありません。やがて彼は激しい渇きと飢えの末、自殺をも考えはじめす。しかしたまたま近くにあった泉と椰子を発見し、犬のようにはいつくばって水をがぶがぶ飲み、椰子の実を貪るとそうした気持ちも忘れてしまいました。そして気持ちが少し落ち着くと、彼は空腹が満たされるにつれて、それまであった都での出来事に対する思い、また自殺への気持ちを忘れていった体験から、それらの事が浅ましいと思うようになっていきました。そして、彼は俗世への思いを断ち切り、またそうした習慣も捨て、孤島を真如となるための道場だと考え、そこに自らを適応させていきます。こうして彼は今ある環境を自分の価値観に合わせるのではなく、自分の価値観を今ある環境に合わせた事で、あらゆる環境に対応できる逞しさを手に入れていったのです。
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