文学を志す青年、「俺」は同じく文壇への野望を抱いている「山野」や「桑田」らの天分への嫉妬から、また彼らから直接的に受ける圧迫から、東京を離れ京都へと移り住んで日々精進していました。ですが、「俺」がどうにかして山野達に追いつこうと四苦八苦している一方、その山野達は自分たちの雑誌をつくり、文壇へ出ていきます。こうした現実に「俺」は彼らに対して嫉妬を感じ、一人取り残される淋しさに耐えられなくなっていきます。しかし次第に彼はそうした感情を失い、やがては自分から文学への道を諦めていってしまうのです。
この作品では、〈友人たちが文壇に名をあげていき、自分だけが取り残されることに淋しさと不安を感じるあまり、かえって文学の道を捨てなければならなかった、ある男〉が描かれています。
この作品の主人公である「俺」は、日頃から自分には「将来作家としてやっていくだけの天分があるのかという不安」、「文壇へ出れないことへの淋しさ」を感じていました。ですがその一方で同じく文学の道を志し、彼が仲間意識をよせている山野や桑田らの「誰か一人有名になれば、もうしめたものだ、そいつが、残りの者を順番に引き立てていけばいいんだ」という強い言葉、姿勢からそれらを拭い去り、安心を得ていました。しかし、こう語る彼らの方では「俺」の存在を軽く見ており、自分たちとは才能という点において大きな隔たりがあると考えています。また彼らのこうした考えは頭の中だけには留まらず、彼らの「俺」に対する態度にも表れていました。その為、彼は日頃からある不安、淋しさを一層強くしていったことでしょう。
そこで彼は、一旦山野達のもとを離れ、京都で創作活動をすることを決意します。京都で活動し続ける中で、「俺」はかつて天才と激賞されながらも未だ文壇に出ていない吉野、150枚の長編を短編と称しマイペースに夢へと進む杉田と知り合います。また、この時点では彼ら山野達は文壇に進出しておらず、文学の道を志しているという点では同じ立場にいました。ですから「俺」はこの2人に対して尊敬する点をそれぞれに見つけ出し、山野達から得られなくなった安心感を代わりに彼らから得ることにしました。
ですが、こうした彼らから得る安心感というものは、やがて脆く崩れ去ってしまいます。山野達が文壇へ徐々に進出していく一方で、吉野は彼らを批判するばかりで文芸雑誌に彼の作品が載ることはありませんし、杉田は杉田で知り合いの有名作家がいつかは自分の作品を雑誌に載せてくれるはずだと夢想を描くばかり。こうして山野達が吉野達との実力を明らかにしていくにつれて、「俺」は吉野達の言葉への信頼を失っていくのです。そして彼自身もまた、ある時を境に山野と自分の立場の違いを見せつけられることになります。それは山野が書いた、「俺」の作品を出来が良ければ自分たちの雑誌に載せたいという旨の手紙を彼が受け取ったことがきっかけとなります。実はこれは山野の「俺」の作品を読んでひとつ嘲笑しようという罠であり、彼は見事に引っかかってしまいます。
こうして立場の違いを見せつけられた「俺」は一層の淋しさ、不安を感じたに違いありません。不安と淋しさにとり憑かれた彼は、どうにかしてこれらを払拭したいところ。そこで彼は、偉人であるアナトール・フランスの下記の言葉を借りて、自らのそれまでの考え方を一転させます。
太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいる蚯蚓は、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない
つまり、彼の主張では幾ら作品を書き続けたところで、人間が滅んでしまえば芸術などは意味のないものであり、価値のないものである。従って作品を書くことは無意味なものであり、山野らの作品もその例外ではない、と考えていくようになっていきます。こう結論付けることで「俺」は不安の原因であった作家への夢を捨てて、山野達との立場の違いを自分のレベルにまで引き下げて、淋しさを払拭していったのです。
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