〈あらすじ〉
ある日、黒田家に突然長年家を出ていた父が帰ってきます。そして何食わぬ顔で母や子供たちに話しかける父に対して、一同もそれに合わせています。ですが、長男の賢二郎だけは、父がいないために受けた苦労から彼に反抗し、自分たちの父は父の権利を放棄して出ていった。従って今目の前で父と名乗る人物は、父ではないので出ていくべきだと主張しています。これに対して、次男の新二郎は、それでも父は父ではないかと兄に反論します。ですが、この兄弟の言い合いを横で見ていた父は、やがて自ら家を去ることを決意していくのでした。
〈一般性〉
この作品では、〈同情の念が強すぎたあまりに、かえって父を家から追い出してしまったある兄弟〉が描かれています。
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はじめは、次男の同情の念が父の心を動かし、自責し家を出ていく決意をしているのだと考えていました。ですが、(哀願するがごとく瞳を光らせながら)という箇所から、そうではなく、議論の末の諦めから家を出ることを決心したのであり、自分が考えていた一般性は間違いであったことに気づきます。
〈論証〉
この作品で積極的に物語を動かしている人物は、上で登場する長男の賢二郎、次男の新二郎、そしてその父の3人です。そして賢治郎と新二郎は父を彼らで面倒を見るのか否かで議論をはじめます。兄の賢二郎の主張では、父は父としての義務を放棄してこの家を出ていった。幾ら形の上では父とは言っても、それだけで何もしていない父は、果たして父と呼べるのかと、言わば父としての本質的なあり方と他の家族たちに問いただしています。これに対して次男の新二郎は、形だけでも父は父である。そして現在の父は一人で暮らすことは困難であり、誰かが面倒を見る必要があるのではないか、と、同情の念から形式的な父のあり方をここでは採用しようとしています。
では、一方の父はこの2人の議論をどのように見ていたのでしょうか。彼もまた、3日間家の敷居を跨ぐか否かで迷っているあたり、本質と形式との間で悩んでいた事が理解できます。本質的には父と呼べることは、家族に対して何一つしてあげられなかった。よって父と思われる視覚はない。しかし、年もとって生活にも苦労し、孤独を感じはじめた今、家族を頼る以外に他はない。そして、家族が自分を迎え入れる理由としては、形式的に自分が父であるという一点以外にないであろう。恐らく、彼は3日間家の前に立ってはこのような事を考えていたのでしょう。
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上記で述べたように、自分の考えた一般性は間違ってはいるものの、2人の父の像からくる対立、及び父の心情がこの作品の一般性を引き出すヒントになると考えたので、この箇所は残しておきました。
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